奄美サンプラザホテルの10階の1室で、4時に目が開いた。3人でそれぞれに準備をして、5時にロビーに下りた。外は暗かったが、フロントマンは寝ぼけ顔ではなかった。

名瀬新港まではとても歩く距離ではない。タクシーを2台呼んで、港に向かった。奄美の暗くて寒い早朝だった。ワンメーターの料金は関西より安い。

名瀬新港で乗船の手続きが終わると、ゲートと飛行機を繋ぐ通路に似たやや汚れた、緑っぽい広めの通路を通り、乗船した。15人が横に並んで寝られるように、煎餅蒲団と毛布と枕が置いてある。誰彼お構いなしで、混んでいる時などは誰が隣に来るか分からない。そんな蒲団が、縦に並び、横に並び、区画に並んでいる。

5時50分の出航だ。起きて座っているには余りにも退屈で、眠い。程よく目覚めると、窓の外に太平洋が見えた。クジラもイルカも見えなかった。シマさんは飛び魚を見たと言った。

昨夜コンビニで買っていたおにぎりと、残っていた焼き鳥を食べた。一つ階を上がるとシマさんもいて、感慨深そうに、大きな窓から海を見ていた。

「あれが、トンバラ岩だ」

と、大小の岩礁を指差した。シマさんに取っては、間もなく徳之島に着くと言う印だったと思う。昔は、この岩を見て、生家に思いを馳せたに違いない。私が出雲の故郷に帰る時は、宍道湖が右手に見え出すとそんな思いに駆られた。斐伊川に掛けられた神立橋(かんだちばし)を渡ると、胸が騒いだ。

また、学生の時は、出雲号で17時間半かかって東京に戻る時、朝方大船を過ぎ、品川と言う声を聞くと、やっと東京へ帰って来たと思ったものだ。

右手にトンバラ岩は小さく見えていた。

やがて1万トン近くあると思われるこの船は、徳之島の亀津港に接岸した。船を下りて見上げると、改めてその巨大さを見せ付けられた。盆、正月になると乗れない人も出る位満席になると言う。まるで象の腹を百数十倍にも拡大したようなMARIX LINEを尻目に、レンタカーの事務所まで歩いた。女性の事務員が迎えに来ていた。

すぐ途中で車を交換する事態もあったが、再びシマさんの運転で、快適な旅の口火が切られた。里久浜を見て、金見岬へと向かった。

途中、畦プリンスビーチ海浜公園に立ち寄る。ここは昭和47年に、天皇陛下が皇太子時代に美智子妃殿下と海水浴をされた事から名付けられている。海の水に素早く指を浸けて舐めてみる。普通の海水より薄味のような気がした。濃度は同じなのに、何故か舌はそう感じたのである。

里久浜から畦へ行く途中に花徳村がある。ここは通り過ぎたが、かつての同僚の故郷でもあり、この地名はよく聞かされていた。

金見岬へは、ソテツトンネルを通り抜ける。

蘇鉄は1本や2本植わっている所をお寺などでよく見かけるが、こんなに両脇に50メートル以上あるトンネルを形成している所など、見た事がなかった。畑の防風林になっていると言う事だった。

皆、蘇鉄の実に心奪われていた。赤い蘇鉄の実と言っても所謂赤色ではなく、寧ろ濃い橙色を呈している。♪赤い蘇鉄の実も熟れる頃・・とした方が、橙色の蘇鉄の実とするよりしっくりする。初めて見たものだから、本当に真っ赤な実かと、ずっと思っていた。まるで鳥の巣のように、幾つもの実が並んでいる。

シマさんがそれを棒を伸ばして取ると、皆が拾った。珍しいのである。入り口に残されたものが一番綺麗だと分かり、帰りにもう一度ここで取る事にした。

展望台からの眺望は、曇っていたが流石に美しかった。その途中に貝殻細工などの茶店風の土産屋さんがあったが、休業日だった。如何にも残念そうだった。それは誰か分かるかな?

