2009年10月6日(火)
同じホテルなので今朝は趣向を変えてバイキング。和食しか目に付かず、少しずつ皿に盛りながら歩いた。目玉焼きや玉子焼きは小さい時から欠かせない。親が作ってくれた食習慣だ。
梅干や漬物、大根おろしは何も考えないでも取ってしまう。好物の茄子はどこにも見当たらなかった。ご飯が一膳では足らなく、次はお粥にした。韓国に行った時は、大抵朝は鮑粥にするが、習慣にない私でもそれは旨かった。
遠慮して集めたおかず類もやがてなくなり、お腹と相談してみた。お腹は、もう止めとけと言った。そう言われるとちょっと反抗してみたくなる。えい! 和食の次は洋食だ。新たにパンとバターとイチゴジャムが追加された。お腹は怒っていた。牛乳も仲間に加わり、後はコーヒーが待機していた。
孫とガチャガチャやって、透明なボールに入ったトーマスくんやレールなどをゲットしていたが、暫くそれで遊んでから出発することにした。嘘のように、雨は降らなかった。
私だけが見たことのない鶴ヶ城だけの見学となった。義妹が3時半頃には搭乗口まで行かなければならなかったのだ。福島空港へそれまでに着く必要がある。レンタカーも返さなければならない。
足を踏み入れた瞬間、天守閣の手摺が赤い色をしているのに気付いた。今まで見た事のないインパクトがあった。内部に入るとすぐ唯一400年前の石積みが見られた。そして、いくつもの塩を入れていた大きな弧もが積み重ねられてあった。塩蔵の再現である。時間の関係もあって、五層までは上らなかった。
茶室「麟閣」で抹茶(お菓子付500円)を味わう時間がなかったが、豊臣秀吉の逆鱗に触れ死を命じられた千利休を偲ぶ事は出来た。会津の領主蒲生氏郷が利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、その子少庵を匿っていた。秀吉に千家再興を願い出て許され、少庵は京都に帰り、茶の道は子の宗旦に引き継がれた。更にその孫によって三千家が今に伝わっているのだ。それが武者小路千家、表千家、裏千家である。
上杉景勝や直江兼続の事もあるので、パンフレットにある歴史を書き写して参考にしたいと思う。
1384(至徳元年) 葦名直盛が東黒川館をつくる。
1543(天文12年) 葦名盛氏により会津地方の戦乱に終止符が打たれる。
1589(天正17年) 伊達政宗が会津に入る。
1590(天正18年) 蒲生氏郷会津領主として黒川城に入城。
1593(文禄2年) 七層の天守閣完成。黒川を若松に改め、町割りを作る。また城
の名前も鶴ヶ城と命名。
1598(慶長3年) 上杉景勝が会津入りし、出羽3郡、佐渡3郡を加えて120万
石が与えられる。
1601(慶長6年) 上杉景勝が米沢に転じ、蒲生氏郷の子・秀行が会津に入る。
1627(寛永4年) 伊予松山から加藤嘉明が会津に入る。
1639(寛永16年) 天守閣は五層に改められ、西出丸、北出丸が整備される。
1643(寛永20年) 嘉明の子・明成が会津40万石を幕府に召し上げられる。三代
将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で入部。
1696(元禄9年) 幕府の命により松平姓と葵の紋を用いる。
1862(文久2年) 容保京都守護職を命じられる。
1868(慶応4年) 鳥羽・伏見の合戦。容保会津へ帰る。奥羽越列藩同盟成る。戊
辰戦争にて1ケ月の籠城の末、鶴ヶ城開城。
1874(明治7年) 鶴ヶ城が取り壊される。
1965(昭和40年) 鶴ヶ城天守閣再建工事落成。
1984(昭和59年) 鶴ヶ城築城600年記念式典挙行。
1990(平成2年) 茶室麟閣を鶴ヶ城本丸内に移築。
2000(平成12年) 干飯櫓・南走長屋を復元。
2004(平成16年) 天守閣内部を改装(リニューアル)。
これを見ると、色々参考になるし、面白い。
