25分で三宮から帰れる筈のバスも、渋滞で50分かかった。電車とバスを利用しても、その位はかかる。乗り換えがないだけでも楽珍だし、苦痛もない。何故か私の体からオーラが出ているように思えた。

名谷インターを抜けると、垂水方面と須磨方面に繋がる旧神明道路が交わる。信号待ちをしている間、黄色い鳩が飛んで来るように見えた。何だろうと思った。それは西から東に走って来る車のライトが、バスの左側の大きな窓に映っては消えているのだった。

バスが動き出し、また停車して降りると、雨はまだ止んでいなかった。三つ折りの超軽い傘が、静かな雨に揺れる。


宝塚南に降り着くまで、西宮北口の店でサンドイッチとコーヒーを注文して時間を潰した。2時8分発、宝塚行きの普通に乗ったが、10分少々で宝塚西口に着いた。タクシー乗り場で待ち合わせをしていた。K君とK妻は、車で迎えに来てくれた。てっきりタクシーに乗るものと思っていた。

早めに I さん宅に着いて、ちょっと車の中で、約束の3時頃まで打ち合わせをしようと言う事になった。打ち合わせと言ったって、何を相談すればいいのだろう。つまり、時間潰しだったのだ。

車の音を察知したのか、I さんはすぐに現れた。打ち合わせ所ではなかった。犬を抱いて出て来ていた。曇り空であったが、雨はまだ降っていなかった。

整然とした、広い部屋に上がった。10日前から咳が酷いと言うこの I さんは、マスクをしていた。

「うつる風邪じゃあないですから」

と言った。

正に雲の上のこの人は、羨ましいほどの痩せ型だった。

K君が、我々の関係を説明した。それを聞いてから、I さんはコーヒーを沸かし、ケーキを用意した。自分で焼いたもので、普通のと抹茶を混ぜたものとがあった。店のものと全く遜色のないものだった。ケーキは、作ってすぐより5日位前に作ったものが美味しいそうで、咳をおしてまで作ってくれていた。食べ易いようにやや薄く、意識してカットされていた。細やかな気遣いをする人だと言う事が分かった。

この犬は奈奈ちゃんと言い、部屋に上がると二階で吠えていた。 I さんが「連れて下りていいか、犬は大丈夫か」と聞いた。皆、「大丈夫」と答えた。下ろすと吠えなくなった。ミニチュアダックスで、黒くて毛はそんなに長くなかった。K君K妻には脚に飛びついた。私には飛びついて来なかったが、暫くすると、同じように飛びついて来た。頭を撫でると喜んだ。しゃがむとじゃれ回り、それからは、テーブルに着いても、私の所によく来た。

「ヴァイオリンとオカリナは合いますか」

と I さんは私に聞いた。

「3度下げて弾いて貰ったり、1コーラスずつ演奏するとか、私のメロディーに被せて好きなように弾いて貰ったらいいと思うんですが」

と、まだ私と共演してくれると言った訳でもない雲の上の I さんに言った。話が聞けたらそれでいいと思っていたから、これで終わりでもおかしくはなかった。

大阪フィルハーモニー交響楽団の第1ヴァイオリン奏者である。それは、天高く浮かぶ雲だった。

K妻が言った。

「オカリナ吹いてみたら」

インターネットで昨日仕入れた間奏を採り入れ、「アリラン」を吹いた。

「アリラン」を吹き終わると透かさず、

「独特なビブラートですよね。ヴァイオリンと3度で合わすなんて無理でしょう」

と I さんは言った。

「これは、『アリラン』だからこんな風に吹いてみました。ビブラートを緩やかにしたり、ビブラートなしでも出来ます。曲にもよるので、『里の秋』なんかでは、こんなビブラートはかけません」

と答えた。

「私はクラシックしかやらないから、演歌なんかは駄目です。オカリナも調が変わったり音が変わっても、1つのオカリナでその音を出すようにしないとねえ」

と返って来た。

「その為に、音域を外れると持ち換えたり、3オクターブ出せるオカリナで演奏したりするのですが」

と言って、持って来ていた3連の「イカロス」を見せた。所で、今日持参したのは、その他にソプラノCとソプラノB♭2本だった。これは吉塚オカリナと千村オカリナだった。「アリラン」は、1Cより穏やかな、吉塚オカリナのB♭で吹いた。

すると、何処からかヴァイオリンを持って来て、

「最初はどの音ですか」

と聞いて来たので、ソプラノB♭のオカリナで、実音♭シの音を出した。すぐその音に合わせて、

「最初私が弾きます」

と言い、クラシックでもないアリランを1コーラス弾き出した。終わる前に、

「後、お任せします」

と言って私にバトンを渡した。2コーラス目を吹いた。勿論、聴く時から私は立っていた。

「アリラン」が終わってから、覗いたヴァイオリンが凄かった。

「ストラディヴァリだと思っているでしょう」

「いいえ、もう一つありますよね」

「そう、そのガルネリです。がっかりしないで下さい」

と言った。がっかりなどする筈がない。素晴らしいヴァイオリンを間近に見て、目を見張っているのだから。後で席に戻ると、K妻が小さな声で私に言った。

「弦1本で、1千万円ですって」

余りの異次元の世界に、驚くにも驚けなかった。家に帰ってからお礼のメールをしたが、ガルネリデルジェスではなくピエトロガルネリだと返事があった。恐らく1億円前後はするだろうガルネリ。目がどうにかなるのではないかと思ったほど、渋い色合いだった。オーケストラの第1ヴァイオリン奏者の宝物を、30センチもない所から見たのだ。感激以外の何物でもなかった。

