がさがさと戸棚の中の探し物をしていたら、目的のものは見付からずに、おばあちゃんの事を書いたものが出て来た。今オカリナを吹いているのも、おばあちゃんが切っ掛けを与えてくれたお陰なのだ。
おばあちゃんばっかり偲んでいる訳ではないが、2つ出て来たので載せて、今日は終わりにしたい。
何かに応募した時の文章で、一般部門と書いてあるが、11年位前のものだ。
祖母が恩人
赤とんぼが青い空に映える頃になると、決まって祖母のことを思い出す。
保険の代理店をしていた祖母は結構顔も広く、原石鼎に師事する俳人でもあった。
美容院を経営している友達の所にも、何度か連れて行って貰ったことがあったが、東京でシナリオを書いていた息子が帰っていて、小学校六年生だった私に見せてくれたのが、土でできたオカリナだった。口に銜えて息を吹き込むと、鳩の鳴くような音がした。こんな楽器があったのかと驚きさえした。余り興味を示すので、そのオカリナは私の手に渡ることになった。いずれ、妹に踏まれて粉々になってしまう運命のオカリナだったが・・。
私が小学校四年生の時、祖母は当時スペリオパイプと呼ばれていた、ブルーの縦笛をお土産に買って来てくれたことがあった。音を探りながら独習したことを思い出すが、これも初めて見る楽器だった。昭和三十年頃のこと。自分では思いもつかぬことを、祖母がこのような形で示してくれたことは、私にとって祖母を恩人の一人に加えなくてはならないだろう。
今までずっと笛など手にしていなかったが、オカリナの演奏があちこちで聴かれるようになったことと、改めて素朴な音色の素晴らしさに感動したことで、数十年経た今、再びオカリナを手にすることになった。私自身の生涯学習としても、オカリナを私から切り離すことはできない。
テレビである人が演奏していたと聞いて、名前と住所をテレビ局に問い合わせて貰って、その人に会いに行ったのが神戸の地震の年の前である。地震以後三年ほど会っていなかったが、最近頓に会うことが多くなった。もうオカリナを四万個も焼いた、感動的な奏法の演奏家でもある。独特な音色のする楽器を完成させているが、吹く人によって様々に良さを引き出すことができる。今年の夏は、数十名の子供と共に、作り方を教わった。難しいこと極まりないが、一端の陶芸家になったような気がした。私の生涯路線を大きく変えてしまう体験だったかも知れない。
昨年は横浜にいるもう一人の妹からの話で、そこにあるコーヒー豆を売る店で、初めて演奏をした。その後は、クリスマスの頃、老人ホームと幼稚園で演奏させてもらった。お年寄りの方達が、「故郷」や「里の秋」など昔の懐かしい曲を聴いて涙を流されている姿は忘れることができない。
私にもこういう世界があったのだ。自分も生き甲斐を感じることができるし、人にも感動をあたえることのできる小さなオカリナという楽器を楽しむ世界が・・。
今、オカリナを通じて私の社交範囲が広がってきているが、これも祖母という一人の恩人がいたからだ。私は三年半も前に先立ってしまった祖母に改めて感謝すると共に、祖母に対して何もできなかったことを悔いている。
オカリナといえば祖母を思い出すし、オカリナを通して広がった人々との出会いもまた、祖母のお陰と思っている。オカリナは、私を育ててくれた祖母へのせめてものレクイエムである。
次は、財団法人神戸市演奏協会だより「音楽のまちKobe」と言う8ページ程のもので、これは8年前に載せて頂いたものだ。
恩人たちの風景
~祖母が私に残したもの・オカリナ~
オカリナと出会えたのは、間接的には祖母のお陰と言えるのです。祖母とは俳句仲間の美容師のシナリオライターである息子さんが、胸を患って東京から田舎に帰って来ていました。その時、私に見せてくれたのが、めずらしい土で作った笛だったのです。温かい、優しい音は、小学校6年生だった私に今でも忘れられない衝撃を与えました。彼が、そのオカリナをくれなかったら、どうなっていたか分かりません。
4才で吹いていたハーモニカも好きで、小学校では合奏団に入ってホルンハーモニカ。4年生の時、祖母がみやげに買って来てくれたスペリオパイプ(今のリコーダー)にも魅せられて、中学校ではブラスバンドでクラリネット。しかし、これだけ好きだった音楽を離れて、陸上競技の世界へ入ってしまいました。
それから何十年も経った頃、私にでも演奏出来るのは、オカリナしかないと思えたのです。どこにでも運べて、どこでも鳴らすことができるオカリナ。それは聴く人の心に染み入る安らぎを与えます。人は自分を何かの手段を用いて表現したいと思っています。私の心の中は、オカリナによって表出します。オカリナは、自分自身であるとも言えるのです。私は、これからも在るがままの自分をオカリナによって曝け出すだろうし、私の自由な気持ちを青空のように、雨のように、風のように表せる、落とせば壊れてしまうけれど犯すことの出来ない、唯一いとおしい空間だと感じているのです。
こんな2つの文章が出て来たが、今更載せるのは恥ずかしい気もする。けれど、おばあちゃんへの気持ちの方が大きいので、10年も昔になろうとする拙文を、おばあちゃんの為に恥ずかしさは捨てて捧げたい。
