コートが要る程の寒さだった。だが、震えるような事はなかった。
三宮の伊丹空港行きのバス停の前に着くと、シマさんは2人で一番前に立っていた。我々家族3人は格安の往復切符を買い、すぐに合流した。1月31日朝10時過ぎの事である。
数年前に誘われていて、この日になったバスは、10時25分に出発した。女の人が走って来たが、バスは止まらなかった。
関西空港へは、韓国に行く為のバスに8回乗った。けれど、伊丹空港へのバスは初めてだった。関空へは1時間ちょっとかかるが、ここへは40分ばかりで着いた。
JALが奄美空港に着陸すると、おやつの時間を回っていた。春の陽気だと聞いていて薄着も考えていたが、どっこい、神戸と変わらないような寒さだった。ハーフコートを脱げない位、風もあった。それでも、南国奄美に着いたのだと思った。
シマさんがレンタカーを借り、全て彼の運転で島巡りとなる。太平洋側の北の端に取って付けたような笠利町があり、その空港から右端をちょっと上がると「あやまる岬」がある。
先ず始めの海の景色だった。シマさんが指差したすぐそこに、サネンの葉が繁っていた。これがあの「月桃夜」に出て来たり、サネン餅に巻かれている葉っぱだと思うと、自生する本物を見た感動が押し寄せて来た。熊笹のような、それより少し大き目の葉だ。
アダンの蹴鞠程の実は硬く、アルマジロが丸くなったようだ。リュウゼツランのような葉は、そのブレードにいくつも切り込みを入れたような棘が、ちょっと触っただけで悲鳴を上げそうな痛さだ。シマさんは、その葉をぐっと掴み、思い切り引っ張って見せた。葉の先端に引っ張っても痛くはない。反対方向が大怪我をする。どうしてこんな葉になったのかが分からない。何を守ろうとしたのだろうか。
雲の多い景色だったが、その雲の辺りまで、薄い虹が出ていた。海の右面から70度位まで左に上った虹だったが、虹が迎えてくれたのだと思うと、これからの旅を期待させる何かが感じられた。
大島紬村は、空港からはそんなに遠くはない。が、到着したのが4時30分頃で、普通ならそろそろ閉まる頃なのだ。それを、案内のお兄さんが親切に丁寧に連れ歩いてくれた。
詳しくは忘れてしまって書けないが、その気の遠くなる染めから機織までの工程は、凄まじい程のエネルギーと緻密さと忍耐を感じさせた。大島紬と一言で片付けていた私の概念が、がらがらと音を立てて崩れて行った。80回は染める。糸が黒くなるまで、絞りをかけたりもして、染めるのである。
機織の前には原画と同じになる為の色付けがある。それが上手く行かないと、機織の途中で絵柄がずれて商品にならない。正に、ミリ単位の細かな作業だと言う事が分かった。私には、この仕事は絶対に出来ないと思わせる瞬間だった。
地味のようだったが、その風合いが気に入った作務衣があった。20万円位の値が付いていたと思うが、買えないけれど高いとは、もう言うまいと思った。50万円や100万円の衣装があるのも納得だった。小物にしても、私の小遣いで買える物はなかった。ただ、大島紬に対する見方がすっかり変わった事だけは確かだ。
大熊展望台を経て、大浜海岸へと走った。雄大で壮観だった。亜熱帯植物のアダンが繁っている。丸い毬のような実は、引っ張っても千切れない。この名瀬市では、プロ野球の選手も自主トレをしている事でも知られている所にこの海岸はある。
連れて来てくれたシマさんとは関係ないが、私が自然部門で期待している事が幾つかあった。それは、1月や2月でも感じられるポカポカとした陽気。これは今年の異常な程の寒波では、端から期待は出来そうにもなかった。すると後何があるのだろうか。
海の青さと夕焼けと星だ。
