国家のあり方(大方針)に『これ一択のみ』など、有り得ない。一択が可能なのは『世界中の大方針も全く変わらない』が絶対条件になるが、残念ながら世界各国の『大方針』は日々年々変わるもの。それに対応するには『これ一択の大方針』を永遠に続けるなど不可能が現実なのだ。

一つの考えに固執するは宗教における『熱狂的信仰』と同義であり、他にあるより良き考えを排除に傾かせるよろしくない考えである。


🔵スペイン・ポルトガル船の再度来航は断固拒否とした日本


1939年
島原の乱(1637年)を契機に『耶蘇教(キリスト教 正確にはカトリック)は危険』と判断。これを持ち込み、未だ日本で信徒の拡大を伺うスペインとポルトガルとの関係を断ち切り、どんな理由があったとしてもスペインとポルトガル船の日本来航も拒否と決めた徳川幕府は、この旨をポルトガルがアジア交易の拠点にしていた泊地・マニラを通じてポルトガルに通達した。当然、この時代スペインがポルトガルを事実上併合していたので、自動的にスペインの船も来航禁止となる。

だが翌年の1640年
再度の通商を求め、ポルトガル船が日本にやって来る。

幕府は直ちにポルトガル船を囲み、船員全員を拿捕。船員74名中、61人いたポルトガル人船員全員を直ちに斬首刑に処し、船内の物資・船にある金品全てを没収。船は焼き、幕府は残りの東南アジアとアフリカ人船員にこの処刑を見せ、『使節団であろうと商人であろうと、太陽が地球を照らす限り、キリシタンは日本を避けるだろう。たとえフェリペ王自身が来ても頭を落とす。嵐などでキリシタンの船が日本のどの港に辿り着いたとしても、全員は処刑され、船は焼かれる。これを伝えよ』と、残った船員をマカオに送り返した。

フェリペ4世は、スペイン王だが、ポルトガルも統治していたのでポルトガル王でもある。


この事件から7年後の1647年
今度は大砲を積み、一隻200人乗りのポルトガル戦艦二隻に兵士を満載し、強硬的な陣容で長崎の港にやって来た。これに幕府は即応。九州の諸大名を使い、長崎を約五万(正確には4万8000人)の軍勢と小舟ながらも圧倒的な数の軍船で『上陸艇を降ろして上陸する事も、逆に慌てて逃げる事も出来ないよう』取り囲む。 するとこのポルトガル軍船の代表は『私達は新しい国王の即位を伝える為にやって来ました。それだけです』と告げて逃げた。 これがポルトガルと日本の最後の関わりとなり、ここからペリーが来航するまでの約200年間、日本にはオランダ以外のヨーロッパの船は来なくなる。

『日本はアジア一の軍事国家、下手に近寄れば殺される』この認識が世界に伝わった瞬間である。

更に幕府はオランダに、オランダの世界を股にかける能力を買って、毎年、世界の様々な情報を登城して報告、そして集めた世界の情勢や情報を本にして纏めたものを幕府に献上するよう通達する。これにオランダは応え、毎年オランダは分厚い本のような報告書を毎年江戸城に登城の時、献上することになる。 この報告書は常に正確なもので、前年にアメリカの黒船が向うこともオランダからの報告で幕府は掌握。その報告は船長はペリー、船名は『サスケハナ』『ミシシッピ』『ポーハタン』船体重量は…各艦の船員の数は…砲門の数は…という事まで分かっていた程の詳細なものだった。

そして江戸時代が終わり、明治新政府が禁教令を解くまで実質的にキリスト教は日本に浸透することはなくなった。その間に檀家制度で国民は体制として1人残らず、どこに誰が住まうか?生年没年も把握され、基本的に仏門と神道の思想で大半を占め、足りない部分は儒教とこれに類する思想で満たされた。これが今も日本にキリスト教が浸透していない理由だ。

この根の深い日本におけるキリスト教との歴史が、その後も長らく、今もってキリスト教が日本に馴染まない『原因』であろうと考えられる。



🔵日本の各時代の為政者達の『ドクトリン(国の大方針)』



1️⃣織田信長の時代
為政者・信長の場合、彼の目前にあり、倒すべき宗教は『反抗する仏教』であり、対してキリスト教に対しては、当時のポルトガル・スペイン人は内に秘めた野心を隠しており、彼らとの貿易の旨味もあったので、彼らを受容する『重武装・外交受容国家』の方針を取った、