おばあちゃんばっかり偲んでいる訳ではないが、2つ出て来たので載せて、今日は終わりにしたい。
何かに応募した時の文章で、一般部門と書いてあるが、11年位前のものだ。
祖母が恩人
赤とんぼが青い空に映える頃になると、決まって祖母のことを思い出す。
保険の代理店をしていた祖母は結構顔も広く、原石鼎に師事する俳人でもあった。
美容院を経営している友達の所にも、何度か連れて行って貰ったことがあったが、東京でシナリオを書いていた息子が帰っていて、小学校六年生だった私に見せてくれたのが、土でできたオカリナだった。口に銜えて息を吹き込むと、鳩の鳴くような音がした。こんな楽器があったのかと驚きさえした。余り興味を示すので、そのオカリナは私の手に渡ることになった。いずれ、妹に踏まれて粉々になってしまう運命のオカリナだったが・・。
私が小学校四年生の時、祖母は当時スペリオパイプと呼ばれていた、ブルーの縦笛をお土産に買って来てくれたことがあった。音を探りながら独習したことを思い出すが、これも初めて見る楽器だった。昭和三十年頃のこと。自分では思いもつかぬことを、祖母がこのような形で示してくれたことは、私にとって祖母を恩人の一人に加えなくてはならないだろう。
今までずっと笛など手にしていなかったが、オカリナの演奏があちこちで聴かれるようになったことと、改めて素朴な音色の素晴らしさに感動したことで、数十年経た今、再びオカリナを手にすることになった。私自身の生涯学習としても、オカリナを私から切り離すことはできない。
テレビである人が演奏していたと聞いて、名前と住所をテレビ局に問い合わせて貰って、その人に会いに行ったのが神戸の地震の年の前である。地震以後三年ほど会っていなかったが、最近頓に会うことが多くなった。もうオカリナを四万個も焼いた、感動的な奏法の演奏家でもある。独特な音色のする楽器を完成させているが、吹く人によって様々に良さを引き出すことができる。今年の夏は、数十名の子供と共に、作り方を教わった。難しいこと極まりないが、一端の陶芸家になったような気がした。私の生涯路線を大きく変えてしまう体験だったかも知れない。
昨年は横浜にいるもう一人の妹からの話で、そこにあるコーヒー豆を売る店で、初めて演奏をした。その後は、クリスマスの頃、老人ホームと幼稚園で演奏させてもらった。お年寄りの方達が、「故郷」や「里の秋」など昔の懐かしい曲を聴いて涙を流されている姿は忘れることができない。
私にもこういう世界があったのだ。自分も生き甲斐を感じることができるし、人にも感動をあたえることのできる小さなオカリナという楽器を楽しむ世界が・・。
今、オカリナを通じて私の社交範囲が広がってきているが、これも祖母という一人の恩人がいたからだ。私は三年半も前に先立ってしまった祖母に改めて感謝すると共に、祖母に対して何もできなかったことを悔いている。
オカリナといえば祖母を思い出すし、オカリナを通して広がった人々との出会いもまた、祖母のお陰と思っている。オカリナは、私を育ててくれた祖母へのせめてものレクイエムである。
次は、財団法人神戸市演奏協会だより「音楽のまちKobe」と言う8ページ程のもので、これは8年前に載せて頂いたものだ。
恩人たちの風景
~祖母が私に残したもの・オカリナ~
オカリナと出会えたのは、間接的には祖母のお陰と言えるのです。祖母とは俳句仲間の美容師のシナリオライターである息子さんが、胸を患って東京から田舎に帰って来ていました。その時、私に見せてくれたのが、めずらしい土で作った笛だったのです。温かい、優しい音は、小学校6年生だった私に今でも忘れられない衝撃を与えました。彼が、そのオカリナをくれなかったら、どうなっていたか分かりません。
4才で吹いていたハーモニカも好きで、小学校では合奏団に入ってホルンハーモニカ。4年生の時、祖母がみやげに買って来てくれたスペリオパイプ(今のリコーダー)にも魅せられて、中学校ではブラスバンドでクラリネット。しかし、これだけ好きだった音楽を離れて、陸上競技の世界へ入ってしまいました。
それから何十年も経った頃、私にでも演奏出来るのは、オカリナしかないと思えたのです。どこにでも運べて、どこでも鳴らすことができるオカリナ。それは聴く人の心に染み入る安らぎを与えます。人は自分を何かの手段を用いて表現したいと思っています。私の心の中は、オカリナによって表出します。オカリナは、自分自身であるとも言えるのです。私は、これからも在るがままの自分をオカリナによって曝け出すだろうし、私の自由な気持ちを青空のように、雨のように、風のように表せる、落とせば壊れてしまうけれど犯すことの出来ない、唯一いとおしい空間だと感じているのです。
こんな2つの文章が出て来たが、今更載せるのは恥ずかしい気もする。けれど、おばあちゃんへの気持ちの方が大きいので、10年も昔になろうとする拙文を、おばあちゃんの為に恥ずかしさは捨てて捧げたい。