丁度中空の、不安定な場所に私はいた。そこからは安定した足場を俯瞰出来、高い天井を仰ぎ見ると言った角度だ。ザ・シンフォニーホールの3階、RRF列の9番。右サイドの奥で、1列だけ並べられた移動椅子に不安定に腰を下ろす。
ステージには中央にグランドピアノが置かれ、体を乗り出すと演奏者の顔を窺う事が出来る。指はピアノの大きな図体に阻まれ、動きを見る事は出来ない。このステージも、木に止まった鳥のように俯瞰する。
天井の薄桃色の照明はまるで朝焼けの始まりを思わせ、薄い青色は、明けていく空の色だ。幾何学的な十数個のフードは、宙(そら)の港に係留されている白い帆船だ。やがて銀河へと出港する。
殆ど観客で埋まった席が薄暗くなり、イングリット・フジコ・ヘミングが颯爽と登場する。流石に存在感がある。ウエディングドレスの裾のように、長いレース状の黒のドレスの裾がフジコ・ヘミングの後を追いながら、くっ付いて離れない。まるで駄々っ子のように。
大きな拍手が鳴り止まぬ中、極自然に振る舞いながら、椅子に腰掛ける。そしてショパンのエチュードの始めの音が鳴った。
第1番 変イ長調「牧童(エオリアン・ハープ)」作品25-1。第3番 ホ長調「別れの曲」作品10-3。第11番 イ短調「木枯し」作品25-11。齢80を過ぎた老女は若く輝いていたが、力強くはあっても決して鋭い音ではなかった。
目の前に、テレビで見るのとは違った生のフジコ・ヘミングがいる。これだけは確かな事で、私はこのシンフォニーホールに彼女のピアノを聴きに来た。一方フジコ・ヘミングは、自分の人生をピアノで表現する為にこのホールに来た。この瞬間、閉ざされたザ・シンフォニーホールの中で、千何人かの者が彼女とこの時間を共有する事となった。
亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)。
雨の庭「版画」より 第3曲(ドビュッシー)。
主よ、人の望みの喜びよ(バッハ)。
パルティータ 第1番 変ロ長調(バッハ)。
どんどん進んで、リストのパガニーニによる大練習曲 第6番イ短調「主題と変奏」が終わった。これは、何か他の曲と違うインパクトと色彩があった。印象に残った曲だ。
前半最後は、この曲なくしてフジコ・ヘミングはないとさえ思える「ラ・カンパネラ」である。右手の指が奏でる高音のカタカタと言う音が鳴ると、彼女の魂が伝わって来て、心の中で感動が弾けた。高齢にして尚力強い音は一朝一夕に出来上がったものではない事の証明だった。端的に言えば、私はフジコ・ヘミングのこの曲を聴きに来たのだった。
他の数人のピアニストが弾く「ラ・カンパネラ」を聴くが、皆それぞれに上手いと思う。がしかし、幾ら技術的に彼女に勝っていたとしても、この搾り出される魂の響きまでは真似が出来ないのだ。本物のフジコ・ヘミングの姿を目の当たりにし、本物の「ラ・カンパネラ」を聴いた事で、そこにリストを見た思いがした。
2004年1月に、クラシックのピアノ・ソロコンサートとしては世界最大規模となる「1万人のピアノライブ」を大阪城ホールで開催している。2005年3月・2007年4月には、日本武道館で「1万3千人のピアノコンサート」を成功させている。
20分の休憩を挟んで、ヴァイオリンのヴァスコ・ヴァッシレフと共に登場した。
彼は、英国ロイヤル・オペラハウスの第1ソロコンサートマスターで、これはロンドン最高地位のコンサートマスターなのだ。1970年生まれの彼は、世界3大ヴァイオリン・コンクール(ロン・ティボー国際コンクール、パガニーニ国際コンクール、カール・フレッシュ国際ヴァイオリン・コンクール)の最高位を10代で受賞している。そして、最年少でロイヤルオペラハウスのコンサートマスターとなった。
