傘が要るか要らないか微妙な空模様で、曇天である事は確かだった。私は、最近よく当たる天気予報は、信じるより参考にするようにしているが、この歳になると、外に出た瞬間に降りそうかどうかが分かる。降るぞと思いながら傘を持たずに家を出た時は、大抵電車を降りて歩いている頃に降って来る。
小さな、折り畳みの軽い傘を晴天以外は持って歩くといいよと、誰かが言っているのが聞こえる。それは、この文章を読んでくれている正に、あ・な・た。
オカリナの練習に行く前に、ちょっとだけ吹いていた。道路より高くなっているこの部屋は、バスや、時たま通る人を見下ろす事が出来る。中二階みたいな感じだ。
カーテンを開けると、次の透けたカーテンを通してどっと光が差し込んで来る。同時に、外の様子がはっきり見える。部屋の中の灯りを点けなければ、外からは真っ暗で、中の様子など全く分からない。私は、立って吹く時は、必ず蛍光灯を消す。
聴いて貰おうと思って吹く訳ではないが、人が歩いていたり自転車に乗って過ぎる時は、聞こえているなと思う。窓ガラスを開けていたらてき面であるが、最近は閉めて吹く事が殆どだ。
可笑しなもので、人影を(影ではないが)見ると、やっぱり聞いて貰いたいと思うものだ。関係ないのにそう思ってしまう。そして、少々心が揺れて、音が上擦る。
若い女の人が通ろうものなら、その瞬間から何か曲を吹きたくなるが、それは余りにも作為的と言うに等しい。勇気もなく、無伴奏の時はそれもありかとは思うが、伴奏を流して吹いている時、間奏が1分もある曲もある。そんな時は、落胆してしまう。1分もあれば、大抵次に吹いても、もうその人には音は届かないからだ。心は虚しく、ああ、ああ、と叫ぶだけだ。
今度はどんな人が通るのだろうと思うと、いつしか集中出来なくなってしまっている。
「千の風になって」を前半のアルトのC管で吹いている時だった。今までこんな事はなかったのだが、若い女の人が、こちらを振り向いた。勿論音はすれども姿は見えず、だけれど。普通は聞こえていても、振り返ったりする人はいない。多分、ちょっと耳だけは澄まして、聞こえなくなるまで同じ歩調で歩いているに違いない。今までに、そうして何百人もの人達が通り過ぎて行った事だろう。
若い女の人が通り過ぎると、今度は年配の女の人の姿が見えた。驚いた事に、この女性は並木の下に立って、じっとアルトC管の奏でる「千の風」を聴いているではないか。しかも笑顔なのだ。私を見ているその顔は、はっきり分かる。けれど、その女性に私の顔所か、何処に私がいるかさえ分からない。こんなにまでして聴いてくれるのだったら、窓を開けて、私ですと言って聴いて貰おうかとも思った。でも、それは出来ない相談だった。
間奏があり、今度はソプラノC管に私は持ち替える。その間の伴奏は外には聞こえない。もう終わったと思ったのだろうか、その人は歩き出した。「待ってくれ。次も続くから」。そんな声は届かなかった。高い音が鳴り始めた時には、もう私の視界にはいなかった。ソプラノの音だけが、その女性を追いかけていた。微かに聞きながら歩いて行ったか、私の見えない所に再び立ち止まって聴いたかは分かる術もない。
これも出会いの内の一つなのだろうか。私の音の記憶と一緒に歩く人。全く素通りしてしまった人。微かに風の流れのように空言のように聞こえた人。様々だろう。
それから練習場へと向かった。「天空のオリオン」と「主よ 人の望みの喜びよ」の練習をした。皆で6人だったが楽譜が読めるので、すぐに吹く事が出来た。材料は同じでも料理の味が違うように、しっかり吹けるようになったら、今度は自分の音と方法と解釈で吹ける所まで、自分のものにして行かなければならない。
「主よ 人の望みの喜びよ」は、流れるようにとだけ書いてある。私はソプラノC管で随分速く吹いてみた。
「どうしてそんなに速く吹くんですか」
と言われた。
「いきなり速くは吹けないでしょう? あんまりゆっくりだったら面白味がないしね。速い方が聴く方に取っても意外性があって面白いと思います。家ではこの楽譜をお経のように、聖書のようにいつも手元に置いて、時間があるなと思ったら迷わず吹いて下さい。先ずゆっくり確実に吹いて、それから自分で出来る最大の速さで吹く練習をして欲しいと思います。それが出来るようになったら、自分の思う速さにしたらいいのです」
と言った。早く吹くコツはある。このメロディーをすっかり覚えてしまう事だ。すると、指もついて来るし、メロディーにつられて、速くも吹く事が可能となる。要は、出来るだけ早く暗譜する事だ。
「指の練習になりますね」
と言った人がいた。
「そうですね」
と私は言ったけれど、そうではない。これは素晴らしい曲だ。J.S.バッハは、努々そんな気持ちで作ったのではないと思った。指の練習と捕らえても不思議はないが、そこから抜け出ると、もっともっと楽しい世界が待っている。
昨日行ったコンサートの事が書きたかったが、それは明日にしたい。読む方も大変である。
私のこの部屋のバス道に面した通りを歩きながら、私のオカリナを聴いた人はどんな思いでいるだろうか。感動しているだろうか、感謝しているだろうか。
