8月も今日で終わり、列島の戦いも終わった。
8時30分から診察開始。医院に着いたのが8時35分だった。歩いて5分ほどだ。
入るとすぐ受付で、お馴染みのピンクのナース服を着た女性が声を発した。
「おはようございます」
「健診をお願いしたいんですが」
「あ、はい。保険証はお持ちですか」
「ええ、これです。今日が最後の日になっていますので・・」
4・5人、椅子に座っていただろうか。その足のスリッパに気付いた。
「そちらに掛けてお待ち下さい」
スリッパが何処にもない。反対方向を見ると、棚に沢山のスリッパが見えた。ガラッと開け、スリッパを取り出した。そこには「スリッパ殺菌線消毒ロッカー」と記されていて、成る程と感心してしまった。簡易なラックが10列。1列には4足並ぶので40足収容可能だ。次から、堂々と、ここを開けて取り出そうと思った。
その女性は細く、頭はポニーテールで、白地に黒の水玉模様のリボンで括っていた。書類に目を遣りながら、何かを書き写していた。ボールペンを持つ左手が、素早く動いているのに感動すら覚えた。長椅子に腰を掛けながら、一緒に左手で文字を書く真似をしたが、それは無理と言うものだ。長年書き慣れた左手は、自動書記のように動いていた。
ピアノの左手も右手も、そう言った日々の訓練から導き出された動きなのだ。60の手習いと言う言葉もあるが、それはそれとしての違う楽しみでもあるのだろう。しかし、左手のボールペンのようには行かないのだ。
「○○さん、中に入ってお待ち下さい」
はっと気が付いて、病院と言う訳には行かないけれど、狭い中廊下の椅子に座った。
「○○さん、こちらへどうぞ」
「今から身長を測りますので、奥へ行ってください。スリッパ脱いで頂いて・・」
思いっきりいい姿勢をした。日頃思っている高さより1cmほど伸びていた。頭をぐっと押されたので、これは駄目かと思ったが、フムフム、中々いい高さだ。
「暫く、外でお待ち下さい」
「○○さん、どうぞ」
大柄な、しかし均整のとれたグラビアのアイドル(ちょっと前まではそうだったかも知れない)のような女性が声を掛けた。矢張りポニーテールで、銀色にラメが入っているかと思わせるようなリボンで、その髪を括っていた。
院長先生がいた。
「体重を量ります」
と言った。
院長先生と斜に座りながら、違った看護士が左腕から血圧を測っている。やや高めだ。
「緊張や思うことがあったりすると高めになります」
そう、院長先生は言ったが、私は別に気にもしていなかった。お袋が高かったし、私は、計測すると大体こんな結果になる。
余談だが、健康なのか病院には初めて行ったと言う、私の田舎の主婦の話だ。ベッドに横になっている時、医者に「血圧を測ります」と言われ、「はい」と言ってお尻を持ち上げて待っていたたそうである。その話を思い出すと、いつもおかしくて堪らなくなる。お袋がそんな話をしながら、自分でもおかしくなって吹き出していたのが、ついこの間のように思われる。
「ちょっとシャツを上げて」
と言って聴診器を胸の周りに当てた。その度に、合わせるようにして息を吸ったり吐いたりした。未だにどうして良いものやら分からない。
「立って下さい。お腹の周りを測ります。ちょっとずらして下さい」
まあずらすけど、この3人の看護士さん達が、みんな普通の顔して、一部始終を見てるんだろうな、と思った。誰か「まな板の鯉になりましょう」と言っていたが、意味がリアルに分かったような気がした。
「ベッドに横になって下さい」
と言ったので少し横になって寝たら、別の看護士さんに上を向くように言われた。胸の周りをトントンされるのは分かるが、お腹の周りも同じようにトントンした。
「はい、いいですよ」
「お腹の周りに空気が沢山入っていますね」
人の良さそうな院長先生は、人事のようにそう言った。
「悩み事があったりすると膨れることもあるし、ビール、コーラ、サイダー・・。炭酸飲料を飲みすぎると膨れます。膨れる体質の人もいますよ」
「ええっ? じゃあ、この膨らんだお腹をどうしたら縮められるんですか」
しばらくウン? と言う顔になってから、
「人前じゃあちょっとと思うかも知れませんが、ゲップを出すといいですよ」
と院長先生は言った。私のお腹は、そんなもんで縮まないと思った。でも、空気が入っているなんて初めて聞いたから、微かにショックだった。でも、すぐに忘れた。
