今回はこの人物を軸に話を進める


前回、

『ではなぜ現代のアイヌ協会やアイヌ擁護派と、かつての暴力革命を目指した組織の目的に共通項があるのか? これらに関わるのが『アイヌ解放同盟』という組織と『ある人物』である。』(…つづく)


…と結んだが、今回は東アジア反日武装戦線という急進左翼テロ組織が信じた『アイヌ革命論』とその下敷きとなった『窮民革命論』、そして『窮民革命論』を唱えた太田竜に呼応して生まれた『アイヌ協会が作った組織』である『アイヌ解放同盟』と、その組織を立ち上げた『ある人物』を取り上げる。


その前に、

この記事を書くきっかけとなった愛知県の社民党党員の『伊藤浩士氏』が書いた記事を、今一度、皆さんには通読していただき、特に氏が述べている『赤字』で示した部分を頭に入れてから、先に読んでもらいたい。


風雪の群像・爆破事件

 2024-03-10 00:00:00

 テーマ:歴史


サトウのタケがアイヌ協会副会長が朝鮮学校で講演したことがあるから、アイヌ協会は主体思想(⬅北朝鮮民を洗脳する支配思想 現地語だとチュチェ思想)に染まっていると威張って書いていますが、ネトウヨ的にはアイヌ解放運動の汚点になるはずの風雪の群像爆破事件や、太田龍のアイヌ革命論には触れていません。

 

 北海道旭川市にある風雪の群像を、後に東アジア反日武装戦線となるグループが爆破したもので、日本帝国主義のアイヌモシリ侵略の象徴であるとして犯行に及んだものです。1972年のことです。

 

 この事件の翌年あたりから、太田竜がアイヌ革命論を吹聴するようになっています。プロレタリア革命が思うように行かず、疎外された窮民こそが革命の主体となり得るという窮民革命論が出て来て、日本帝国主義によって民族滅亡寸前まで追い込まれたアイヌ民族こそが革命の主体となるというもので、太田竜といういかがわしい人物の個人的に妄想に過ぎず、一般の日本人との生活格差の解消と北海道の先住民であることを認めさせるという、北海道ウタリ協会(現在の北海道アイヌ協会)の方針とは全く違うものでしたが、アイヌ人の運動を腐すのであれば、風雪の像の爆破や、アイヌ革命論は絶好のネタのはずですが、サトウのタケは延々とアイヌ人の運動を腐す記事を書いていながらこれには触れていません。

 

 それはどうしてか。サトウのタケがパクった、ネットの記事か書籍かは分かりませんが、差別論者が書いたものに、風雪の像の爆破や、アイヌ革命論が載っていなかったので、貶めるのに好都合なネタでありながら触れなかったのです。

 

 10年前にゆずこと名乗って、女性に成り済まして現れたときでも、外国人参政権で日本が乗っ取られると主張していましたが、私の支持者が見つけてくれたネトウヨビジネスをやっている者の著書からのパクリが内容の全てでした。

 

 杉田水脈に差別発言に同調してアイヌ人の運動を腐したいのであれば、ふつうの人であればその歴史を幾つかの資料で調べるはずであり、そうすれば風雪の像の爆破や、アイヌ革命論は必ず引っ掛かって来ます。引っ掛かって来れば、アイヌ人の運動を腐す絶好のネタですから、使わないはずがありません。

 

つまりあのアイヌ人の運動を激しく中傷した記事も、1つの記事か、1冊の書籍からのパクリであり、知見を広く求めての議論でないことは容易に分かります。ゆずこのころから1ミリも成長していない人間であるといえます。



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🔵アイヌ解放同盟と太田竜


以前から、アイヌ協会は新左翼(ニューレフト)達が全国で巻き起こす学生闘争に激しく共感・呼応をしており、共産主義思想にものめり込んでいた。


そして1972年

当時北海道ウタリ協会の理事でもあった結城庄司や、山本一昭らによって『アイヌ解放同盟』が結成される。アイヌ解放同盟・初代代表の名は、


『結城庄司』


この男、結城庄司は30歳にして『ウタリ協会(現アイヌ協会)』のトップである理事長に就任。そして34歳で太田竜と手を組み、アイヌ解放同盟を立ち上げ、自ら代表となる。


