16日の夜は、素敵な光景を見た。娘と、もう6ヶ月になるかと言う孫娘を乗せて、家に送って行く途中だった。三日月と言っていいだろう上弦の月の、その傾いた唇の右端を引っ張るかのように、一つの星が輝いていた。

天体ショーと言うには地味で華やかではないが、この印象の強さは計り知れない。車の手元が狂いそうな程、走りながら見つめた。美しい。とにかく、美しい。

星の涙が月の口元に零れる。キラキラッと、透明な音がする。昔の人なら、「えも言えず哀しい」とでも表現しただろうか。

馬鹿な私は、送り届けて帰ってから、もっと見つめればよかったのに、それを忘れていた。次の日の同じ状態を期待したが、後の祭りだった。三日月の上には、他の薄い星さえも見えなかった。

三日月上の金星は、光を増していた。美しい筈だ。別名、ヴィーナスと呼ばれている位だから。それが月とコラボしたのだ。満月や半月だったらどうだっただろう。それは、想像に難くない。私の頭には、きっと事実として残るだけだっただろうと思う。

見たい。もう一度見たい。生きる喜びは、感動する事、感動出来る事にあると信じて疑わない私には、この状況の再現が待たれる。

と言って、晴れなければどうにもならないが、金星に代わって今度は20日に火星がコラボすると言う。三日月がもう少し膨らんだもっと離れた横に、火星は位置するそうだ。これも見逃せない。

見慣れた月。新月から満月までの営みを、何度見て来た事だろう。これとて初めて見たら、その神秘と美しさに戦いただろう。しかし今は、もう慣れっこになってしまった。時たま真っ赤な月や大きな月を見ると、何故か心が怪しく騒ぐのはいつもの事である。

エジプトの美しい女王の耳飾りのようにも見える金星一つ取ってみても、大きな感動だ。自然は限りない感動を人間に与える。人間の齢(よわい)を考えた時、到底総ての感動を味わい尽せない。人間の脳の使われ方と同じように、ほんの一つまみの感動を味わって黄泉の国へ帰還する。全部や半分ではなく、この三日月程の感動。だから、人生は愛おしく、哀しい程に美しいものなのだと思う。

丁度よい齢を授かっている。求めるのは自分だ。感動を受信するのも自分だ。様々な所に出向く事の出来る幸せ。感動出来る心を与えられている幸せ。どんな事にも目を向け、耳を傾け、五感を駆使して感動で心を洗おうと思う。そうすれば、思いがけない感動がプレゼントして貰える。

素直に美しいと思える心。例え嫌な事であっても、それを生かされている事への感謝の気持ちに変えられれば、感動しっ放しの自分でいられるかも知れない。喜びが、空っぽの貧しい心に、あの金星の涙の雫となって満ちて溢れるだろう。