海の青さに就いては、ぎらぎらとした夏ではないので仕方がない。けれど、やっぱり南国の海である。あの青さを所々にちょっとは見る事が出来た。
曇り空ではどう仕様もない。運が良ければと言う、これらの自然は運任せとなった。大浜海岸で真っ赤な夕日が沈み、夕焼けが広がったら、それはそれで涙の出る程の感動ものだっただろう。
神戸にはない素晴らしい景観を後にして、不思議な思いの1日目が終わろうとしていた。不思議なと言うのは、午前中は神戸にいたのに、午後はもう行った事のない奄美に来ている事だった。しかも、シマさんが車を運転しながら案内してくれている。
奄美サンプラザホテルは、フロントの人達も笑顔を振りまいてくれる。立派なホテルだ。部屋を確認すると、5人は外へ出た。楽しみにしている夕食を食べに出かけたのだ。
割烹吟亭は、最初から計画されていた。女将さんが島唄を聴かせてくれると言うのだ。勿論シマさんとは旧知の間柄だと言う。今回シマさんは三線を持っては来なかったが、ここでは誰でも三線を当たり前のように使うそうである。
ここの女将さんは、平成11年に「大島民謡大賞」の大会で見事大賞を貰っている。つまり、CDも出している列記としたプロの唄者なのだ。東唄と笠利唄があり、リズミカルな東唄ではなく荘厳な笠利唄が女将松山三枝子さんの唄い方だ。じーんと染みこむ、重い唄い方だと思った。何しろ素晴らしい。シマさんと掛け合いをすれば言う事はない。
唄の題名は殆ど忘れているので、歌わなかったものまで書いているかも知れないが、聴かせてくれたのである。立ち居振る舞いも容姿も美しい。「あさはな節」「まんこい節」「いきゅんにゃかな」かな?
この日はカウンターに男の人が一人。後でもう一人。この人は女将の唄に合わせて三線を弾くのに呼ばれたのだ。反対側の畳の席の真ん中辺りに我々5人。入り口付近の簡易ステージの前には4人のお客がいた。全部座れば30人は入る広さである。
女将はシマさんとも歌った。女将の調は高くシマさんが苦しい。シマさんの調にすると女将の声が低くなりすぎて歌えない。この辺が難しい所で、妥協点を見つけたようだが、それでもシマさんには少し苦しかったかも知れない。が、誰もそんな事感じてはいないようだった。
縦に並んだ竹がバックになっている簡易ステージに、女将はシマさんを誘った。プロとプロの唄合わせである。みんな酔い痴れて聴いていたが、これは贅沢な島唄だった。私は密かに、いつか実現するであろう2人の競演を望んでいる。
リーズナブルなコース料理があったが、その中から選んで食べていた。けれど最後は同じような事になってしまった。違う所と言えば、イカスミのご飯を取らなかった所位だ。飲んでいると、ご飯は食べなくなる。
メニュー板には黒糖焼酎が並んでいる。「里の曙」。これは旨い。次はジューシーな「レント」。そして「朝日」。大体どれも25度の焼酎だったが、私には「里の曙」が旨かったように思う。
鮮やかな熱帯魚のような青色をした鯛、イラブチは運次第で食べられると言っていたが、なかった。だが、お造り、くわり(田芋の茎)の炒めもの、黒豚骨と島野菜の炊き合わせ、油ソーメン、トビニャ(アラレイモガイ)など絶品だ。ちょっとオヤジギャグを入れると、つまり女性で言えば別嬪と言う事になる。奄美の美味いもんを独り占めしたような気分だった。
シマさんが女将に私がオカリナを吹く事を知らせた。彼は私がカバンにオカリナをしのばせている事を知っている。誰となく、入っているだろうと言うものだから、いつからとなく、カバンにオカリナを入れる事にしていたのだ。
無伴奏で、前に出て、酔いながら吹いた。今になると、選曲をもう少し考えても良かったかなと思う。それと、オカリナの種類を換えても良かったかなと思ったりした。
