立松和平さんが2月8日に亡くなった。以前講演を聞いた事があり、激しくない口調や何かを求めている感情や好奇心などは、全体として根を張って行く姿と重なっているような気がしていた。
立松さんの事を思うと宗次郎さんを思い、宗次郎さんの事を思うと立松さんの事を思った。
それは、「宗次郎の世界」と言うCD10巻のPREMIUM BOXがあり、その中に立松和平さんと野村宗次郎さんとの対談が載っているのを思い出すからである。
セピア色にアレンジされた写真の中の二人が笑っている姿を見ると、まるでそれは菩薩の世界のようでもあった。菩薩に通じるオカリナの世界。それを理解する作家の心。その融合は祈りに通じるものがある。修羅場を乗り越えて辿り着こうとしている菩薩界。オカリナで目指すのはそんな世界だし、オカリナが、人をそこに導くのだと思う。
宗次郎さんの魅力は、正にそこに繋がっている世界を持っている所にある。こんな詩を書いている宗次郎さんには、共鳴しないではいられない。
音楽は
祈りに始まり
祈りは
心を無にすることから
始まります。
オカリナを奏でるのに
大切なことは
祈りを捧げるときの様な
純粋な気持ちだと思います。
冷たい土の笛を
自らの手の温もりで
そっと包み込み、あたため、
そうして、心の底から
魂のこもった息を
吹き入れてあげるのです。
私も、オカリナの詩は、祈りの声に続く道でありたいと思っている。魂の叫びが、静かに聴く人の心に溶け込んで行くのだ。
宗次郎 僕がオカリナを始めた頃は、オカリナに市民権はなかったですから。もう、「何それ、オカリナ?」とか言われて。でも僕は、この音を聴いてもらえれば絶対何かあると思って続けて来られたので。独立して先生から離れた頃に、コンサートの依頼があって信州の山のほうに行ったんですよ。そしたらお客さんが10人しかいなくて。でも、その10人が本当に熱心に聴いてくれたんですよ。会場の条件が悪くて、車も遠くにしか止められなくて、終わってから真っ暗な中で寂しく片付けしてたら、さっきのお客さんが3人くらい、わざわざそこまで来て、「感動しました、すごく良かった、涙が出るくらい」って。そうまでして言ってくれる人が3人もいたんだと思ったら、僕は逆に感動して、「コンサート会場でお客さんがたった1人でも、真剣に聴いてくれる人がいれば出来る」と思ったんです。
立 松 僕も講演に呼ばれて1人しかいなくて、テーブルで2人でやったことあるよ(笑)。でも、そういう腹のくくり方っていうか、覚悟を僕は感じるから、宗次郎さんはすごいと思う。中途半端な芸術家と違って、生き方に芯が通っていてブレないし、だからこそ淡々とここまで宗次郎というミュージシャンを維持して来られたんだと思いますよ。たとえばね、ガチャガチャしたバンドの中で吹いても、オカリナはツーンと突き抜けていくぞっていう自信はあるでしょ。実際、笛さえあれば1人で、それこそ法隆寺でも東大寺でも行けるわけじゃないですか。こんな強いことはない。笛1個、しかもカバンに入る笛でしょ。カバンがなくたっていいんだよね、布きれの袋が1個あれば(笑)。これは強いですよ。肉体の一部と一緒だね。
――それは、せせらぎの音とか自然の音と同じような、無意識のうちに聴こえてくる音ということですか?
