いつもテレビを観ては、東遊園地に行こうと思っていた。それは、5時46分の早朝にだ。だが、釘付けになるものの、様子を見守るだけだった。今年もまた、4時過ぎに目は開いたが、行く事が出来なかった。
昼から出掛けた。三宮駅前は心なしか人出が少ないような気がした。フラワーロードを南に下ると右手に神戸市役所の、震災で一部が潰れた2号館と、雲に聳える1号館がある。その辺りでは20年に住み替えを迫られる事への反対集会があり、その近くでは、ぜんざいの炊き出しが行われていた。
東遊園地の野外ステ-ジは、大きなテントのように全面が覆われていた。そこで市長さんも出席して、早朝の祈念集会が行われたのだと思った。
最初に目に付いたのが、あの黄色の「シンサイミライノハナ」で、誰でも願いを書く事が出来るようになっていた。周囲にはテントがブロック毎に並び、カンパの箱が置いてあったり、展示がしてあったりした。
遊園地の中央には門松の先のように切られた背の低い太い竹が並べられ、その水の入れられた竹に、祈念の蝋燭の灯を浮かべる事が出来た。早朝にはいっぱいに灯が輝いていたのだが、もう消えているものも沢山あった。
ABCやYTVの報道車が目に付いた。その竹をアップで写しているのは、正しくこのカメラマンであろう。遊園地に入って来る人、出て行く人、様々である。人数はもう、そんなに多くはなかった。
展示のあるテントの白い布のかかったテーブルの前に座り、無言でみかんを食べているおじいさんがいた。その背中に、重い過去を背負っているように見え、何だか辛い思いに駆られた。
ゆっくり一巡すると、私も遊園地を出て行く人となった。北には市役所の1号館があり、南には分譲中のビルがあった。聳えるビルに囲まれた東遊園地だ。このステージでは消防隊のブラスバンドがよく演奏していて、何度か聴いた事がある。
行き交う人の顔は、私が今日を意識している所為なのか、私の方に向かって歩く人で笑っている人は見当たらなかった。ぴりぴりした青空とは違い、それは暗く沈んだものを感じさせた。16年経っても、震災の傷跡は、心から離れようとはしていない風に思えた。
忘れようとして忘れられず、辛い思いに耐えて16年間を歩んで来た人達の無言の叫びが、靄となって覆いつくしているようだった。
阪神・淡路大震災は、復興したとは言え、まだまだ居た堪れない心の尾を引いている。それは、訴える対象が人ではない所で悶絶する。終焉の無い道のりなのだ。
人は、自分の経験のレベルでしか相手の気持ちは分からない。感受性の豊かな人なら、共感する事は出来るだろう。だが、本当にその被災者の状況と気持ちを、自分の事として理解する事は不可能である。傍に寄って、共に涙する人が何人いるだろうか。そうして、いつしか忘れ去られて行く。
だから、それを風化させない為に、心ある人達が祈念集会をしたり語り継いだりしているのである。あの頃からボランティアと言う言葉も頻繁に使われ出したが、今も尚その活動を続けている人達に、頭が下がる思いがする。地震前は普通の暮らしをしていた者達が、どうしてなのか被災者となりボランティアとなる。自分を被災者に置き換えて考える事が出来なければ、共感など到底出来る事ではないのだ。
自分に何が出来るかを考えなくてはならないけれど、少なくとも被災者の胸中を察する事を避けて通る事は出来ないと思う。あの時は、皆で助け合ったのではなかったか。時が止まり、寒い夜に焚き火を焚き、遅くまで話し込んでいた。無口になりながらも、混沌の中で一筋の光を見ようとしていたのだろうか。救急車のサイレンの音にも反応しなくなった。
物資が運ばれて来た。炊き出しをしてくれるボランティアが来た。夜、その物資をこっそり持ち逃げする者もいた。高校生と小学生の娘を失った母親がいた。一番嫌いだった中学生の男の子が生き残ったと言った。数々の事があったが、私はまだ語れない。