次は別の部屋で心電図と採血だ。外で待っていると、
「○○さん。こちらへ」
と言われた。またベッドだ。これはちゃんと上向きに寝た。
「足は靴下を下げたらいいですよ。上は、服を持ち上げて下さい」
全部脱がなくてもいい所は楽だ。
「ちょっと冷たく感じます」
アルコールの匂いが鼻を衝いた。また違う看護士さんだった。ちらっと目を開けて見た。しっかりしてる風に見えた。アイドルなんかではなかった。帰る間際に受付辺りの待合室に来た時、胸のネームカードを見た。婦長と書いてあったので納得した。
次は採血。右腕を出すような配置だ。
「親指を中に入れて、しっかり握っていて下さい。ちょっとチクッとしますよ」
中々指の力を緩めていいと言わないので心配だったが、いいと言ったのは、針を抜く寸前だった。でも、痛くも何ともなかった。
「院長の話がありますので、少し待ってて下さい」
「○○さん、どうぞ」
「尿の方は異常ありません。血液検査の結果は、2週間位後になります。その時もう1度来て下さい」
「どうも、お世話になりました」
そう言って、院長先生と3人の看護士のいる診察室を出た。他の患者を診ながら、要領よく検査してくれた。いい医院だと思った。
「今日は600円です」
左手ボールペン嬢は、言った。
「今度は、10日後位になります。来られる時にお電話下さい。今度も健康保険証はご持参下さい。」
そう言うと、にっこりした。
もう、10人位が座っていた。
「ようけおるなあ」
今来たばかりのおじいさんが、そう呟いた。
消毒ロッカーにスリッパをしまおうとしたら、ドアを開けて入って来たおじさんが、正にしまおうとしていたスリッパを、くれと言った表情で私から受け取った。消毒したロッカーの中のスリッパの方がいいと思ったけれど。
看護士さんは、座って事務をしていた女の人も含めて6人位だったようだ。
検査が終わったのが9時15分。医院を出たのが20分。入ってから出るまでの所要時間は、丁度45分だった。見たり、聞いたり、嗅いだり、舌を出したり、器具に触れたり・・。五感総動員、まるで小学校での1コマ45分の授業そのものだった。
8月31日の、もう丁度正午になった。
8時30分から診察開始。医院に着いたのが8時35分だった。歩いて5分ほどだ。
入るとすぐ受付で、お馴染みのピンクのナース服を着た女性が声を発した。
「おはようございます」
「健診をお願いしたいんですが」
「あ、はい。保険証はお持ちですか」
「ええ、これです。今日が最後の日になっていますので・・」
4・5人、椅子に座っていただろうか。その足のスリッパに気付いた。
「そちらに掛けてお待ち下さい」
スリッパが何処にもない。反対方向を見ると、棚に沢山のスリッパが見えた。ガラッと開け、スリッパを取り出した。そこには「スリッパ殺菌線消毒ロッカー」と記されていて、成る程と感心してしまった。簡易なラックが10列。1列には4足並ぶので40足収容可能だ。次から、堂々と、ここを開けて取り出そうと思った。
その女性は細く、頭はポニーテールで、白地に黒の水玉模様のリボンで括っていた。書類に目を遣りながら、何かを書き写していた。ボールペンを持つ左手が、素早く動いているのに感動すら覚えた。長椅子に腰を掛けながら、一緒に左手で文字を書く真似をしたが、それは無理と言うものだ。長年書き慣れた左手は、自動書記のように動いていた。
ピアノの左手も右手も、そう言った日々の訓練から導き出された動きなのだ。60の手習いと言う言葉もあるが、それはそれとしての違う楽しみでもあるのだろう。しかし、左手のボールペンのようには行かないのだ。
「○○さん、中に入ってお待ち下さい」
はっと気が付いて、病院と言う訳には行かないけれど、狭い中廊下の椅子に座った。
「○○さん、こちらへどうぞ」
「今から身長を測りますので、奥へ行ってください。スリッパ脱いで頂いて・・」
思いっきりいい姿勢をした。日頃思っている高さより1cmほど伸びていた。頭をぐっと押されたので、これは駄目かと思ったが、フムフム、中々いい高さだ。
「暫く、外でお待ち下さい」
「○○さん、どうぞ」
大柄な、しかし均整のとれたグラビアのアイドル(ちょっと前まではそうだったかも知れない)のような女性が声を掛けた。矢張りポニーテールで、銀色にラメが入っているかと思わせるようなリボンで、その髪を括っていた。
