1995年阪神・淡路大震災までは私のオカリナは全て「アケタ」だった。ダブレットも含めて、どれだけ買った事だろう。カラフルでもあり、B♭などは形も変わっている。

1Cは高音がキンキンしていて、私は殆ど使わなかった。愛用していたのは、「Prima MAESTRO T2F」だった。何かあると童謡や唱歌、簡単な外国の曲をこのT2Fで吹いていた。特によく吹いたのは「ある愛の歌」だった。このT2FはC管で言えば、低音のソまで出るのが不思議だ。

かなり上等の「アケタ」のオカリナを10本以上は集めた。真っ白のそれが、私の頭の中では最高級品だった。でも、単発で吹く事を除いたら、もう使わないかも知れない。それと、私の最初に出会った愛すべき、オカリナの本家である事とはまた別問題だ。

「アケタ」オンリーだった私が次に劇的に出会ったのが、吉塚テルヲさんの制作する「吉塚オカリナ」である。

1998年にSC、SG、SF、MC、LG、LF、LCの7本を、試聴など出来る訳もなく、ただ、東京の「アケタ」に注文がてら他にオカリナを作っている人を紹介してもらって注文した。その時の電話に出た人が深瀬欽吾さんだった。初めて名前を聞いたこのオカリナの名手が、吉塚さんを紹介してくれたのだ。

これが「カンターレ」だったら。これが「ティアーモ」だったら。オカリナ人生はまた少し違っていただろう。

その時吉塚さんは20才台だった。私はそれ以後東京に吉塚さんを訪ねたのだから、人並み以上の情熱はあったものと見える。

この「吉塚オカリナ」の、私が所有するSC管についてちょっとだけ書いておこう。

1998年制作のSC(ソプラノC管)は最初に7本買った内の1本だ。職場のテーブルの上にことんと落として、半分に割れた。ボンドでくっ付けたが付かず、陶器用のを買って来て付けたらくっ付いた。しかし、割れたラインは残った。ショックだったが、人には悟られないようにした。また割れて、今は廃棄寸前だ。

2001年に注文したSCは水色と薄いピンクが斑になった綺麗なオカリナだった。当分それが主流となる。

2004年購入のSCは、同じSCでも私が狂気した程の名器だった。「浜辺の歌」専門になる位、素晴らしい音がした。黄土色のそれを得意げに吹いた。実力を上回った音がするのだから。しかしそれも、新長田のピフレホールで「浜辺の歌」を吹いたのが、初めで終わりとなった。歌口に紙を突っ込んで掃除していたら、慌てていた所為で紙が出なくなり、歌口を傷めてしまった。冷や汗は出るわ、後悔するわで、半年は心が穏やかではなかった。

吉塚さんのSCならどれも同じだろうと思うのは早計だ。この音を求めてまたまたSCを電話注文した。もうこの頃になると、1年半は待たないと送って来ない程の有名ブランドになっていた。

2006年のSCは濃いブルーだった。まだ私は色の指定まではしていなかった。これは少し固い感じの音がした。あの名器の音ではない。

その後また違った種類のオカリナ7本を注文し、その時のSCは赤色だった。2008年に落手した。ここから私は色指定をするようになった。赤と言ったけれど、よく見ると細い黒い線が幾つか入っている。少し締まった音がする。しかし、あの名器とは似ていない。

2009年に私が指定していたスカイブルーのSCが送って来た。色はとても綺麗だ。音を出すのが怖かった。また、あの幻の名器を求めて注文し続けなければならないのかと、どきどきだった。あの名器にやや近い音がした。もうここら辺で吉塚オカリナSCは卒業としよう。あの名器は幻となって引き出しに眠っている。

この吉塚オカリナは、小山京子さんや茨木智博さんも使っていると思うと、何かこそばゆい気もする。

最近吹き過ぎて、内部の土が湿り、更に追い討ちをかけるように濡れて行った。当然、高音部の音が掠れたようになるか鳴らなくなるかの支障を来す。こうなるなど、思ってもみなかった。3日以上は放って置かないと元に戻らない。そんな時、他のSCが活躍するのだ。けれど音はやっぱり違い、心に納得させながら吹く。駄目だと言う訳ではないので、演奏する時はスペアーとして持っていようと思った。

吉塚オカリナのSCのSはスモールだが、私が持っているその他のソプラノCは「千村オカリナ」「木村オカリナ」「ティアーモ」だ。これも、曲指定で吹く。例えば千村オカリナでは「母さんの歌」、木村オカリナでは「月の沙漠」、ティアーモでは「鳥の歌」や「千の風になって」「崖の上のポニョ」などである。

キンキンして、吹くのを敬遠していたソプラノCだったが、吉塚オカリナSCと出会ってからは、このキンキンさもなくなって、今では私のメインオカリナとなった。これだけ出会いと言うものは大きな転換を齎すものなのである。

今この水色のSCは、「リュブリャーナの青い空」「トルコ行進曲」「主よ 人の望みの喜びよ」だけを吹かせられて、少々飽き飽きしている事だろう。