「北の宿から」「ある愛の詩」「涙そうそう」。真っ赤な吉塚オカリナ、ソプラノG管で吹いた。三線はいつでも聴いているだろうが、オカリナは始めて見た人もいただろうと思う。
ここ吟亭は、奄美では最高の部類の店ではないかと思う。料理も美味いし姉ちゃんも綺麗だ。おっと失礼。奄美島唄大賞を取ったプロで、しかも美人と来ている。更に、人の気持ちを盛り上げる術を知っているのだ。これだったら何時間いても楽しいと思うだろう。行った事はないが、差し詰め銀座のママ、と言った感じだろうか。
シマさんは、奄美の凝縮した所を見せてくれたのだ。夕焼けも星も見えなかったが、この店にはそれがあった。
最後に私は「ワイド節」を所望した。2人は歌ってくれた。今にも踊りだしそうだった。この店の料理を作るおばちゃん達も出て来て踊り出した。楽しい光景だった。踊りたい者は遠慮なく踊る。これが島の喜びと幸せではないだろうかと思う。六調は、人の心さえ動かす。
また来ます、と言えずに吟亭を出た。おばちゃんの一人が店を出ようとする私の所に寄って来て、「ある愛の詩がとっても良かった」と言った。「あの映画の場面が蘇って来た」と感慨深げだった。そうか、オカリナ吹きは、たった一人でもその音を聴いて、何かを感じてくれたら、それが自分の喜びにもなるのだ! そう思えた。
そう言えばテレビで誰かが言っていた。「自分が幸せでなければ、人を幸せにする事なんて出来ません」と。誰かに聴いて貰って幸せにしてやろう、などと思うのは傲慢でしかない。オカリナを吹き続け、自分が幸せを感じ、幸せな気分になる事が先ず大切な事だと思った。吹き続けていれば、きっといつか何がしかの発見があるに違いない。
ふかふかしたホテルのベッドは最高だ。いつしかまどろみが深い眠りへと変わった。そして私は夢を見た。「あんた誰よ。何でこんなとこにいるんよ」と怪訝そうにマツコデラックスが言った。「何度か会った事があるじゃない」と私が言った。でも、何でこの人が夢に出て来るんだよ!
三宮の伊丹空港行きのバス停の前に着くと、シマさんは2人で一番前に立っていた。我々家族3人は格安の往復切符を買い、すぐに合流した。1月31日朝10時過ぎの事である。
数年前に誘われていて、この日になったバスは、10時25分に出発した。女の人が走って来たが、バスは止まらなかった。
関西空港へは、韓国に行く為のバスに8回乗った。けれど、伊丹空港へのバスは初めてだった。関空へは1時間ちょっとかかるが、ここへは40分ばかりで着いた。
JALが奄美空港に着陸すると、おやつの時間を回っていた。春の陽気だと聞いていて薄着も考えていたが、どっこい、神戸と変わらないような寒さだった。ハーフコートを脱げない位、風もあった。それでも、南国奄美に着いたのだと思った。
シマさんがレンタカーを借り、全て彼の運転で島巡りとなる。太平洋側の北の端に取って付けたような笠利町があり、その空港から右端をちょっと上がると「あやまる岬」がある。
先ず始めの海の景色だった。シマさんが指差したすぐそこに、サネンの葉が繁っていた。これがあの「月桃夜」に出て来たり、サネン餅に巻かれている葉っぱだと思うと、自生する本物を見た感動が押し寄せて来た。熊笹のような、それより少し大き目の葉だ。
アダンの蹴鞠程の実は硬く、アルマジロが丸くなったようだ。リュウゼツランのような葉は、そのブレードにいくつも切り込みを入れたような棘が、ちょっと触っただけで悲鳴を上げそうな痛さだ。シマさんは、その葉をぐっと掴み、思い切り引っ張って見せた。葉の先端に引っ張っても痛くはない。反対方向が大怪我をする。どうしてこんな葉になったのかが分からない。何を守ろうとしたのだろうか。