アイヌ協会と過激な左翼思想者・太田竜が手を組んだと如実に分かる事実である。


伊藤浩士氏赤字の部分で述べた事が如何に嘘か、若しくは御本人の勉強不足と、いい加減な知識で喋っているのが良く分かる。 


そのアイヌ解放同盟が発足後何をしたかというと……


1972年8月25日

札幌医科大学で行われていた第26回日本人類学・民族学連合大会を批判して結城が太田竜とともに演壇占拠を行い、公開質問状を読み上げた。


同年9月20日

結城が太田らとともに静内町にあったシャクシャイン像の台座から侵略者の後裔たる『北海道知事・町村金五』の名前を削り取る。


1974年9月

結城がクナシリ・メナシの蜂起の犠牲者を弔う供養祭『ノッカマップ・イチャルパ』の実行委員会初代委員長に就任。


1974年10月21日

結城がシャクシャイン像を毀損した罪で自宅で逮捕される(その後釈放され、起訴猶予処分となる)。逮捕の直前には、結城は他の仲間2名とともに太田の唱える「アイヌ革命論」とアイヌの主張・状況が乖離していることを記者会見で訴え、釈放後には太田と互いに批判・侮辱を繰り返す関係となり、太田と絶縁する。


1975年7月19日

北海道警察警備部が爆破される。そのときの犯行文には「東アジア反日武装戦線は、本日、アイヌモシリを支配している日本帝国主義者、北海道警察に対し、本部爆破攻撃を決行した」と書いてあった。



1976年3月2日

北海道庁爆破事件が起きる。


1977年12月

北海道大学経済学部教授の林善茂の講義でアイヌに対する差別があったと主張、「北海道大学差別講義糾弾闘争」を組織し、北大経済学部前に12月21日にテントを張る。萱野茂が仲介に当たり、翌年1月22日に収拾、テントを撤去した。


1983年9月3日

結城庄司が札幌市白石区の自宅で急性心不全により死去。以降、山本一昭らが運動を担う。


1995年2月

山本一昭らが呼び掛け人となって「『北方領土の日』」反対!全国集会」が、札幌で開催される。この「全国集会」は、以後毎年行われている。


1996年2月3日

【『北方領土の日』反対!『アイヌ新法』実現!全国実行委員会(略称:ビリカ全国実)】が発足する。代表に、山本一昭が名を連ねている。


愛知県の社民党党員である伊藤浩士氏は良く分からない事を述べているが、当時のアイヌの代表理事と過激な左翼はしっかり手をとって、粗暴な活動を行っていたのだ。ちなみに『東アジア反日武装戦線』の設立は1972年末。その東アジア反日武装戦線が起こした風の群像爆破テロ事件は1972(昭和47)年10月23日。


アイヌ解放同盟の設立は1972年8月より前。伊藤浩士氏はアイヌ革命論はこの翌年と述べているが、東アジア反日武装戦線は『アイヌ革命論』を掲げて設立しているのだから、時系列も嘘、若しくはろくに下調べもしていない『うろ憶えの自分節』で断じるという事をやっている。





🔵アイヌ解放同盟の要求(主張)


アイヌ解放同盟の主張をみてみると…



アイヌの尊厳を守ること

日本のアイヌに対する差別・偏見に抗議する。


自決権・先住権に基づくアイヌ民族の権利回復

北海道、本州北部、南サハリン、「北方領土」を含めた千島におけるアイヌの先住権を主張。「北方領土は日本固有の領土」であるという論理を強く非難、北方領土返還に強く反対する。



太田竜の称えた『窮民革命論』とそれを過激にし、暴力闘争を是とし、日本に安穏と一般市民もあると明言した『アイヌ革命論』、これらの主張とアイヌ解放同盟の主張は殆ど一致しており、特に『アイヌだけの国(自治領)をよこせ!』を主張しているのだ。


1996年の2月から今日まで、

【『北方領土の日』反対!『アイヌ新法』実現!全国実行委員会(略称:ビリカ全国実)】が毎年この日に北方領土に反対する活動をおこなっているが、これは『北方領土は日本のものではない!アイヌのものだ! 北方4島はアイヌの自治区(国)なのである!なんでアイヌのものを日本は我が領土であると喚いているのだ!許せん!』という主張で、やはりアイヌ協会も今もって、アイヌの思いのままになるアイヌの国を日本から奪い取ろうとしているのだ。


ただし、今のアイヌ協会やその周辺でアイヌの国を作ろうと捲し立てている者達の主張は1970年代のアイヌの主張である単に『我が民族の国をよこせ!』よりも悪質で、『(アイヌの現在持っている)日本国籍と日本政府の(アイヌへの)庇護はそのままにアイヌの国を作らせろ!』と厚顔無恥も甚だしく、