金見岬からは、太平洋と東シナ海が分けられている境界を見る事が出来た。ものの案内本には、「トンネルを抜けると眼前に紺碧の海と空が広がっています」と書いてある。残念なのは、ただ只管曇り空だった事だ。

小高い丘のような道路に面して、昼食をとった「ぶるぅ~めぇ~る」が金見岬の近くにある。車で移動したが、すぐだった。

カツ丼組と唐揚げ定食組に分かれた。途中で聞くと、唐揚げは滅法美味いと言った。

徳之島町のすぐ隣りに接した北側天城町にあるムシロ瀬があり、ムシロを敷き詰めたような岩が広がり、壮大な景観である。南国では余り見られない花崗岩の海岸線だ。

車を走らせていると、女性が走っている。これが尚子ロードなのだ。県道沿いに徳之島の北部を走る31.2キロメートルのマラソンコースなのである。その辺りに宿舎があり、食堂でマンゴージュースを飲んだ。高橋尚子や増田明美の色紙などが飾られていた。

1月25日から2月4日まで日本実業団女子長距離強化合宿が行われており、運良くか、それにぶち当たったと言う訳だ。

「尚子ロード」と書かれた碑には、その功績が刻まれている。


高橋尚子の足跡 マラソンの全成績

  年月      大会        順位    記録      備考
1997年1月 大阪国際マラソン    7位 2時間31分32秒 初マラソン
1998年3月 名古屋国際女子マラソン 優勝 2時間25分48秒 日本最高記録
1998年12月 バンコクアジア大会   優勝 2時間21分47秒 日本最高記録
2000年3月 名古屋国際女子マラソン 優勝 2時間22分19秒 大会記録
2000年9月 シドニーオリンピック 優勝 2時間23分14秒 金メダル五輪記録
2001年9月 ベルリンマラソン    優勝 2時間19分46秒 世界最高記録
2002年9月 ベルリンマラソン    優勝 2時間21分49秒 マラソン6連覇
2003年11月 東京国際女子マラソン  2位 2時間27分21秒 
2005年11月 東京国際女子マラソン  優勝 2時間24分39秒 2大会振り優勝
2006年11月 東京国際女子マラソン  3位 2時間31分22秒
2008年3月 名古屋国際女子マラソン27位 2時間44分18秒 現役最後のレース
2008年10月28日  引退

座右の銘 何も咲かない寒い日は 下へ下へと根を伸ばせ やがて大きな花が咲く

小出義雄 雨風に耐えて花咲くときを待つ 夢の掛け橋徳之島


それから、季節風や荒波によって浸食された断崖や奇岩が聳え立つ一帯に到着。そこは東シナ海に面している。ここは犬の門蓋(大飢饉の折り、人畜に危害を及ぼした野犬を海に投げ込んだ事が由来となっている)と呼ばれ、またメガネ岩は目を見張るものがある。

天城大橋は徳之島でも最大の難所であった秋利神峡谷に架かるアーチ鋼橋で、美しい赤色をしている。長さ245メートル、高さ90メートルで、下を覗くと流石に高いと思わせられた。それと繋ぐ秋利神大橋は、長さ115メートル、高さ30メートルで、これはコンクリートアーチ橋である。

ずっと前からシマさんから聞いていた犬田布岬。どう読むか? その発音故に忘れないで興味があった。「いんたぶみさき」と言う。これは伊仙町にある。因みに徳之島は、東が徳之島町、西が天城町、南が伊仙町の3つに分かれる。

これだけ壮大且つ広大な景観も、そうそう見られないのではないかと思う。徳之島の南西部に突き出た岬が犬田布岬なのだ。だが、ここには空高く伸びた慰霊塔が建てられているのだ。もう終戦の年昭和20年の4月に、この岬の沖で特攻艦隊が撃沈されたのである。その旗艦が、戦艦大和。ここで高麗芝に寝そべる訳には行かない悲話が、ここ奄美群島国定公園にもあったのだ。