「里の秋やってみましょうか」

向こうからそう言って来た。私はオカリナの音を出し始めた。すると、ロングトーンを重ねて来たのだった。最初、私の方がやや早かったり遅かったりした。顔を見て吹いてからは、合って来たように思った。素晴らしいヴァイオリンの音色だった。遂に、雲の上の人とデュエットしてしまった。

「ギターもやってたし、韓国語もべらべらだし」

とK君が言った。

「またまた。大体この人が言う事は、10分の1位にして聞いて下さい」

と言った。話を逸らせて、

「私は、演奏する前にドキドキするほど緊張するんですよ」

と言うと、

「緊張は誰でもしますよ。私なんか、4重奏をやった時なんか、心臓が口から飛び出すかと思うほど緊張しました。飛び出た心臓を見てみたい気がしました」

その言葉にほっとした。

「ドキドキくらい、どうと言うことありません」

そして、今コーヒーは喉が受け付けないと言って、りんごジュースを口にした。

「コンクール、頑張って下さいね。その日は私の誕生日です」

そう言った。何だか不思議な気がした。

「暫く練習して、やっと調子が出て来るものだけれど、それでは遅いでしょう? 最初からいい状態で演奏する方法があるんです。それは、最初から、思い切り楽しんで演奏する事です」

と言った。「勉強がよく出来る方法があります。それは一生懸命勉強することです」と言った人の考えによく似ていると思ったが、それも含めて、聞くこと聞くことが皆新鮮だった。その他、色々な話を聞いた。指揮者に対する思いだとか、同じ団員に対する思いだとか。

「何か1曲弾きましょうか。何がいいですか」

との突然の一言に不意を衝かれ、それは我々を喜ばせた。

「白鳥が聴いてみたいです」

と日頃練習している曲を言ってみた。今思えば、「ユーモレスク」でもよかった。

細やかな心の動き。弦と弓が擦れ合う音は、心まで擦られているように響く。今目の前で、大阪フィルのヴァイオリン奏者が弾いている。弓がぺたっと弦を擦っているだけではなく、細いロングトーンは弓を傾けて、一部だけで擦っているのだ。正確無比な音が安定感を与え、白鳥との世界に誘って行く。これぞ、感動と言うものだ。3才からヴァイオリンに生きている人の音と人生だった。

私など、関取と小学生相撲の子供のように相手にして貰えないのは分かっているが、私は惜しみない拍手を送った。感動で震えていた。皆そうだったと思う。K君など、目が潤んでいたのである。

K妻が、10年前からFM放送で金融関係を喋っていた事があって、その時K妻と隔日で、 I さんは音楽の事を喋っていたそうである。それは10年間続いている。それでそこで知り合いになり、K君を通して私に紹介してくれたと言う筋書きなのである。

K君もK妻もずっと昔、出雲に住んでいる時から知っていて、このような縁に支えられた出会いだったと言える。K君は竹馬の友であり、K妻は親しい友達であり、2人は出会わせてくれた恩人? であると言える。そうでなければ、わざわざこんな事、普通はしてくれない。

突然、

「これからも続けられますか」

と聞いて来た。

「続けられます。勿論です」

と咄嗟に返事を返した。すると、立ち上がって握手を求めて来た。私もすぐさま立ち上がり、握手を交わした。細い温かな、優しい手だった。

その後、私は最初に渡していたが、住所入りの名刺を貰った。

「電話番号もいります?」

「はい。この名刺の裏に書いて下さい」

雲の上の人の記念の直筆になると思った。けれどそこには書かないで、

「携帯はどこのものですか」

と質問した。私はドコモだが、 I さんのはボーダフォンだった。

「私のを、赤外線で送ります」

と言って、私は携帯で暫く格闘しながら遂に赤外線受信を見つけ出し、私の携帯に携帯番号やメールアドレスを貰う事が出来た。雲の上に私が乗ることが出来たと言うより、私の立っている地面に降りて来てくれた気がする。はっきりものを言う人なので、嫌だったら、幾ら知り合いの紹介だからと言って、ここまで受け入れてはくれなかっただろう。2人には本当に感謝している。繋がりとはこんな事を言うのだろうか。

また一人、掛け替えのない出会いをした。60億人の中の一人との出会いが真実のものとなった。恐ろしくはないか。単なるオカリナ吹きとプロ中のプロであるヴァイオリニストとの出会いのアンバランス。

私はいつも思う。出会う人は皆見えない所で何かが繋がっていると。遠い古に出会っていた人達との、懐かしい再会ではないのかと思ったりするほどだ。感じる事、それが大切ではないかと思う。太古の日本に、それも兵庫県六甲山系に、優れたカタカムナ文明があった。太古に文字文化を作り出していたその人類も、感じる事で生きていたと言う。


この奈奈ちゃん、いつも I さんの座って練習するソファに腹ばいになり、クラシックを聴いているそうだ。そして音を間違えると、上目遣いに I さんを見ると言う。2度まではそうだが、3度目も間違うと、顔を起こすそうである。

「分かってるのだかどうだか」

I さんは、「吠えてうるさい時は『荷物を持って出て行きなさい』と言うんですよ」と言いながらも、満更でもなさそうに話して聞かせてくれた。

2時間以上話したりしていた。お礼を言って玄関まで行くと、靴をそっと揃え直してくれた。靴べらも差し出してくれた。細かな心遣いをする、地上に降りた天使だった。外は、雨。

「私で役に立ちますか?」

「役に立つかなんて、とんでもありません!」



バスの中で、さっと小さなものが目の先を走った。遂に白内障が来たかと思った。よく見ると、確かに蝿なんかではない小さな虫が飛んでいた。遠くへ行ったり、近くに寄って来たりした。

依然として、私の体からはオーラが放たれているように思った。電車でも、ちらちら見られているような気がした。輝いていたのだろうか。何色なのだろう。一人不思議な気持ちで、それを想像していた。