孤独とは独居ではない
人の密集する中にある
群集の中の孤独こそ
現代人の孤独である

20年近く前に出版された本の中にあった言葉である。あの「人生論ノート」を書いた三木清も「孤独とは、人里離れた山の中にあるのではない」と言っている。

今日の読売新聞には、以前の新人教師の自殺の記事が載っていた。2006年5月27日に、自宅で自殺を図った。

この記事の意図するところと私が載せた事とは違うかも知れないが、意気に燃えて小学校の教師の仕事を選んだこの若い女性教諭が、たった2ケ月で命を絶たなければならなかった事に無念さを覚える。ノートに書き残した遺書を見ると、不憫でいた堪らない。

「無責任な私をお許し下さい。全て私の無能さが原因です。家族のみんなごめんなさい。」

単学級の2年生を担任した。喜びで一杯だった事だろう。所が、最初にどかんと圧し掛かって来るものがある。勿論授業。毎日の授業の指導案を考えるのだって精一杯だ。そこに学級運営、学校行事の準備、公開授業指導案、年間授業計画作り・・。その上、法制化された初任者研修と言うものがあり、校内研修、校外研修に取られる時間は膨大である。その1年間は、子どもに精一杯拘わる事など出来ない。

校外研修の後は他の定められた担当者が補充する事になっているので、物理的には時間は確保されている。校内研修も、指導教諭がいて実際の授業の研究をする。元はと言えば、教師の資質向上の為であったのだ。新任教師にとっては大変な負担となるが、殆どの者は何とかこの大変さを切り抜けて来ている。ならば、この女性新任教師は資質や力や情熱がなかったかと言うと、それこそ殆ど関係がない事だろう。

連絡ノートには、親達の苦情で一杯だったと言う。新宿区の教育委員会に寄せられたものは、その教諭にはとても見せられない、伝えられないものだったらしい。「なんで子どもに漢字で名前を書かせないのか」「期待したような宿題が出ていない」「結婚や子育てもしていないので経験が乏しいのではないか」。この位なら、文字上では改善の余地もある。ただ、これでも感情が加わると怒声や責めに変わる。これでは、それ以上の苦情(最早苦情とは言えないものだと推察出来る)をこの教諭に見せられる訳がない。

教師になりたての者が、ベテラン教師のように子どもの把握や授業、まして親への対応が上手く出来る訳がないのである。最初は、教師の誰もが通る道なのだ。それを悩み苦しみながら、やがてベテランの教師に成長して行く。最初からスケートを上手く滑れる人がいないのと同じ事ではないのかと思う。

それを、同じようにしか見る事の出来ない者の側に問題がありはしないか。そして、この若いなりたての教師の話を親身に聞いてやれる先輩や仲間はいなかったのだろうか。

親の気持ちも分からぬ部分がない訳ではないが、その担任にも、若さと言う素晴らしいものがある。子どもにそんな利点で接してくれている事を理解し、その若い先生が成長してくれる事を願いながら教師と親とで子どもを見守るようにすれば、子どもは伸び伸びと育てられると思う。また、そんな親なら、ここまで責めたりはしないだろう。そうしたところで、一度に変わる筈がないのだ。それは状況を悪化させ、若い命を落とさせてしまう結果に繋がる。

教育者なのだからちゃんとやって貰わないと困る、と言うのは当たり前の事だ。だが、このこれから少しずつ学んで成長して行こうとしていた若い教師に、沢山の苦情をどさっと投げ付けられると行き場を失ってしまう。教師とて人間である。この教師が子どもを悪くしようと思って関わった行為なら許されないだろう。けれど、これだけ教師になる事を夢見、意気に感じて教壇に立ったこの先生が、そんな思いを持って教師になったとは信じられない。

モンスター・ペアレントにかかっては、繊細な心は動揺し、悩む。理不尽な事もあるからだ。言いたい事があれば、相談したり、さりげなく人生の先輩として教えて上げたりする気持ちがあれば、こんな事にはならなかったと思う。

その本には、こんな言葉もあった。

言葉には色がある
言葉には重みがある
言葉には温みがある
すべてはその人の心からでる

もう、苦情を垂れた人たちは、この先生がいなくなってホッとしているだろうか。少しは涙を見せただろうか。どちらにしても、自分の責任ではないと思っているに違いない。でなかったら、そこまでこの若い命を苦しめる言葉連発しなかったと思うのだ。私は、このこの女性教諭が憐れでならない。