余談だが、兼続は神指ケ原に城郭の築城を命じられており、12万人を動員して工事を始めた。実現は叶わなかったが、もし現実のものになっていたとしたら、鶴ヶ城の2倍の広さのものになっていた筈である。大阪城や広島城にも劣らない規模のものになっていたそうである。幻の神指城(こうざしじょう)の夢は、儚く潰えた。
また序でだが、土井晩翠の「荒城の月」は、会津若松市の鶴ヶ城と仙台市の青葉城がモデルになっていると言う。
早々に鶴ヶ城を離れ、福島空港へと向かった。
途中で買い物。まるで卵の入れ物に入っている「会津のたまごぱん」。卵1個入る所にこのクッキーは2個ずつ入っている。つまり20個が見えている。「口どけが良く、昔なつかしい素朴な味」とあるように、懐かしい気がして来るから不思議だ。国内産の小麦粉、たまご、バターを使用していると書いてある。「こだわった原料でていねいに作りました! 真心たっぷり使用」とあれば、買わぬ訳には行かない。
初物には手を出さない孫だが、こればかりは旨そうにボリボリ言わせて食べてくれた。サブレの小型日本版とでも言えばいいのだろうか。忘れられない味の一つである。
たまごぱん
製造元 会津武者本舗 株式会社 オノギ食品
福島県会津若松市町北町大字藤室字藤室178-4
TEL(0242)22-1387
空港の2階で遅い昼食となった。私には3時でもちっとも遅くはなかった。1食位抜けるかと期待していたが、甘かった。「味噌カツ定食」にした。ご飯の上にキャベツの千切りが敷かれ、その上に味噌カツが乗っている。カツにはソースだと思っていたが、意外と癖になりそうな味だ。誰かが言っていた程のキャベツの量ではなかったが、旨かった。豚カツを注文すると、ご飯とカツとキャベツが分かれているが、流石鶴ヶ城のある福島である。どんぶりに一まとめに三層になっていた。
義妹と別れ、空港を後にしようとした頃、義妹の乗った飛行機が滑走路を離れた所だった。
一路目指すは、「八ケ岳ロイヤルホテル」。折角来たのだから、もう1泊と言う話になっていた。東京から行くと、選んだ道より100km程遠くなる。けれど夜9時には着く事になっていた。距離は短い方がいいと、近道を選んだ。それが11時半に着くとは、誰も予想してはいなかった。
腹を括って、夜食べるものや飲むものを買うことにした。コンビニではおにぎりや焼酎等。宇都宮に近いので、餃子を食べるべきだと思った。満腹なので、それは持ち帰る事にした。佐野と言う名前の店だった。
20個でいいか悩んだ。ひょっとしてすぐなくなる可能性がある。ましてや餃子では有名な、私に取っては憧れの餃子の町だ。けれど、思い止まって、20個にした。愛想のいい兄ちゃんは「5個ずつ入れましょうか」と言った。「いや、10個ずつでいいよ」と言った。雨が少し激しくなろうとしていた。
焦りながら落ち着いて、只管暗い道を進んだ。八王子ジャンクションから中央道に入った時は、皆安堵の顔になった。不安が募っていたので、こう言う時に「喜びも一入だ」と言うのであろうか。
ホテルのフロントの人は、こんなに遅かったにも拘わらず、温かく迎え入れてくれた。
大浴場から上がると、早速黒糖焼酎に氷を入れて水割りにした。カーッと胃が燃えた。寛ぎタイムである。さて、餃子の包みを開けてみて悲鳴を上げそうになった。何じゃ、こりゃ? ずっしり重いパッケージから覗いた餃子は、誰が見たって餃子とは言えなかった。見た事もない代物だった。小型の豚マン程もある餃子がこちらに10個、そちらに10個入っている。あの兄ちゃんが「5個ずつ入れましょうか」と言っていた意味がやっと分かった。10個も入っていたらゾッとするからだ。5個ずつ食べる事にしたが、強い決心が要った。娘達は決して、それを口にしなかった。
旨いかって? それが一番重要な部分だ。所が意外と旨い。けれど、これは宇都宮餃子なんだろうか。それは絶対違うと思った。
1個でも十分な餃子を5個食べ終わると、胃は破裂しそうになった。けれど、流石に眠くなった。アルコールの力も借りながら、すぐさま無防備な眠りの世界へと入って行った。
いいなあ、焼酎!
