耶馬溪と言えば「青の洞門」が浮かぶ筈だ。何十年か前、1度行った事がある。
駐車場は広く、22日は土曜日だったが、人も疎らだった。5人は、車から降りた。途端、奇岩を仰ぎ見て驚嘆した。その凄さは、想像を絶する。出雲にも立久恵峡にこのような奇岩があるが、迫り来るスケールの大きさに圧倒されたのだ。
お兄さんは珍しくもないだろうか、一緒には歩かなかった。すぐに洞門はあったが、ここは車が交互に通れるようになっていて、トンネルの中には歩道もある。ちょっと行って左に下りると、そこにもトンネルがあった。それは、正しく手で掘り抜いた洞門だった。
禅海和尚は越後の人だったが、諸国遍歴の旅の途中にここへ立ち寄った事が発端だった。断崖絶壁に、鎖だけで結ばれた「鎖渡し」と呼ばれる難所があり、通行人が何人も命を落としていた。そこで人々の為に安全な道を作ろうと決心し、この難行苦行に一身を捧げたのである。
側を山国川が流れている。それは競秀峰の裾に掘られた。1763年(宝暦3年)4月に完成したと言うが、49才から始めて30年かかった事は、途轍もなく凄まじい偉業としか、言いようがない。
鑿と鎚だけで掘って行くのだ。托鉢勧進で掘削の資金を集め、石工達を雇って掘ったとは言え、この苦労は推して知るべしである。素掘りで342メートルにも及んでいる。今は直接その長さで続いてはいないけれど。
お地蔵様の横に禅海和尚が掘っている姿が並べられてある。方向を間違えて掘ったと言う痕もあった。その鑿と鎚は近くの羅漢寺の禅海堂に納められているそうだが、今回は行っていない。
最初に開けた明りとりの窓も、横一尋(六尺、訳1.8m)位あったように思う。山国川を切り取って、大きな風景画のようだった。その窓に何かの蔓が左上から斜掛に伸び、蔓の右端には2枚の葉が付いていた。景色も美しく、1950年(昭和25年)には、この辺りは耶馬日田英彦国立公園に指定されている。
この禅海和尚の話は、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」に書かれている。人を殺めた償いに始めた事が発端となっている。
宝暦と言えば、桃園天皇や後桜町天皇の時代であり、幕府では徳川家重(9代)、家治(10代)の頃であった。
この洞門が完成すると禅海和尚は齢80才になろうとしていた。この洞門は有料にし、住み込みの女中と優雅に暮らしたと言うが、それよりも、このトンネルが日本初の有料道路の元祖となったのである。
晩秋の紅葉の時期はさぞ観光客で賑わい、ごった返すであろう。禅海堂では、香煙が耐えないと聞く。
インターネットで調べたら、「洞門バーガー」なるものが、「レストハウス洞門」で売られていると書いてあった。ジューシーで耶馬溪黒豚100%使用。手作りパテが竹炭入りのふんわり黒パンに挟んである。しかも何故か500円だったものが380円に値下げされている。洞門とバーガーは聊か不釣合いだが、思い出は膨らむと思った。後で知った事で残念ではあるが、余りにも鮮やかな「洞門バーガー」の写真が再訪を決定付けるものにした。
お兄さんは先回りをして、私達を待っていた。
22日は、中々終わらない。
駐車場は広く、22日は土曜日だったが、人も疎らだった。5人は、車から降りた。途端、奇岩を仰ぎ見て驚嘆した。その凄さは、想像を絶する。出雲にも立久恵峡にこのような奇岩があるが、迫り来るスケールの大きさに圧倒されたのだ。
お兄さんは珍しくもないだろうか、一緒には歩かなかった。すぐに洞門はあったが、ここは車が交互に通れるようになっていて、トンネルの中には歩道もある。ちょっと行って左に下りると、そこにもトンネルがあった。それは、正しく手で掘り抜いた洞門だった。
禅海和尚は越後の人だったが、諸国遍歴の旅の途中にここへ立ち寄った事が発端だった。断崖絶壁に、鎖だけで結ばれた「鎖渡し」と呼ばれる難所があり、通行人が何人も命を落としていた。そこで人々の為に安全な道を作ろうと決心し、この難行苦行に一身を捧げたのである。
側を山国川が流れている。それは競秀峰の裾に掘られた。1763年(宝暦3年)4月に完成したと言うが、49才から始めて30年かかった事は、途轍もなく凄まじい偉業としか、言いようがない。
鑿と鎚だけで掘って行くのだ。托鉢勧進で掘削の資金を集め、石工達を雇って掘ったとは言え、この苦労は推して知るべしである。素掘りで342メートルにも及んでいる。今は直接その長さで続いてはいないけれど。
お地蔵様の横に禅海和尚が掘っている姿が並べられてある。方向を間違えて掘ったと言う痕もあった。その鑿と鎚は近くの羅漢寺の禅海堂に納められているそうだが、今回は行っていない。
最初に開けた明りとりの窓も、横一尋(六尺、訳1.8m)位あったように思う。山国川を切り取って、大きな風景画のようだった。その窓に何かの蔓が左上から斜掛に伸び、蔓の右端には2枚の葉が付いていた。景色も美しく、1950年(昭和25年)には、この辺りは耶馬日田英彦国立公園に指定されている。
この禅海和尚の話は、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」に書かれている。人を殺めた償いに始めた事が発端となっている。
宝暦と言えば、桃園天皇や後桜町天皇の時代であり、幕府では徳川家重(9代)、家治(10代)の頃であった。
この洞門が完成すると禅海和尚は齢80才になろうとしていた。この洞門は有料にし、住み込みの女中と優雅に暮らしたと言うが、それよりも、このトンネルが日本初の有料道路の元祖となったのである。
晩秋の紅葉の時期はさぞ観光客で賑わい、ごった返すであろう。禅海堂では、香煙が耐えないと聞く。
インターネットで調べたら、「洞門バーガー」なるものが、「レストハウス洞門」で売られていると書いてあった。ジューシーで耶馬溪黒豚100%使用。手作りパテが竹炭入りのふんわり黒パンに挟んである。しかも何故か500円だったものが380円に値下げされている。洞門とバーガーは聊か不釣合いだが、思い出は膨らむと思った。後で知った事で残念ではあるが、余りにも鮮やかな「洞門バーガー」の写真が再訪を決定付けるものにした。
お兄さんは先回りをして、私達を待っていた。
22日は、中々終わらない。