立 松 そうそう、そっちに近いんでしょうね。そういえば思い出した。道元の言葉で“渓声山色”っていうんだけど、せせらぎの音はお釈迦様の説法であり、山の姿はお釈迦様の姿である。自然は常に説法し続けるという。まぁ、これは禅の話なんだけど、何かそんな感じがありますよねぇ。宗次郎さんのオカリナは、渓(たにがわ)の声に近い、そういう音楽だと思いますよ。
――最後に、宗次郎さんのオカリナへの現在の想いをお聞かせください。
宗次郎:一般にオカリナというと、静かで哀愁を帯びた音楽、というイメージを抱く人が多いかも知れません。でも僕は、オカリナは“強さ”もまたしっかりと表現出来る楽器だと思っています。
かつて、スロヴェニアのリュブリャーナという街に呼ばれた時に、明るさや強さを持った楽しい曲が吹きたいと、フォークダンスのような曲を作って演奏したことがあります。ややアップテンポの曲で、僕自身も本当に気持ち良く吹けたのですが、演奏が終わった瞬間、まさに会場全体でスタンディング・オベーションが沸き起こって、いつまでも拍手喝采が鳴り止みませんでした。「僕の表現したかったオカリナが、遠い異国の地で受け入れてもらえた!」そう思うと、僕はとても感激して、嬉しさに心が躍ったのを憶えています。
オカリナの音色は、国境や言葉の壁を越えて通じ合えるものだと思います。オカリナの音色が嫌いな人はいない・・僕は、そう信じています。
突然亡くなってしまった立松和平さんの事に、宗次郎さんは驚きと悲しみを抱いたに違いないと思う。そんな立松さんに、最後に宗次郎さんの事を締めくくって貰おう。
立 松 山小屋でね、朝、何かいい曲が聞こえてくるんです。練習していたんですよね。タダで僕は随分聴かせてもらいました(笑)。
宗次郎 泊まった翌朝に森の中で吹くと、すごく響くんですよ。吹いていて気持ちがいい。
立 松 夏に毘沙門祭で、宗次郎さんにオカリナを生で吹いてもらったら、鳥が鳴くんです。感動しますよ。それに、鳴き止んだりもするの。きっと鳥にしてみたら、聞いたこともない不思議な鳥が来たと思ったのかも知れない(笑)。鳥とセッションをやっているという感じで、僕、あんな音楽初めてですよ。何か本当に自然な感じで、「あぁ、宗次郎の音楽っていうのはこういうところに魂があるんだなぁ」と思いましたよ。
正に二人の菩薩が話しているような気がしながら、「心の原風景を求めて」の対談を、この機に読み返していた。立松和平さんが亡くなったとは、どうしても思えない。このセピア色の二人の笑顔を見ていると、尚更そう思われる。享年62歳。宗次郎さんは、今それよりも10歳程若いのである。
立松さんの事を思うと宗次郎さんを思い、宗次郎さんの事を思うと立松さんの事を思った。
それは、「宗次郎の世界」と言うCD10巻のPREMIUM BOXがあり、その中に立松和平さんと野村宗次郎さんとの対談が載っているのを思い出すからである。
セピア色にアレンジされた写真の中の二人が笑っている姿を見ると、まるでそれは菩薩の世界のようでもあった。菩薩に通じるオカリナの世界。それを理解する作家の心。その融合は祈りに通じるものがある。修羅場を乗り越えて辿り着こうとしている菩薩界。オカリナで目指すのはそんな世界だし、オカリナが、人をそこに導くのだと思う。
宗次郎さんの魅力は、正にそこに繋がっている世界を持っている所にある。こんな詩を書いている宗次郎さんには、共鳴しないではいられない。
音楽は
祈りに始まり
祈りは
心を無にすることから
始まります。
オカリナを奏でるのに
大切なことは
祈りを捧げるときの様な
純粋な気持ちだと思います。
冷たい土の笛を
自らの手の温もりで
そっと包み込み、あたため、
そうして、心の底から
魂のこもった息を
吹き入れてあげるのです。
私も、オカリナの詩は、祈りの声に続く道でありたいと思っている。魂の叫びが、静かに聴く人の心に溶け込んで行くのだ。