フジコ・ヘミングとヴァスコ・ヴァッシレフとは、2006年ロンドン公演で初共演して意気投合した。以後日本・ブルガリア・スペインと演奏会を重ね、今回で6度目の共演となる。
後半は、凄かったアカペラで演奏したパガニーニ作曲になる「24のカプリーズ(奇想曲) 第24番 イ短調 作品1-24」を除くと、全部彼女の伴奏でヴァイオリンの演奏をした。またまた異才を発見した思いだった。説明が付かないが、兎に角凄い。音に緩みがない。それでいて、曲が変わると音や雰囲気が違っている。CDは、販売している所にはなく、後に探して見つければもう一度聴きたいヴァイオリニストであった。
曲を並べてみよう。
ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 作品24《春》 ベートーヴェン
第1楽章:アレグロ(ヘ長調 ソナタ形式)
第2楽章:アダージョ・モルト・エスプレッシーヴォ(変ロ長調 三部形式)
第3楽章:スケルツォ、アレグロモルト(ヘ長調 スケルツォ)
第4楽章:ロンド、アレグロ・マ・ノン・トロッポ(ヘ長調 ロンド形式)
ハバネラの様式による小品 ラヴェル
中国地方の子守唄 山田耕筰
24のカプリース(奇想曲)第24番 イ短調 作品1-24 パガニーニ
タイスの瞑想曲 マスネ
ハンガリー舞曲 第1番 ブラームス
一際高かった彼に対する拍手。私も我然力を入れて手を叩いた。
アンコールには、ハンガリー舞曲 第5番 を演奏した。奇を衒う訳でもなく、凄い華がある訳でもなく、ただ自分の只管歩いて来たピアノの道を、背を丸めて弾くあの姿がそこにあった。
イングリット・フジコ・ヘミングとヴァスコ・ヴァッシレフのデュオ・コンサートは、始まって2時間半後に終わりを告げた。
外に出ると、あの薄桃色の朝焼けは灰色の幕を引き、もみのように尖った木立ちの延長線上には、黄色く熟れた半月の舟が、宙を漂っていた。
2010.11.15(月)
ステージには中央にグランドピアノが置かれ、体を乗り出すと演奏者の顔を窺う事が出来る。指はピアノの大きな図体に阻まれ、動きを見る事は出来ない。このステージも、木に止まった鳥のように俯瞰する。
天井の薄桃色の照明はまるで朝焼けの始まりを思わせ、薄い青色は、明けていく空の色だ。幾何学的な十数個のフードは、宙(そら)の港に係留されている白い帆船だ。やがて銀河へと出港する。
殆ど観客で埋まった席が薄暗くなり、イングリット・フジコ・ヘミングが颯爽と登場する。流石に存在感がある。ウエディングドレスの裾のように、長いレース状の黒のドレスの裾がフジコ・ヘミングの後を追いながら、くっ付いて離れない。まるで駄々っ子のように。
大きな拍手が鳴り止まぬ中、極自然に振る舞いながら、椅子に腰掛ける。そしてショパンのエチュードの始めの音が鳴った。
第1番 変イ長調「牧童(エオリアン・ハープ)」作品25-1。第3番 ホ長調「別れの曲」作品10-3。第11番 イ短調「木枯し」作品25-11。齢80を過ぎた老女は若く輝いていたが、力強くはあっても決して鋭い音ではなかった。
目の前に、テレビで見るのとは違った生のフジコ・ヘミングがいる。これだけは確かな事で、私はこのシンフォニーホールに彼女のピアノを聴きに来た。一方フジコ・ヘミングは、自分の人生をピアノで表現する為にこのホールに来た。この瞬間、閉ざされたザ・シンフォニーホールの中で、千何人かの者が彼女とこの時間を共有する事となった。
亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)。
雨の庭「版画」より 第3曲(ドビュッシー)。
主よ、人の望みの喜びよ(バッハ)。
