浅野ゆう子さんのお母さんの店の40周年記念パーティーが終わってから、何事もなかったかのように静かに月が替わった。記念に貰った携帯電子カレンダーが正確な時を刻み、ホテルオークラ神戸平安の間で、同じ時を過ごした420人を思い返させてくれる。

一つの事が終わると言うのは、猛烈な勢いで過去に流されて行く事なのか。何処かに張り付いて、全く動かぬものになって行く事なのか。強いて言えば、誰かしら思い出す人の頭の中で、それはそれぞれの動き方で巡っているのだろう。でなければ、余りにも哀し過ぎる。思い出だけはせめて、事実だったのだと思いたい。

地球も猛烈な勢いで回転しているのに、そんな事は全く感じられずにこの連休の日々を、部屋と言う箱の中で過ごしている。ブログを見たり書いたりご飯を食べたりラジオを聴いたりオカリナを吹いたり、外に出る事もしないで静かに地球の自転に身を委ね、遊ばれている。


オカリナの練習をしようと思うのに、この気だるさの中で中々意欲が湧いて来ない。気持ちはあっても、気力が衰えていてはどうにもならない。目標となる人や曲のレベルが高過ぎる。けれど、だからと言ってその目標を下げる訳には行かないのだ。途端にやる気を失ってしまう。

私は、音楽関係でここまで来なくて良かったかなと、最近思う。毎日の血を吐くような努力など、到底出来っこないからだ。努力も才能ではないのかと、最近考えるようになった。

いい加減な音で、とても聴いて貰えるようなものではない「トルコ行進曲」を吹いてみる時がある。初めは全くこの曲に相手にして貰えなかった。私がやる程度の事は努力などと呼べるものではなく、格好だけ付けているに過ぎない。


変化と言う観点から、オカリナ独特の緩やかな音を中心に吹けるようにしたいけれど、聴く人は刺激も求める。それは固定した観念からではなく、比較から求めて来たものである。すると、1曲でもテンポの速い技巧を要するものを演奏する事で喜んで貰える時がある。いつでも他人の演奏の拍手でそれを思う。

プロとか音楽をやって来た人達には、そんな事何の抵抗もなく当たり前と感じて演奏しているのだろうが、私に取っては思いと諦めと恐怖の中で葛藤している。それでも1曲でも吹いて、聴いて貰えたらどんなにかいいだろうと思うのだ。

そんな人達がいとも簡単に演奏しているのが、モンティーの「チャールダーシュ」だ。これが吹けるようになりたい。が、楽譜さえ容易に読めない私には、火中の栗を拾うようなものである。でも、諦めた時点で「チャールダーシュ」は灰燼に帰す。

何を考えてオカリナを吹いているかとの問いが胸に刺さる。野球だって熱烈な観戦者になればいいし、音楽だって感動出来る聴衆に徹すれば楽しいではないか。

「そこに山があるから登る」と言った人がいた。名言だと思う。そこには憧れと熱情がある。「ここにオカリナがあるから吹く」。そう私が言ったら、お笑いでしかないだろう。

でもでも、プロが初見で演奏してしまうものを、自分もそうしなければと焦る所に驕りがある。半年かかっても1年かかってもいいと思えば、やれるかも知れない。そう思ってはみるものの、凡人である私の短い行く手には、困難の壁よりも絶望の淵が待っているかも知れないのだ。「気楽にやれば」と言ってくれる人が必ず現れる事は百も承知だ。だが、この狂おしい魂をだれが止めてくれるだろうか。

「チャールダーシュ」は、私に取って今どの山なのだろうか。「エベレスト?」。だったらもう見上げる事さえも出来ない相談だ。