丘灯至夫さんが亡くなった。歌はそのままだが、丘さんは、92才になっていた。


高校三年生
                        歌:舟木一夫 作詞:丘灯至夫 作曲:遠藤 実

赤い夕日が 校舎をそめて
ニレの木陰に 弾む声
ああ 高校三年生 ぼくら
離れ離れに なろうとも
クラス仲間は いつまでも

泣いた日もある 怨んだことも
思い出すだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら
フォークダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が

残り少ない 日数を胸に
夢がはばたく 遠い空
ああ 高校三年生 ぼくら
道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を


11月25日の神戸新聞は珍しく、朝刊の「編集手帳」でも、夕刊の「よみうり寸評」でも丘灯至夫さんの事を扱った。この2つの記事で、丘さんの事を偲んでみよう。




新聞記者はときに、押しが強くないとやっていけない。取材で気後れしないよう、無理してデカイ顔をする時もある。押しと顔(オシトカオ)を逆さまにして丘灯至夫(オカトシオ)、筆名の由来という。

作詞家の丘さん、本名・西山安吉さんが毎日新聞に入ったのは戦時下、世相が暗く険しいころである。その人が戦後に書いた詞は「高校三年生」「高原列車は行く」「東京のバスガール」・・どの歌も弾むように明るい。

純粋な「押しと顔」を、丘に立つ洋館の窓に灯がともるような美しい筆名に変えた人は、暗い記憶から光まばゆい風景を紡ぐ手品師でもあったろう。丘さんが92歳で死去した。

「高校三年生」は二番の歌詞<ぼくら/フォークダンスの手をとれば/甘く匂うよ黒髪が>のくだりが最初に浮かんだという。ある高校の学園祭で目にしたフォークダンスに、男女が手をつなぐことなど夢にもあり得なかった自分の青春を顧みてショックを受け、歌になったとか。

戦後の昭和にキラキラと、光の粉をまいた人である。訃報が流れたきのう、懐かしいメロディーに乗せ、何人があの詞を口ずさんだだろう。

                                            2009.11.25 神戸新聞 「編集手帳」



♪赤い夕日が校舎をそめて・・ああ 高校三年生 ぼくら・・。きのう亡くなった丘灯至夫さんの作詞の<高校三年生>は1963年に日本レコード大賞作詩賞に輝いた。

歌った舟木一夫は同新人賞を得たが、作曲の遠藤実は作曲賞を逃して悔しがった。当時まだ広告代理店の社員だった阿久悠が後に面白い感想を書いている。

「この歌を初めて聞いた時、なぜか、これは北国の高校の歌に違いないと思った。僕は西の方の高校の出身。そのせいかどこか風景が違って思える」。

詩人の鋭い直感なのか。作詩の丘は福島県出身、作曲の遠藤は疎開先が新潟だ。その出自が歌詞にも曲にも、におうのだろうか。

ただし、丘さんにこの歌詞を書かせた現場は東京・世田谷の松蔭学園高校。校庭の男女高校生のフォークダンスを見て歌が生まれた。この歌の大ヒットから46年。

丘灯至夫92歳で逝く。舟木一夫が学生服でデビューした昭和は遠くなった。が、<高校三年生>は不思議な歌。口ずさめば、だれでも赤い夕陽のその日に戻れる。

                                          2009.11.25 神戸新聞 「よみうり寸評」




私達の世代の愛唱歌のような歌だった。愛唱歌として歌っていた歌ではないが、カラオケなるものが巷に出現してからは、一気に歌うようになった。そして、その時から愛唱歌となった。懐かしい、帰らぬ青春のこの歌は、心の中ではいつまでも青春である。そして、これからも青春であり続けるであろう。

離れ離れに なろうとも
クラス仲間は いつまでも

フォークダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が

道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を

懐かしさが込み上げて来る歌である。この歌は、同窓の絆の強さと懐かしさの共有を照明するかのようだ。我々は離れ離れになったし道は違ったけれど、この年になって親しく出会っている。この歌は確かに、時空を越えた愛唱歌だったのだ。

フォークダンスを名目に繋いだ手。そのふくよかさは、未だに記憶の隅に残されている。それはこの歌詞の通り、黒髪が甘く匂った青春だった。「高校三年生」は、胸のときめく、淡い青春の真っ盛りだったのだ。