雲の多い景色だったが、その雲の辺りまで、薄い虹が出ていた。海の右面から70度位まで左に上った虹だったが、虹が迎えてくれたのだと思うと、これからの旅を期待させる何かが感じられた。
大島紬村は、空港からはそんなに遠くはない。が、到着したのが4時30分頃で、普通ならそろそろ閉まる頃なのだ。それを、案内のお兄さんが親切に丁寧に連れ歩いてくれた。
詳しくは忘れてしまって書けないが、その気の遠くなる染めから機織までの工程は、凄まじい程のエネルギーと緻密さと忍耐を感じさせた。大島紬と一言で片付けていた私の概念が、がらがらと音を立てて崩れて行った。80回は染める。糸が黒くなるまで、絞りをかけたりもして、染めるのである。
機織の前には原画と同じになる為の色付けがある。それが上手く行かないと、機織の途中で絵柄がずれて商品にならない。正に、ミリ単位の細かな作業だと言う事が分かった。私には、この仕事は絶対に出来ないと思わせる瞬間だった。
地味のようだったが、その風合いが気に入った作務衣があった。20万円位の値が付いていたと思うが、買えないけれど高いとは、もう言うまいと思った。50万円や100万円の衣装があるのも納得だった。小物にしても、私の小遣いで買える物はなかった。ただ、大島紬に対する見方がすっかり変わった事だけは確かだ。
大熊展望台を経て、大浜海岸へと走った。雄大で壮観だった。亜熱帯植物のアダンが繁っている。丸い毬のような実は、引っ張っても千切れない。この名瀬市では、プロ野球の選手も自主トレをしている事でも知られている所にこの海岸はある。
連れて来てくれたシマさんとは関係ないが、私が自然部門で期待している事が幾つかあった。それは、1月や2月でも感じられるポカポカとした陽気。これは今年の異常な程の寒波では、端から期待は出来そうにもなかった。すると後何があるのだろうか。
海の青さと夕焼けと星だ。
海の青さに就いては、ぎらぎらとした夏ではないので仕方がない。けれど、やっぱり南国の海である。あの青さを所々にちょっとは見る事が出来た。
曇り空ではどう仕様もない。運が良ければと言う、これらの自然は運任せとなった。大浜海岸で真っ赤な夕日が沈み、夕焼けが広がったら、それはそれで涙の出る程の感動ものだっただろう。
神戸にはない素晴らしい景観を後にして、不思議な思いの1日目が終わろうとしていた。不思議なと言うのは、午前中は神戸にいたのに、午後はもう行った事のない奄美に来ている事だった。しかも、シマさんが車を運転しながら案内してくれている。
奄美サンプラザホテルは、フロントの人達も笑顔を振りまいてくれる。立派なホテルだ。部屋を確認すると、5人は外へ出た。楽しみにしている夕食を食べに出かけたのだ。
割烹吟亭は、最初から計画されていた。女将さんが島唄を聴かせてくれると言うのだ。勿論シマさんとは旧知の間柄だと言う。今回シマさんは三線を持っては来なかったが、ここでは誰でも三線を当たり前のように使うそうである。
ここの女将さんは、平成11年に「大島民謡大賞」の大会で見事大賞を貰っている。つまり、CDも出している列記としたプロの唄者なのだ。東唄と笠利唄があり、リズミカルな東唄ではなく荘厳な笠利唄が女将松山三枝子さんの唄い方だ。じーんと染みこむ、重い唄い方だと思った。何しろ素晴らしい。シマさんと掛け合いをすれば言う事はない。
唄の題名は殆ど忘れているので、歌わなかったものまで書いているかも知れないが、聴かせてくれたのである。立ち居振る舞いも容姿も美しい。「あさはな節」「まんこい節」「いきゅんにゃかな」かな?