全壊でも半壊でもなく、食器が放り出されて割れ、足の踏み場がなくなった事や、娘達が「怖い」と言って泣きながら2階から降りて来た事。猫の額程のテラスが壊れてしまって、修理をしなければならなかった。部屋の戸が、力を入れても中々閉まらない。でも、家族の命は大丈夫だった。
温度差はあっても、命を失うことこそ、最も辛い事だろう。突然に起こった事だから、理解するのにかなりの時間を要した事だろう。
人は、自分の経験に基づいて、相手の悲しさや辛さを理解する。そこが難しい所だが、もう一度、せめてこの1.17が、日本各地で起きた地震の事、世界で起きた悲惨な地震の事を考える契機になればと思う。
その後すぐに新長田に行った。駅前では赤い体操帽を被った小学生達が、卵10個入りのケースで何かをしているようだった。多分、その窪みには蝋が固まっていて、2リットルのペットボトルを半分に切って水を入れたものに置いて、蝋燭の灯を点けるのだろう。広く並べられたペットボトルからは文字が読み取れた。「1.17ながた」。大きくて、横からでは分かり難いが、夜になったらその文字は如実に浮かび上がることだろう。
大正筋を歩いたが、商店街の真ん中に写真の展示があっただけだった。昼過ぎの時間はその程度なのかも知れないが、テレビで見た事のある男性が、カメラに向かって歩きながら、何かを喋っている状況に出くわした。YTVだと思う。家に帰って観たYTVには、その男の人は東遊園地でマイクを握っているのが映っていた。
日頃より人の波の少ない大正筋の商店街を出て、電車に乗った。
もう、23時に近い。震災の事をNHKテレビが報道している。竹下景子さんが、恒例の市民の詩を朗読している。何が出来るか。竹下さんは女優と言えどその身分を生かし、こんな活動をしているのである。それが続いている事が、日増しにライフワークになりつつある事を覚えさせる。
「人は力を合わせればなんでも出来るんです」。震災とは無縁であろう竹下さんが、こんな活動をするのを素晴らしいな、と思いながら観ている私がいた。
また来年の今日、テレビは報道する事だろう。それまでの1年、悲しみを乗り越えて、また少し明るく歩んで欲しい。と言う事が精一杯だ。
昼から出掛けた。三宮駅前は心なしか人出が少ないような気がした。フラワーロードを南に下ると右手に神戸市役所の、震災で一部が潰れた2号館と、雲に聳える1号館がある。その辺りでは20年に住み替えを迫られる事への反対集会があり、その近くでは、ぜんざいの炊き出しが行われていた。
東遊園地の野外ステ-ジは、大きなテントのように全面が覆われていた。そこで市長さんも出席して、早朝の祈念集会が行われたのだと思った。
最初に目に付いたのが、あの黄色の「シンサイミライノハナ」で、誰でも願いを書く事が出来るようになっていた。周囲にはテントがブロック毎に並び、カンパの箱が置いてあったり、展示がしてあったりした。
遊園地の中央には門松の先のように切られた背の低い太い竹が並べられ、その水の入れられた竹に、祈念の蝋燭の灯を浮かべる事が出来た。早朝にはいっぱいに灯が輝いていたのだが、もう消えているものも沢山あった。
ABCやYTVの報道車が目に付いた。その竹をアップで写しているのは、正しくこのカメラマンであろう。遊園地に入って来る人、出て行く人、様々である。人数はもう、そんなに多くはなかった。
展示のあるテントの白い布のかかったテーブルの前に座り、無言でみかんを食べているおじいさんがいた。その背中に、重い過去を背負っているように見え、何だか辛い思いに駆られた。
ゆっくり一巡すると、私も遊園地を出て行く人となった。北には市役所の1号館があり、南には分譲中のビルがあった。聳えるビルに囲まれた東遊園地だ。このステージでは消防隊のブラスバンドがよく演奏していて、何度か聴いた事がある。
行き交う人の顔は、私が今日を意識している所為なのか、私の方に向かって歩く人で笑っている人は見当たらなかった。ぴりぴりした青空とは違い、それは暗く沈んだものを感じさせた。16年経っても、震災の傷跡は、心から離れようとはしていない風に思えた。
