ドラマって、どうしてこうも泣かすんや。何で俺の目に涙が浮いているんや。これは焼酎の所為か。安物の芋焼酎をロックで2杯飲んだだけなのに。冷蔵庫の氷は少なくなり、角が取れて艶を失っていたのに。

たまたまNHKテレビが夜9時から大坂ラブ&ソウル「国境を越えて結ばれる家族の絆」と言うドラマを放映していた。永山絢斗とダバンサイヘイン(ミャンマー)の演じる愛の物語。1948年の済州島で起きた四三事件から、辛うじて日本に逃れて来たハラボジとハルモニの息子を岸部一徳が演じていたが、流石の演技力だった。差し詰め表現力と言っても間違いではない。

人生には無駄が多いが、ドラマには無駄がない。4~50年の事でも2時間あれば演じてしまう。そんな凄さがドラマには秘められている。下手な脚本ではとても泣く事など出来ないが、自分のある部分をドラマは肩代わりをする。それが涙の秘密である。観客が感情移入し、悉く主人公になる。いや、させられてしまうのである。50人一緒に同じドラマを観ていたとしても、おかしな話だが、全員が主人公なのである。

と言う事は、人間の本質や根っこは、みな同じだと実感出来る。人間、同じなのだ。複雑に見えるけれど、同じ感情を持つ五十歩百歩である。喜びもし、哀しみもし、怒りもし、楽しみもするのだ。そして妬み反目もする。

楽園を追放されたアダムとイブのように、人間は限りなく不安や心配や慄きを感じてしまった。これは原罪のなせる所であると、かつて読んだ事のある書物に書いてあったような気がする。

男と女の愉悦の絶頂が極楽であるとは到底思えないが、何故ならそれは一瞬の忘却に過ぎないからだと思うからである。精神的に一つになれるなら、それこそ願ってもない悦楽である。それを求め続ける事自体が、既に苦しみを伴った人間臭い、現世の営みであり掟であろうと思う。

決して難しい事を言っている積もりはない。互いの感情が高まり極まった所で信じ合える幸せが、ひょっとして真実ではないかと思ったのである。かつてそんな事があっただろうかと、暫し考えて見た。何故今なのか。何故今が自分の今なのか。それは自分が選んだのか。必然なのか。

ただ、ドラマを観て涙する自分がここにいる。このようになっていたいと願う自分が、いつでもドラマを観ると存在しているのだ。年も関係なく、一瞬の幻に強く共鳴してしまう自分がいる。もう、スイッチを切られ、真っ黒になった画面を見つめているだけなのに。

そんな瞬間のドラマに一喜一憂する自分の人生は、まるでそのドラマではないのか。今存在している自分は、もう既に過去の自分がここに映し出されているのではないのかと思う事がある。

長くなった髪を、随分長く懸かり付けになっている床屋で切った。帰りによっぽど買おうとした昼網の魚たち。新鮮で安く、行列が出来ている。いやいや、今からヤマハへ行く事にしていて、そんなものを持って歩く訳には行かない。

みかんが安い。もうそろそろお仕舞いだろう栗が安い。でも、すぐ帰るならいざ知らず、今からヤマハへ第2巻目となるオカリナの雑誌を見に行こうとしている。地下鉄板宿駅に向かった。

「東大門」と言う韓国の料理屋があり、久し振りなのでちょっと寄ってキムパでも食べてから地下鉄で県庁前駅まで行こうと思っていた。この店に着くと、もう準備中の札に替わっていたが、外からショーケース越しに覗くと、ママと娘らしい女の子が話しているのが分かった。よっぽど入って行こうと思ったけれど、早く目的地に着きたかった。きっと私の顔を見たら驚いて中に入れてくれた事だろう。それはまた何時でもいいや、と思って踵を返した。

ヤマハでは、先ずCDを物色した。やけに警備員の目が私に光る。感じが悪い。疑われながら探すCDなんてちっとも欲しくはない。2階に上がった。その第2巻目は、確か1890円だった。特に私が欲している記事があるでもなく、買うのも勿体無いと思った。大沢さんのレッスン記事などは面白いが、私のよく知っている人ばかりが記事になっているので、さほど新鮮さを感じない。暫く立ち読みをしている内に、全部読んでしまった。

私があるフェスティバルでオカリナを試奏している写真があって苦笑した。いつか取材が回って来るような事でもあれば、私は全てがばれる。そんな事はないに違いないが、第一載る器でも何でもない訳で、しかし、何号か先にはこの雑誌だって頭打ちになるだろう事は考えられるからだ。何も私でなくても、かなりのアマチュアのオカリナ吹きが載る事と思う。そうなれば、まるでコープみたいな庶民のオカリナ雑誌となるだろう。