けど、明日は、豚より立派になっている事だろう。
同じホテルなので今朝は趣向を変えてバイキング。和食しか目に付かず、少しずつ皿に盛りながら歩いた。目玉焼きや玉子焼きは小さい時から欠かせない。親が作ってくれた食習慣だ。
梅干や漬物、大根おろしは何も考えないでも取ってしまう。好物の茄子はどこにも見当たらなかった。ご飯が一膳では足らなく、次はお粥にした。韓国に行った時は、大抵朝は鮑粥にするが、習慣にない私でもそれは旨かった。
遠慮して集めたおかず類もやがてなくなり、お腹と相談してみた。お腹は、もう止めとけと言った。そう言われるとちょっと反抗してみたくなる。えい! 和食の次は洋食だ。新たにパンとバターとイチゴジャムが追加された。お腹は怒っていた。牛乳も仲間に加わり、後はコーヒーが待機していた。
孫とガチャガチャやって、透明なボールに入ったトーマスくんやレールなどをゲットしていたが、暫くそれで遊んでから出発することにした。嘘のように、雨は降らなかった。
私だけが見たことのない鶴ヶ城だけの見学となった。義妹が3時半頃には搭乗口まで行かなければならなかったのだ。福島空港へそれまでに着く必要がある。レンタカーも返さなければならない。
足を踏み入れた瞬間、天守閣の手摺が赤い色をしているのに気付いた。今まで見た事のないインパクトがあった。内部に入るとすぐ唯一400年前の石積みが見られた。そして、いくつもの塩を入れていた大きな弧もが積み重ねられてあった。塩蔵の再現である。時間の関係もあって、五層までは上らなかった。
茶室「麟閣」で抹茶(お菓子付500円)を味わう時間がなかったが、豊臣秀吉の逆鱗に触れ死を命じられた千利休を偲ぶ事は出来た。会津の領主蒲生氏郷が利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、その子少庵を匿っていた。秀吉に千家再興を願い出て許され、少庵は京都に帰り、茶の道は子の宗旦に引き継がれた。更にその孫によって三千家が今に伝わっているのだ。それが武者小路千家、表千家、裏千家である。
上杉景勝や直江兼続の事もあるので、パンフレットにある歴史を書き写して参考にしたいと思う。
1384(至徳元年) 葦名直盛が東黒川館をつくる。
1543(天文12年) 葦名盛氏により会津地方の戦乱に終止符が打たれる。
1589(天正17年) 伊達政宗が会津に入る。
1590(天正18年) 蒲生氏郷会津領主として黒川城に入城。
1593(文禄2年) 七層の天守閣完成。黒川を若松に改め、町割りを作る。また城
の名前も鶴ヶ城と命名。
1598(慶長3年) 上杉景勝が会津入りし、出羽3郡、佐渡3郡を加えて120万
石が与えられる。
1601(慶長6年) 上杉景勝が米沢に転じ、蒲生氏郷の子・秀行が会津に入る。
1627(寛永4年) 伊予松山から加藤嘉明が会津に入る。
1639(寛永16年) 天守閣は五層に改められ、西出丸、北出丸が整備される。
1643(寛永20年) 嘉明の子・明成が会津40万石を幕府に召し上げられる。三代
将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で入部。
1696(元禄9年) 幕府の命により松平姓と葵の紋を用いる。
1862(文久2年) 容保京都守護職を命じられる。
1868(慶応4年) 鳥羽・伏見の合戦。容保会津へ帰る。奥羽越列藩同盟成る。戊
辰戦争にて1ケ月の籠城の末、鶴ヶ城開城。
1874(明治7年) 鶴ヶ城が取り壊される。
1965(昭和40年) 鶴ヶ城天守閣再建工事落成。
1984(昭和59年) 鶴ヶ城築城600年記念式典挙行。
1990(平成2年) 茶室麟閣を鶴ヶ城本丸内に移築。
2000(平成12年) 干飯櫓・南走長屋を復元。
2004(平成16年) 天守閣内部を改装(リニューアル)。
これを見ると、色々参考になるし、面白い。