4日目の最終日に回る予定の所を、幾つも回った。飛行機の時間や天候の事もあり、最終日はゆったりとしたい考えからだった。もう一つ、平家屋敷へ向かった。

異様な程、特別な場所だった。平氏の落人がここに住みついたのだろうか。どう見ても、位の高い人の屋敷である。今も人が住んでいた。これも、見た事のない古い佇まいで、見る価値の十分にある場所だった。たんかんが実り、見た事のない程大きな木に、ノボタンの紫色の花が咲いていた。

この日も、朝からの長い1日だった。ホテルニュー西田に戻ると、町並みを見て歩いた。昭和の町のように、静かで閑散とした昔を残していた。楽器屋と言っても島唄や流行歌のCDが並べられていたり、その隣りがみやげ物屋だった。黒糖や味噌ピーナツを買っただけだったが、入り口横には蛍光灯にハブが絡みつき、よく見ると頭はこちらに向けていた。

ホテルと言う名とはちょっと遠いニュー西田はこの辺の財閥であろうか、大きな駐車場を所有し、タクシー会社を持ち、おまけに隣は居酒屋になっている。我々は、結局そこで夕食を摂る事になる。

焼酎を飲み、お好み焼きを注文し、その他食事系を頼んだが、兎に角すぐには出て来なかった。店は広い割りには、料理人と運ぶ女性の数が圧倒的に少なかった。おまけに、宴会まで入っている。それでも、辛抱しながら待つ事にした。すると、向こうの部屋から何とオカリナが聞こえて来たのだ。

行ってみたら、と誰かが言った。私はここでオカリナを吹き返そうかと思った。けれど、どちらもしなかった。もう一度聞こえて来て、今度は皆がそれに合わせて歌っていた。さぞ、気分満開だった事だろう。お蔭で気が紛れたが、こちらの料理が遅くなった。料理人が、詫びの積もりか運んで来た場面もあった。

帰りにその料理人が私を怖そうな無表情な顔で見ていた。目が合ってしまった。どんな思いで見ているのかが分からなかった。私は料理が遅くなった事をそんなに気にしていなかったから、ちょっとだけニコッとした。すると、向こうもにっこり笑顔を見せた。

シマさんは叔父さんの家に行くので、私も来ないかと誘ってくれた。でも、折角だから水入らずの方がいいと思った。それを伝えて、シマさんは2人で出かけた。夜はもう会わずに寝た。1時間もいなかったと次の日に聞いたが、徳之島に来るのは分かっているのだから、行かないと後が大変だ。

私たちも本当は行く予定に入っていたが、急に不幸があり、暫く電話も不通だった。


次の日2日は徳之島空港から飛行機で奄美空港まで。それまでに、シマさんは我々の為に、数ヶ所案内してくれた。島唄の大会がある野外ステージのある所に、サトウキビの汁を絞る機械があった。大きな歯車が3つ。以前はその棒を牛が引いていた。今は、機械で動かすと言った。

デイゴの木がどっしりと我々を見つめている。シマさんのブログのデイゴの花は、この木の花を写したものだそうだ。そう思ってブログを見ると、何だか感動する。

足下の草むらに、スミレの花が咲いていた。

徳之島は、特別な島として印象に残った。シマさんの生まれた島であることも、私の同僚だったKさんが花徳の出身である事も、先輩 I 氏がこの島の轟の出身だと言う事も、大相撲の歴史を作った偉大な横綱46代朝潮太朗の生地である事さえ偲ばれる。「基地反対」の立て札があちこちに立てられたままだった事も。

シマさんには、色々お世話になった。そして、ありとあらゆる所に連れて行ってくれた。お蔭で、楽しい時を過ごす事が出来て喜んでいる。勿論家族3人共だ。良き思い出を、ありがとう。

真っ青な海は見られなかった。岬の先に広がる夕焼けも見られなかった。満天の星さえ見られなかった。必ず見られるものだと思っていた。けれど、この異常気象である。暖かい筈の奄美の天候は、その寒さにコートを必要とした。だが、それに引き換え心の中には、ずっと燃え続ける夕日と夕焼けが広がっている。ザワワザワワとサトウキビ畑が続いている。


奄美空港から飛び立ったジェット機は、遠く新燃岳から流れ出る棚引く噴煙を見せながら、伊丹空港へと只管飛び続けた。