この日はカウンターに男の人が一人。後でもう一人。この人は女将の唄に合わせて三線を弾くのに呼ばれたのだ。反対側の畳の席の真ん中辺りに我々5人。入り口付近の簡易ステージの前には4人のお客がいた。全部座れば30人は入る広さである。
女将はシマさんとも歌った。女将の調は高くシマさんが苦しい。シマさんの調にすると女将の声が低くなりすぎて歌えない。この辺が難しい所で、妥協点を見つけたようだが、それでもシマさんには少し苦しかったかも知れない。が、誰もそんな事感じてはいないようだった。
縦に並んだ竹がバックになっている簡易ステージに、女将はシマさんを誘った。プロとプロの唄合わせである。みんな酔い痴れて聴いていたが、これは贅沢な島唄だった。私は密かに、いつか実現するであろう2人の競演を望んでいる。
リーズナブルなコース料理があったが、その中から選んで食べていた。けれど最後は同じような事になってしまった。違う所と言えば、イカスミのご飯を取らなかった所位だ。飲んでいると、ご飯は食べなくなる。
メニュー板には黒糖焼酎が並んでいる。「里の曙」。これは旨い。次はジューシーな「レント」。そして「朝日」。大体どれも25度の焼酎だったが、私には「里の曙」が旨かったように思う。
鮮やかな熱帯魚のような青色をした鯛、イラブチは運次第で食べられると言っていたが、なかった。だが、お造り、くわり(田芋の茎)の炒めもの、黒豚骨と島野菜の炊き合わせ、油ソーメン、トビニャ(アラレイモガイ)など絶品だ。ちょっとオヤジギャグを入れると、つまり女性で言えば別嬪と言う事になる。奄美の美味いもんを独り占めしたような気分だった。
シマさんが女将に私がオカリナを吹く事を知らせた。彼は私がカバンにオカリナをしのばせている事を知っている。誰となく、入っているだろうと言うものだから、いつからとなく、カバンにオカリナを入れる事にしていたのだ。
無伴奏で、前に出て、酔いながら吹いた。今になると、選曲をもう少し考えても良かったかなと思う。それと、オカリナの種類を換えても良かったかなと思ったりした。
「北の宿から」「ある愛の詩」「涙そうそう」。真っ赤な吉塚オカリナ、ソプラノG管で吹いた。三線はいつでも聴いているだろうが、オカリナは始めて見た人もいただろうと思う。
ここ吟亭は、奄美では最高の部類の店ではないかと思う。料理も美味いし姉ちゃんも綺麗だ。おっと失礼。奄美島唄大賞を取ったプロで、しかも美人と来ている。更に、人の気持ちを盛り上げる術を知っているのだ。これだったら何時間いても楽しいと思うだろう。行った事はないが、差し詰め銀座のママ、と言った感じだろうか。
シマさんは、奄美の凝縮した所を見せてくれたのだ。夕焼けも星も見えなかったが、この店にはそれがあった。
最後に私は「ワイド節」を所望した。2人は歌ってくれた。今にも踊りだしそうだった。この店の料理を作るおばちゃん達も出て来て踊り出した。楽しい光景だった。踊りたい者は遠慮なく踊る。これが島の喜びと幸せではないだろうかと思う。六調は、人の心さえ動かす。
また来ます、と言えずに吟亭を出た。おばちゃんの一人が店を出ようとする私の所に寄って来て、「ある愛の詩がとっても良かった」と言った。「あの映画の場面が蘇って来た」と感慨深げだった。そうか、オカリナ吹きは、たった一人でもその音を聴いて、何かを感じてくれたら、それが自分の喜びにもなるのだ! そう思えた。
そう言えばテレビで誰かが言っていた。「自分が幸せでなければ、人を幸せにする事なんて出来ません」と。誰かに聴いて貰って幸せにしてやろう、などと思うのは傲慢でしかない。オカリナを吹き続け、自分が幸せを感じ、幸せな気分になる事が先ず大切な事だと思った。吹き続けていれば、きっといつか何がしかの発見があるに違いない。
ふかふかしたホテルのベッドは最高だ。いつしかまどろみが深い眠りへと変わった。そして私は夢を見た。「あんた誰よ。何でこんなとこにいるんよ」と怪訝そうにマツコデラックスが言った。「何度か会った事があるじゃない」と私が言った。でも、何でこの人が夢に出て来るんだよ!