要するに『日本に寄生させろ!日本はアイヌに償え!アイヌを日本人よりも優遇しろ!日本はアイヌの保護をしろ!しかし、俺達の許可なしには入れない国をよこせ!俺達の国から採れる資源は全部俺達のものだ!』という、人間性すら疑う恥もプライドもない『クズの要求』をそれらしくしているのだ。


その『クズっぷり』をどうにか隠そうとするために『アイヌは大昔から日本人に差別・虐殺されてきたのだ!』という歪曲の歴史を毎日せっせとこさえて、自分らのクズ要求の『言い訳』にしているのであろう。


ちなみに沖縄でもこのアイヌの主張と全く同じ事を述べている人物がいる。つまり『日本人は沖縄人を差別してきた』『虐待した!』『日本は沖縄の独立を認めるべき!』『沖縄国を作れ!』という主張だが、『北方領土にアイヌ国を作らせろ!』という、言っていることは現アイヌ協会やアイヌ団体のそれと全く同じである。



🔵結城庄司という人間


アイヌ協会において結城庄司という人物は『英傑』として扱われ、調べれば美談ばかり語られているが、アイヌ協会側ではない結城庄司を知っている周辺の人物評は違う。


この時代、各新左翼による過激な事件が北海道で次々起こっているが、結城庄司と太田竜が組んでやった『シャクシャイン像事件』は当時の北海道知事の町村金吾氏の名の刻まれたレリーフ部分を削り取り損壊させるという『小者のやるような低レベルな事件』だった。


この事件を結城は太田竜、元・赤軍派メンバーで映画監督の足立正生らと起こし、全国指名手配を受けて逮捕される。


結局、全員逮捕され、太田竜だけが有罪となり他は起訴猶予となるのだが、この逮捕劇を境に太田と結城は仲違いを起こす。太田の『アイヌ革命論』は武装テロが必要だと陳べているが、それはアイヌの主張と乖離していると、結城と太田は互いに批判しあい絶縁となった。……が表向きの理由だが、 結城を良く知る当時の周辺の見解は違う。


結城は武装テロ反対どころか太田竜と手を組んだ当初は武装テロに賛同していたという。結城庄司という男は本性は『小心者』で、テロを出来る程の軽率さも豪胆さもなく、シャクシャイン像事件で自分に指名手配がかかると、慌てふためき、すがるように手当たり次第に助けを求めたという。


そもそもこの事件で結城は義憤にかられてシャクシャイン像の台座に剞まれた町村金吾氏の名を削ったとなっているが、1970年シャクシャイン像が建てられた時、この像の建立に結城庄司は大喜び。シャクシャイン像のレプリカを作って土産物屋で売ろうとしていた。だが著作権問題と周囲の猛反対で失敗しているのだ。猛反対したのは結城の周りの他のアイヌ。


なぜなら結城庄司はシャクシャインと敵対したいた部族の末裔で、その敵のシャクシャインを褒め讃えるレプリカをお前が売るのか!と散々に窘(たしな)められたからというなんとも情けない理由だった。という。




🔵この頃のウタリ協会(現アイヌ協会)自体は?


この頃のウタリ協会のトップが、極左の思想にカブれていた時、アイヌ協会はどうだったのか? 現時点の調べでは詳細な部分はさっぱり分からない。だが、1974年ウタリ協会は協会の幹部から当時のアイヌ擁護派で中国表現訪問使節団を組み、中国に渡って当時の中国にカブれ、大絶賛する訪問記を出している。この使節団には現在、北朝鮮のチュチェ(主体)思想にドップリ染まっている秋辺(成田)得平も幹部で訪中している。


だがこの1974年の中国は『毛沢東政権』の最高の時代。


1974年の中国ではモンゴル人への中国人民共和国の思想に批判抵抗する者達を大虐殺をしていた真っ只中で、女性を犯して殺す、陰部に棒を突っ込み殺す、母子で無理矢理性交をさせて楽しんだあと殺す、『中国批判をした』と洗脳されたモンゴルの子に親を密告させ、捕らえて拷問をする。頭に金槌で釘を打ちこむなど、残虐非道の『左翼思想強化』を行なっていた。


そんな中国の実態を知ってか知らずか、この頃のアイヌ協会は『あらゆる共産主義勢力』にカブれ、あらゆる共産主義勢力(日本共産党、社会党、ソ連、中国、北朝鮮、韓国など)接触を始めた時期と考えられる。


当然この『コスプレおばさん』が党首の党の前身である『社会党』も関わってくる。