忘れようとして忘れられず、辛い思いに耐えて16年間を歩んで来た人達の無言の叫びが、靄となって覆いつくしているようだった。
阪神・淡路大震災は、復興したとは言え、まだまだ居た堪れない心の尾を引いている。それは、訴える対象が人ではない所で悶絶する。終焉の無い道のりなのだ。
人は、自分の経験のレベルでしか相手の気持ちは分からない。感受性の豊かな人なら、共感する事は出来るだろう。だが、本当にその被災者の状況と気持ちを、自分の事として理解する事は不可能である。傍に寄って、共に涙する人が何人いるだろうか。そうして、いつしか忘れ去られて行く。
だから、それを風化させない為に、心ある人達が祈念集会をしたり語り継いだりしているのである。あの頃からボランティアと言う言葉も頻繁に使われ出したが、今も尚その活動を続けている人達に、頭が下がる思いがする。地震前は普通の暮らしをしていた者達が、どうしてなのか被災者となりボランティアとなる。自分を被災者に置き換えて考える事が出来なければ、共感など到底出来る事ではないのだ。
自分に何が出来るかを考えなくてはならないけれど、少なくとも被災者の胸中を察する事を避けて通る事は出来ないと思う。あの時は、皆で助け合ったのではなかったか。時が止まり、寒い夜に焚き火を焚き、遅くまで話し込んでいた。無口になりながらも、混沌の中で一筋の光を見ようとしていたのだろうか。救急車のサイレンの音にも反応しなくなった。
物資が運ばれて来た。炊き出しをしてくれるボランティアが来た。夜、その物資をこっそり持ち逃げする者もいた。高校生と小学生の娘を失った母親がいた。一番嫌いだった中学生の男の子が生き残ったと言った。数々の事があったが、私はまだ語れない。
全壊でも半壊でもなく、食器が放り出されて割れ、足の踏み場がなくなった事や、娘達が「怖い」と言って泣きながら2階から降りて来た事。猫の額程のテラスが壊れてしまって、修理をしなければならなかった。部屋の戸が、力を入れても中々閉まらない。でも、家族の命は大丈夫だった。
温度差はあっても、命を失うことこそ、最も辛い事だろう。突然に起こった事だから、理解するのにかなりの時間を要した事だろう。
人は、自分の経験に基づいて、相手の悲しさや辛さを理解する。そこが難しい所だが、もう一度、せめてこの1.17が、日本各地で起きた地震の事、世界で起きた悲惨な地震の事を考える契機になればと思う。
その後すぐに新長田に行った。駅前では赤い体操帽を被った小学生達が、卵10個入りのケースで何かをしているようだった。多分、その窪みには蝋が固まっていて、2リットルのペットボトルを半分に切って水を入れたものに置いて、蝋燭の灯を点けるのだろう。広く並べられたペットボトルからは文字が読み取れた。「1.17ながた」。大きくて、横からでは分かり難いが、夜になったらその文字は如実に浮かび上がることだろう。
大正筋を歩いたが、商店街の真ん中に写真の展示があっただけだった。昼過ぎの時間はその程度なのかも知れないが、テレビで見た事のある男性が、カメラに向かって歩きながら、何かを喋っている状況に出くわした。YTVだと思う。家に帰って観たYTVには、その男の人は東遊園地でマイクを握っているのが映っていた。
日頃より人の波の少ない大正筋の商店街を出て、電車に乗った。
もう、23時に近い。震災の事をNHKテレビが報道している。竹下景子さんが、恒例の市民の詩を朗読している。何が出来るか。竹下さんは女優と言えどその身分を生かし、こんな活動をしているのである。それが続いている事が、日増しにライフワークになりつつある事を覚えさせる。
「人は力を合わせればなんでも出来るんです」。震災とは無縁であろう竹下さんが、こんな活動をするのを素晴らしいな、と思いながら観ている私がいた。
また来年の今日、テレビは報道する事だろう。それまでの1年、悲しみを乗り越えて、また少し明るく歩んで欲しい。と言う事が精一杯だ。