そんな事はないだろう。それは、聴きながら通り過ぎる人に私こそが感動し、耳に残してくれたその人達に、私の方が感謝している。付随した副産物だとしても、その跳ね返るものは私に対する貴重な贈り物なのだ。
小さな、折り畳みの軽い傘を晴天以外は持って歩くといいよと、誰かが言っているのが聞こえる。それは、この文章を読んでくれている正に、あ・な・た。
オカリナの練習に行く前に、ちょっとだけ吹いていた。道路より高くなっているこの部屋は、バスや、時たま通る人を見下ろす事が出来る。中二階みたいな感じだ。
カーテンを開けると、次の透けたカーテンを通してどっと光が差し込んで来る。同時に、外の様子がはっきり見える。部屋の中の灯りを点けなければ、外からは真っ暗で、中の様子など全く分からない。私は、立って吹く時は、必ず蛍光灯を消す。
聴いて貰おうと思って吹く訳ではないが、人が歩いていたり自転車に乗って過ぎる時は、聞こえているなと思う。窓ガラスを開けていたらてき面であるが、最近は閉めて吹く事が殆どだ。
可笑しなもので、人影を(影ではないが)見ると、やっぱり聞いて貰いたいと思うものだ。関係ないのにそう思ってしまう。そして、少々心が揺れて、音が上擦る。
若い女の人が通ろうものなら、その瞬間から何か曲を吹きたくなるが、それは余りにも作為的と言うに等しい。勇気もなく、無伴奏の時はそれもありかとは思うが、伴奏を流して吹いている時、間奏が1分もある曲もある。そんな時は、落胆してしまう。1分もあれば、大抵次に吹いても、もうその人には音は届かないからだ。心は虚しく、ああ、ああ、と叫ぶだけだ。
今度はどんな人が通るのだろうと思うと、いつしか集中出来なくなってしまっている。
「千の風になって」を前半のアルトのC管で吹いている時だった。今までこんな事はなかったのだが、若い女の人が、こちらを振り向いた。勿論音はすれども姿は見えず、だけれど。普通は聞こえていても、振り返ったりする人はいない。多分、ちょっと耳だけは澄まして、聞こえなくなるまで同じ歩調で歩いているに違いない。今までに、そうして何百人もの人達が通り過ぎて行った事だろう。
若い女の人が通り過ぎると、今度は年配の女の人の姿が見えた。驚いた事に、この女性は並木の下に立って、じっとアルトC管の奏でる「千の風」を聴いているではないか。しかも笑顔なのだ。私を見ているその顔は、はっきり分かる。けれど、その女性に私の顔所か、何処に私がいるかさえ分からない。こんなにまでして聴いてくれるのだったら、窓を開けて、私ですと言って聴いて貰おうかとも思った。でも、それは出来ない相談だった。
間奏があり、今度はソプラノC管に私は持ち替える。その間の伴奏は外には聞こえない。もう終わったと思ったのだろうか、その人は歩き出した。「待ってくれ。次も続くから」。そんな声は届かなかった。高い音が鳴り始めた時には、もう私の視界にはいなかった。ソプラノの音だけが、その女性を追いかけていた。微かに聞きながら歩いて行ったか、私の見えない所に再び立ち止まって聴いたかは分かる術もない。
これも出会いの内の一つなのだろうか。私の音の記憶と一緒に歩く人。全く素通りしてしまった人。微かに風の流れのように空言のように聞こえた人。様々だろう。
それから練習場へと向かった。「天空のオリオン」と「主よ 人の望みの喜びよ」の練習をした。皆で6人だったが楽譜が読めるので、すぐに吹く事が出来た。材料は同じでも料理の味が違うように、しっかり吹けるようになったら、今度は自分の音と方法と解釈で吹ける所まで、自分のものにして行かなければならない。
「主よ 人の望みの喜びよ」は、流れるようにとだけ書いてある。私はソプラノC管で随分速く吹いてみた。
「どうしてそんなに速く吹くんですか」
と言われた。
「いきなり速くは吹けないでしょう? あんまりゆっくりだったら面白味がないしね。速い方が聴く方に取っても意外性があって面白いと思います。家ではこの楽譜をお経のように、聖書のようにいつも手元に置いて、時間があるなと思ったら迷わず吹いて下さい。先ずゆっくり確実に吹いて、それから自分で出来る最大の速さで吹く練習をして欲しいと思います。それが出来るようになったら、自分の思う速さにしたらいいのです」
と言った。早く吹くコツはある。このメロディーをすっかり覚えてしまう事だ。すると、指もついて来るし、メロディーにつられて、速くも吹く事が可能となる。要は、出来るだけ早く暗譜する事だ。
「指の練習になりますね」
と言った人がいた。
「そうですね」
と私は言ったけれど、そうではない。これは素晴らしい曲だ。J.S.バッハは、努々そんな気持ちで作ったのではないと思った。指の練習と捕らえても不思議はないが、そこから抜け出ると、もっともっと楽しい世界が待っている。
昨日行ったコンサートの事が書きたかったが、それは明日にしたい。読む方も大変である。
私のこの部屋のバス道に面した通りを歩きながら、私のオカリナを聴いた人はどんな思いでいるだろうか。感動しているだろうか、感謝しているだろうか。
そんな事はないだろう。それは、聴きながら通り過ぎる人に私こそが感動し、耳に残してくれたその人達に、私の方が感謝している。付随した副産物だとしても、その跳ね返るものは私に対する貴重な贈り物なのだ。