余談だが、兼続は神指ケ原に城郭の築城を命じられており、12万人を動員して工事を始めた。実現は叶わなかったが、もし現実のものになっていたとしたら、鶴ヶ城の2倍の広さのものになっていた筈である。大阪城や広島城にも劣らない規模のものになっていたそうである。幻の神指城(こうざしじょう)の夢は、儚く潰えた。
また序でだが、土井晩翠の「荒城の月」は、会津若松市の鶴ヶ城と仙台市の青葉城がモデルになっていると言う。
早々に鶴ヶ城を離れ、福島空港へと向かった。
途中で買い物。まるで卵の入れ物に入っている「会津のたまごぱん」。卵1個入る所にこのクッキーは2個ずつ入っている。つまり20個が見えている。「口どけが良く、昔なつかしい素朴な味」とあるように、懐かしい気がして来るから不思議だ。国内産の小麦粉、たまご、バターを使用していると書いてある。「こだわった原料でていねいに作りました! 真心たっぷり使用」とあれば、買わぬ訳には行かない。
初物には手を出さない孫だが、こればかりは旨そうにボリボリ言わせて食べてくれた。サブレの小型日本版とでも言えばいいのだろうか。忘れられない味の一つである。
たまごぱん
製造元 会津武者本舗 株式会社 オノギ食品
福島県会津若松市町北町大字藤室字藤室178-4
TEL(0242)22-1387
空港の2階で遅い昼食となった。私には3時でもちっとも遅くはなかった。1食位抜けるかと期待していたが、甘かった。「味噌カツ定食」にした。ご飯の上にキャベツの千切りが敷かれ、その上に味噌カツが乗っている。カツにはソースだと思っていたが、意外と癖になりそうな味だ。誰かが言っていた程のキャベツの量ではなかったが、旨かった。豚カツを注文すると、ご飯とカツとキャベツが分かれているが、流石鶴ヶ城のある福島である。どんぶりに一まとめに三層になっていた。
義妹と別れ、空港を後にしようとした頃、義妹の乗った飛行機が滑走路を離れた所だった。
一路目指すは、「八ケ岳ロイヤルホテル」。折角来たのだから、もう1泊と言う話になっていた。東京から行くと、選んだ道より100km程遠くなる。けれど夜9時には着く事になっていた。距離は短い方がいいと、近道を選んだ。それが11時半に着くとは、誰も予想してはいなかった。
腹を括って、夜食べるものや飲むものを買うことにした。コンビニではおにぎりや焼酎等。宇都宮に近いので、餃子を食べるべきだと思った。満腹なので、それは持ち帰る事にした。佐野と言う名前の店だった。
20個でいいか悩んだ。ひょっとしてすぐなくなる可能性がある。ましてや餃子では有名な、私に取っては憧れの餃子の町だ。けれど、思い止まって、20個にした。愛想のいい兄ちゃんは「5個ずつ入れましょうか」と言った。「いや、10個ずつでいいよ」と言った。雨が少し激しくなろうとしていた。
焦りながら落ち着いて、只管暗い道を進んだ。八王子ジャンクションから中央道に入った時は、皆安堵の顔になった。不安が募っていたので、こう言う時に「喜びも一入だ」と言うのであろうか。
ホテルのフロントの人は、こんなに遅かったにも拘わらず、温かく迎え入れてくれた。
大浴場から上がると、早速黒糖焼酎に氷を入れて水割りにした。カーッと胃が燃えた。寛ぎタイムである。さて、餃子の包みを開けてみて悲鳴を上げそうになった。何じゃ、こりゃ? ずっしり重いパッケージから覗いた餃子は、誰が見たって餃子とは言えなかった。見た事もない代物だった。小型の豚マン程もある餃子がこちらに10個、そちらに10個入っている。あの兄ちゃんが「5個ずつ入れましょうか」と言っていた意味がやっと分かった。10個も入っていたらゾッとするからだ。5個ずつ食べる事にしたが、強い決心が要った。娘達は決して、それを口にしなかった。
旨いかって? それが一番重要な部分だ。所が意外と旨い。けれど、これは宇都宮餃子なんだろうか。それは絶対違うと思った。
1個でも十分な餃子を5個食べ終わると、胃は破裂しそうになった。けれど、流石に眠くなった。アルコールの力も借りながら、すぐさま無防備な眠りの世界へと入って行った。
いいなあ、焼酎!
けど、明日は、豚より立派になっている事だろう。