院長先生がいた。
「体重を量ります」
と言った。
院長先生と斜に座りながら、違った看護士が左腕から血圧を測っている。やや高めだ。
「緊張や思うことがあったりすると高めになります」
そう、院長先生は言ったが、私は別に気にもしていなかった。お袋が高かったし、私は、計測すると大体こんな結果になる。
余談だが、健康なのか病院には初めて行ったと言う、私の田舎の主婦の話だ。ベッドに横になっている時、医者に「血圧を測ります」と言われ、「はい」と言ってお尻を持ち上げて待っていたたそうである。その話を思い出すと、いつもおかしくて堪らなくなる。お袋がそんな話をしながら、自分でもおかしくなって吹き出していたのが、ついこの間のように思われる。
「ちょっとシャツを上げて」
と言って聴診器を胸の周りに当てた。その度に、合わせるようにして息を吸ったり吐いたりした。未だにどうして良いものやら分からない。
「立って下さい。お腹の周りを測ります。ちょっとずらして下さい」
まあずらすけど、この3人の看護士さん達が、みんな普通の顔して、一部始終を見てるんだろうな、と思った。誰か「まな板の鯉になりましょう」と言っていたが、意味がリアルに分かったような気がした。
「ベッドに横になって下さい」
と言ったので少し横になって寝たら、別の看護士さんに上を向くように言われた。胸の周りをトントンされるのは分かるが、お腹の周りも同じようにトントンした。
「はい、いいですよ」
「お腹の周りに空気が沢山入っていますね」
人の良さそうな院長先生は、人事のようにそう言った。
「悩み事があったりすると膨れることもあるし、ビール、コーラ、サイダー・・。炭酸飲料を飲みすぎると膨れます。膨れる体質の人もいますよ」
「ええっ? じゃあ、この膨らんだお腹をどうしたら縮められるんですか」
しばらくウン? と言う顔になってから、
「人前じゃあちょっとと思うかも知れませんが、ゲップを出すといいですよ」
と院長先生は言った。私のお腹は、そんなもんで縮まないと思った。でも、空気が入っているなんて初めて聞いたから、微かにショックだった。でも、すぐに忘れた。
次は別の部屋で心電図と採血だ。外で待っていると、
「○○さん。こちらへ」
と言われた。またベッドだ。これはちゃんと上向きに寝た。
「足は靴下を下げたらいいですよ。上は、服を持ち上げて下さい」
全部脱がなくてもいい所は楽だ。
「ちょっと冷たく感じます」
アルコールの匂いが鼻を衝いた。また違う看護士さんだった。ちらっと目を開けて見た。しっかりしてる風に見えた。アイドルなんかではなかった。帰る間際に受付辺りの待合室に来た時、胸のネームカードを見た。婦長と書いてあったので納得した。
次は採血。右腕を出すような配置だ。
「親指を中に入れて、しっかり握っていて下さい。ちょっとチクッとしますよ」
中々指の力を緩めていいと言わないので心配だったが、いいと言ったのは、針を抜く寸前だった。でも、痛くも何ともなかった。
「院長の話がありますので、少し待ってて下さい」
「○○さん、どうぞ」
「尿の方は異常ありません。血液検査の結果は、2週間位後になります。その時もう1度来て下さい」
「どうも、お世話になりました」
そう言って、院長先生と3人の看護士のいる診察室を出た。他の患者を診ながら、要領よく検査してくれた。いい医院だと思った。
「今日は600円です」
左手ボールペン嬢は、言った。
「今度は、10日後位になります。来られる時にお電話下さい。今度も健康保険証はご持参下さい。」
そう言うと、にっこりした。
もう、10人位が座っていた。
「ようけおるなあ」
今来たばかりのおじいさんが、そう呟いた。
消毒ロッカーにスリッパをしまおうとしたら、ドアを開けて入って来たおじさんが、正にしまおうとしていたスリッパを、くれと言った表情で私から受け取った。消毒したロッカーの中のスリッパの方がいいと思ったけれど。
看護士さんは、座って事務をしていた女の人も含めて6人位だったようだ。
検査が終わったのが9時15分。医院を出たのが20分。入ってから出るまでの所要時間は、丁度45分だった。見たり、聞いたり、嗅いだり、舌を出したり、器具に触れたり・・。五感総動員、まるで小学校での1コマ45分の授業そのものだった。
8月31日の、もう丁度正午になった。