宗次郎 僕がオカリナを始めた頃は、オカリナに市民権はなかったですから。もう、「何それ、オカリナ?」とか言われて。でも僕は、この音を聴いてもらえれば絶対何かあると思って続けて来られたので。独立して先生から離れた頃に、コンサートの依頼があって信州の山のほうに行ったんですよ。そしたらお客さんが10人しかいなくて。でも、その10人が本当に熱心に聴いてくれたんですよ。会場の条件が悪くて、車も遠くにしか止められなくて、終わってから真っ暗な中で寂しく片付けしてたら、さっきのお客さんが3人くらい、わざわざそこまで来て、「感動しました、すごく良かった、涙が出るくらい」って。そうまでして言ってくれる人が3人もいたんだと思ったら、僕は逆に感動して、「コンサート会場でお客さんがたった1人でも、真剣に聴いてくれる人がいれば出来る」と思ったんです。
立 松 僕も講演に呼ばれて1人しかいなくて、テーブルで2人でやったことあるよ(笑)。でも、そういう腹のくくり方っていうか、覚悟を僕は感じるから、宗次郎さんはすごいと思う。中途半端な芸術家と違って、生き方に芯が通っていてブレないし、だからこそ淡々とここまで宗次郎というミュージシャンを維持して来られたんだと思いますよ。たとえばね、ガチャガチャしたバンドの中で吹いても、オカリナはツーンと突き抜けていくぞっていう自信はあるでしょ。実際、笛さえあれば1人で、それこそ法隆寺でも東大寺でも行けるわけじゃないですか。こんな強いことはない。笛1個、しかもカバンに入る笛でしょ。カバンがなくたっていいんだよね、布きれの袋が1個あれば(笑)。これは強いですよ。肉体の一部と一緒だね。
――それは、せせらぎの音とか自然の音と同じような、無意識のうちに聴こえてくる音ということですか?
立 松 そうそう、そっちに近いんでしょうね。そういえば思い出した。道元の言葉で“渓声山色”っていうんだけど、せせらぎの音はお釈迦様の説法であり、山の姿はお釈迦様の姿である。自然は常に説法し続けるという。まぁ、これは禅の話なんだけど、何かそんな感じがありますよねぇ。宗次郎さんのオカリナは、渓(たにがわ)の声に近い、そういう音楽だと思いますよ。
――最後に、宗次郎さんのオカリナへの現在の想いをお聞かせください。
宗次郎:一般にオカリナというと、静かで哀愁を帯びた音楽、というイメージを抱く人が多いかも知れません。でも僕は、オカリナは“強さ”もまたしっかりと表現出来る楽器だと思っています。
かつて、スロヴェニアのリュブリャーナという街に呼ばれた時に、明るさや強さを持った楽しい曲が吹きたいと、フォークダンスのような曲を作って演奏したことがあります。ややアップテンポの曲で、僕自身も本当に気持ち良く吹けたのですが、演奏が終わった瞬間、まさに会場全体でスタンディング・オベーションが沸き起こって、いつまでも拍手喝采が鳴り止みませんでした。「僕の表現したかったオカリナが、遠い異国の地で受け入れてもらえた!」そう思うと、僕はとても感激して、嬉しさに心が躍ったのを憶えています。
オカリナの音色は、国境や言葉の壁を越えて通じ合えるものだと思います。オカリナの音色が嫌いな人はいない・・僕は、そう信じています。
突然亡くなってしまった立松和平さんの事に、宗次郎さんは驚きと悲しみを抱いたに違いないと思う。そんな立松さんに、最後に宗次郎さんの事を締めくくって貰おう。
立 松 山小屋でね、朝、何かいい曲が聞こえてくるんです。練習していたんですよね。タダで僕は随分聴かせてもらいました(笑)。
宗次郎 泊まった翌朝に森の中で吹くと、すごく響くんですよ。吹いていて気持ちがいい。
立 松 夏に毘沙門祭で、宗次郎さんにオカリナを生で吹いてもらったら、鳥が鳴くんです。感動しますよ。それに、鳴き止んだりもするの。きっと鳥にしてみたら、聞いたこともない不思議な鳥が来たと思ったのかも知れない(笑)。鳥とセッションをやっているという感じで、僕、あんな音楽初めてですよ。何か本当に自然な感じで、「あぁ、宗次郎の音楽っていうのはこういうところに魂があるんだなぁ」と思いましたよ。
正に二人の菩薩が話しているような気がしながら、「心の原風景を求めて」の対談を、この機に読み返していた。立松和平さんが亡くなったとは、どうしても思えない。このセピア色の二人の笑顔を見ていると、尚更そう思われる。享年62歳。宗次郎さんは、今それよりも10歳程若いのである。