やっと30分ではなくなって、ほっとしている。5時15分を待って走った。45分に着いたのではなく、44分に到着だ。29分! 1分早かった。

もう夏の朝だ。じわじわと冬から春になり、いつしか夏に突入である。むっとした夏特有の外気だが、朝一なので気持ちが悪い訳ではない。茂って背の高くなった草達が、私の肩に触れようとする。ジョギングロードを、彼らの声援が聞こえて来るようである。

鳶が1羽、昨日より更に高い上空を、羽根を広げて旋回していた。くすんだ色の空に転々と浮かぶ雲を背景に。差し詰め、夕方なら見応えがあっただろう。♪夕焼け空が真っ赤っか。トンビがくるりと輪を描いた。

飴玉を頬張り、3個はポケットに入れた。この余裕は一体何か。蓄えがあると言うのは、ここまで安心させるものなのか。まだ3つもあると思うのと、後1つしかないと思うのとの違いだ。ないない、と思いながら暮らす緊張感なら要らない。あるからと言って、10個もポケットに入れている満足感も要らない。丁度いいだけで、丁度いい。それに、ちょこっとの余裕でいい。

1個ポッケにある場合、何処で舐めようかと、その事を前提とした欲望が湧き起こる。とても家まで持って帰る事は無理である。食べる事に決めているので。

3個ある場合はどうだろう。余裕で1個をポッケから出す。そして、後2個あると言う余韻に浸るのだ。もう一つを食べる。それも余韻を引き摺っている。最後の1個は持って帰ろう。そんな理性が働くのだ。

欲望や衝動と理性との差は大きい。ポケットに1個ある場合と3個ある場合では、まるで次元が違うのである。

昨日は夜になって4人が車で戻って来た。それまで、私は1人だった。昼はレトルトカレーを、炊飯器に1杯分残されていた白米に掛けて食べた。それからオカリナの練習をし、夕方は一人で夕食を済ます為に、買い出しに行った。

7時を過ぎたコープは、おかず類には値引きのシートも貼られていた。お目当ての赤飯はなかった。が、たった一つご飯があった。それも半額だから50円か。これで最低、主食をゲットした。

ポテトサラダに唐揚げ、飴状になった中華風の細長い芋を買った。それぞれ半分も食べたら、残りは帰って来た者が誰かが食べるだろうと思った。その他、辛口のレトルトカレーを3つ買った。今晩もカレーにしようと思ったら、わくわくした。

梅干し1個追加。変則な食べ方になったが、これに焼酎のオンザロックを足した。福山の娘の旦那が、父の日に送ってくれたものだ。去年は「初垂れ(はなたれ)」で、これは滅法旨かった。今年は四万十川源流特産の栗焼酎「ダバダ火振」。栗のまろやかな香りを楽しめる。これも超旨い。「株式会社無手無冠(むてむか)高知県高岡郡四万十町大正452 TEL.0880-27-0316」。

明日の昼もカレーが食べられると言うのは至上の喜びだが、こうしてカレーを食べながら焼酎が飲めるのは、天上人のような幸せであろう。

そう言っても私は雰囲気党で、上戸なんかではない。下戸だと思っている。下戸は、手元の辞書では「酒の飲めないこと(人)」とあって、全く飲めないと解釈出来そうだ。だが私はずっと、下戸はほんの少しは飲める人の事だと思っていた。ビールをグラスで1、2杯しか飲めない人は当然のように下戸だと思って来た。この辞書も、どれ位飲めないかが分からない。拡大解釈して、ちょっとだけ飲める人は、下戸と呼ぼう。そうでないと、そんな人を中戸と呼ばなければならない。「ちゅうこ(中古)」と言う響きが、失礼にならないとは限らないのである。