パルティータ 第1番 変ロ長調(バッハ)。
どんどん進んで、リストのパガニーニによる大練習曲 第6番イ短調「主題と変奏」が終わった。これは、何か他の曲と違うインパクトと色彩があった。印象に残った曲だ。
前半最後は、この曲なくしてフジコ・ヘミングはないとさえ思える「ラ・カンパネラ」である。右手の指が奏でる高音のカタカタと言う音が鳴ると、彼女の魂が伝わって来て、心の中で感動が弾けた。高齢にして尚力強い音は一朝一夕に出来上がったものではない事の証明だった。端的に言えば、私はフジコ・ヘミングのこの曲を聴きに来たのだった。
他の数人のピアニストが弾く「ラ・カンパネラ」を聴くが、皆それぞれに上手いと思う。がしかし、幾ら技術的に彼女に勝っていたとしても、この搾り出される魂の響きまでは真似が出来ないのだ。本物のフジコ・ヘミングの姿を目の当たりにし、本物の「ラ・カンパネラ」を聴いた事で、そこにリストを見た思いがした。
2004年1月に、クラシックのピアノ・ソロコンサートとしては世界最大規模となる「1万人のピアノライブ」を大阪城ホールで開催している。2005年3月・2007年4月には、日本武道館で「1万3千人のピアノコンサート」を成功させている。
20分の休憩を挟んで、ヴァイオリンのヴァスコ・ヴァッシレフと共に登場した。
彼は、英国ロイヤル・オペラハウスの第1ソロコンサートマスターで、これはロンドン最高地位のコンサートマスターなのだ。1970年生まれの彼は、世界3大ヴァイオリン・コンクール(ロン・ティボー国際コンクール、パガニーニ国際コンクール、カール・フレッシュ国際ヴァイオリン・コンクール)の最高位を10代で受賞している。そして、最年少でロイヤルオペラハウスのコンサートマスターとなった。
フジコ・ヘミングとヴァスコ・ヴァッシレフとは、2006年ロンドン公演で初共演して意気投合した。以後日本・ブルガリア・スペインと演奏会を重ね、今回で6度目の共演となる。
後半は、凄かったアカペラで演奏したパガニーニ作曲になる「24のカプリーズ(奇想曲) 第24番 イ短調 作品1-24」を除くと、全部彼女の伴奏でヴァイオリンの演奏をした。またまた異才を発見した思いだった。説明が付かないが、兎に角凄い。音に緩みがない。それでいて、曲が変わると音や雰囲気が違っている。CDは、販売している所にはなく、後に探して見つければもう一度聴きたいヴァイオリニストであった。
曲を並べてみよう。
ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 作品24《春》 ベートーヴェン
第1楽章:アレグロ(ヘ長調 ソナタ形式)
第2楽章:アダージョ・モルト・エスプレッシーヴォ(変ロ長調 三部形式)
第3楽章:スケルツォ、アレグロモルト(ヘ長調 スケルツォ)
第4楽章:ロンド、アレグロ・マ・ノン・トロッポ(ヘ長調 ロンド形式)
ハバネラの様式による小品 ラヴェル
中国地方の子守唄 山田耕筰
24のカプリース(奇想曲)第24番 イ短調 作品1-24 パガニーニ
タイスの瞑想曲 マスネ
ハンガリー舞曲 第1番 ブラームス
一際高かった彼に対する拍手。私も我然力を入れて手を叩いた。
アンコールには、ハンガリー舞曲 第5番 を演奏した。奇を衒う訳でもなく、凄い華がある訳でもなく、ただ自分の只管歩いて来たピアノの道を、背を丸めて弾くあの姿がそこにあった。
イングリット・フジコ・ヘミングとヴァスコ・ヴァッシレフのデュオ・コンサートは、始まって2時間半後に終わりを告げた。
外に出ると、あの薄桃色の朝焼けは灰色の幕を引き、もみのように尖った木立ちの延長線上には、黄色く熟れた半月の舟が、宙を漂っていた。
2010.11.15(月)