真新しい楽譜もなく、フルートの楽譜を見ようと場所を移動した。女学生風の2人が、楽譜を見ていて、「これがいい」と言っていた。私の持っているものと同じだった。妙な気分でそこを離れた。1階に下りるとまだあの警備員がいる。CDを見て回っていたら、私の方を近くで見ていた。余程暇かと思ったが、感じが悪いので外に出た。その瞬間「ありがとうございます」と言った。何も買っていないのに、変なおじさんだと思った。

130円のキャベツ焼きを、屯して食べている人たちに雑じって食べた。高速バスに間に合うように足を速めた。時間が少しあったので、三宮駅のシュークリーム屋さんの前に並んだ。次の番になった時、時間が気になり買わずに列を離れ、バス停に並んだ。女性が声をかけて来た。

「このバスは○○に行きますか」

「ええ、行きますよ。今停まっているバスの後2、3分したら来ますから」

「余り乗らないので・・。ご丁寧にすみません」

と言った。数分したら来る筈のバスが中々来ない。渋滞しているのだろう。15分位遅れて到着した。ばつが悪くて、何度もバスが来る方を見たりしていた。だから、家の近くに着いた時には、三宮を出発する予定の時刻から数えると、50分は経っていただろう。普通なら25分で着く所だった。何も聞かれていなかったら、いくらバスが遅く来ても眼中になかったのだが、こうして話しかけられて来ると妙なもので、完結するまで気になるものなのだ。

家に着くと女子バレーを観た。中国に惜敗と言いたいが、やや向こうの方が強い感じがあった。束の間中国を応援した。これが本意ではないのに、負けそうになると応援すべきではない方に肩を持ったりしそうになる。そんな事ないだろうか。日本、日本、と思っていると感情移入が起こり、とても苦しくなってしまうのだ。

それで中国に逃げる? それも変だけれど、どっちが勝ってもたまたま違った民族に生まれたのだと思うと気が楽になった。でも、リードし出すとやっぱり、頑張って! と叫ぶ。3セット目は、ジュースを重ねた末29-27で勝った。そこからだった、焼酎を飲み出したのは。けれど4セット目は大差で負けた。

私は思った。これは既にアカシックレコードに未来の事も記されていて、既に結果は分かっている事なのだと。だから、冷静に観ていさえすればいい事なのだと感じた。結果が決まっているのだったら、過程がどんなに苦しい状態でも、勝つものは勝つのだ。優勝とか言われるものは、既にそのように仕組まれているのだと。こんなに努力したのだから優勝だ、と言う訳には行かないのだ。在る人は運が良かっと言う。在る人はあれだけ努力をしたのだからと言う。しかしそれはどんな状況であれ過程に過ぎないのだ。

人間、ギリギリの所で救われる事があるが、人間の父、絶対の主にしてみれば、それを動かす事は、さじ加減に過ぎない。短絡的になっても仕方がないが、だから、人間が不完全な者、究極は自分では何ともし難い者、いつか期せずして死を迎える者だとすれば、信じる事と祈る事しかない。

そのように仕組まれているのだったら、白鵬は69連勝の偉業と更なる新記録を打ち立てるだろう。本人は懸命に努力を重ねるに違いない。自らの行為で負けを喫する事があるかも知れない。けれど、偉業を達成する筋書きが書かれていたなら、これは70連勝以上を驀進するだろう。

人生とか人間とかはなかなか捨てて置けないものがある。疑わずに信じて邁進すれば、きっと夢も達成され、実現される事だろう。それを信じたい。

そろそろ芋焼酎が切れて来た。何か今日は変な事を書いたかも知れないが、これもまた何者かが書かせてしまった事なのだろう。こう言う風になる事が予定されていたに違いない。

何でこんな事書かすんや。これって必然ではなくて衝動ではないのか。書きたい思いだけあって、何も書く題材がない時、こんな文章が生まれるんや。お陰で、オカリナの練習が今からになる。近所はきっと煩いと思っているだろう。いつ文句を言おうかと手ぐすね引いて待っているだろう。けど、私には私の都合がある。もう7日になった。8日は、アンサンブルの練習の日で、上手く吹けなかったら悲劇なのだ。

ああ、辺りは余りにも静かだ。

オカリナを吹くべきか、風呂に入るべきか、それが問題だ。

今日のドラマは私を韓国へ行けと急き立てる。日本が嫌いな訳ではない。韓国には、かつての日本の失われたものが残っている。全世界を見る事は最早出来ないが、韓国が呼んでいる。ソウル、釜山、済州。そして慶州や全州。ハラボジ、オッパ、コンベ・・。私はきっとその響きに、懐かしさを覚えているに違いない。

人生って、取り留めのないドラマだ。