2️⃣豊臣秀吉の時代
為政者・秀吉は、最初はかつての主君の信長の考えを引き継ぎ、初期から中期までキリスト教は受容した。生来、不信心で晩年は自らを神になる事を望み、壮年の頃から大軍を指揮し動かせる能力に非常に秀でてきた秀吉は、布教をするカトリックには寛容というよりは無関心で、交易を日本支配の道具として使用した。

だが晩年になると、(正確には九州征伐・平定後の九州の実態をその目で見た以降)同胞ではない人間は人間に非(あら)ず。と、勝手に捕らえて奴隷にして売り飛ばし、その事に何の心の痛痒も感じていないスペイン・ポルトガル人の実態を詳細に知り、その事への恐怖と怒りから、他国を侵略し、支配することを望む『重武装・外交受容・侵略国家』の方針に変わる。実際に秀吉が他国に対して侵略をしようという方針に変わったのは天下統一を果たす手前の晩年辺り、狙う他国は秀吉がこの時、一番不信感を持ってて軍備の手薄なスペイン。そのスペインが東南アジア支配の拠点としていたフィリピンの強奪と東南アジアの支配、そして最大の目標にした明国であったと考えられる。

この世界戦略構想が実現していたならば、その後の世界史にチンギス・ハン、フェリペ2世に並ぶ王として豊臣秀吉の名前が歴史に残る事になっただろう。

だが朝鮮では予想以上の進撃から一転、朝鮮侵攻計画は、明国の加勢によって頓挫。血気盛んの武闘派だらけの戦国大名を抱えていながら、その大名達の本音は朝鮮・明国侵攻に消極的で、異国の地での戦争に疲弊していく中、侵攻作戦は秀吉の死を以て秀吉の野望は幕切れとなる。

この頃から日本人の考えの中に

『①彼と我とは?(世界における我が国とは)』
『②同胞とは敵とは?(敵国・味方国は)』そして
『③人権とは?(人の権利とは)』

を、国際的な感覚として初めて考え始めたのでは?と思う。

ただし、それはあくまでこの時は『きっかけ』であり、特に③の人権に至っては同胞(日本人)を勝手に捕まえ奴隷にする西洋人への怒りから発露したもので、その考えが出てきたのであろうと思われる証拠は、その後の秀吉の態度と行動で伺い知れるのだが、『人権』に関しては世界の歴史でも同様だが、この考えの発展はまだまだ先の事となる。

(事実、その後の捕らえた者達に対する処遇に差は見受けられるが、朝鮮侵攻で日本軍は朝鮮人を捕らえ日本に連れ帰っている。人攫いという点においては同時期の日本もスペイン・ポルトガルと変わりはない。)



3️⃣家康の時代
家康の場合、既に全国の大名が外国侵攻に消極的どころか、他国の侵略を自分が嗜好したら、折角まとめた己の政権が忽ち瓦解する事は秀吉の行った朝鮮侵攻で充分に承知していたはずで、秀吉の『重武装・侵略国家』という方針を引き継ぐ気は、ほとんど無く、あったとしてもそれは国内の整備が完全に整ってからの事であり、外国侵攻など頭に無かったのは想像に難くない。


だが一方でキリスト教(カトリック)は日本に害しかなさないもので、日本を侵食する危険な思想を育む宗教であると痛感。家康は『これを持ち込まない』と誓ったオランダを見つけたのを契機に、未だに持ち込もうとするポルトガルとスペインとの断交に舵を切り、『(スペインとポルトガルの船は)どんな理由があろうとも日本来航は断固拒否。乗り込めば殲滅する。』とし、家康以降も代々の家康の子供達と幕府も世界との外交は、明と清、そして朝鮮と西洋文明はオランダだけに窓を開き、それ以外のヨーロッパは拒否。ポルトガルとスペインは断固拒否という 『重武装・外交制限・中立国家』の方針に国の舵を切った。 かくして徳川政権は約260年の『泰平の世』を手にする事になる。



🔵日本のキリスト教との出会いと決別の歴史から学ぶ今の日本の『国家のドクトリン(大方針)』はどうあるべきか?


ここで愛知県の社民党党員である伊藤浩士氏の記事を取り上げよう。いつものことだが、氏は唐突に自身の記事を『丸ごと全部抹消しての再開』というパターンが度々した実績がある。なので氏のリンク先添付だけでは心持たないので、リンク先に書かれた記事の本文も記載する。


非武装中立政策


2024-03-24 00:00:00


テーマ:歴史


伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第53回 非武装中立政策 

 

 平安時代の朝廷は、人を殺さない政争と儀式だけをやっていて徹底して政治をやらないものでしたが、民衆はそれほど朝廷を憎んでいなくて、消極的な支持を与えていたように感じられます。

 

 天智天皇のころに、外国の内戦に介入して白村江で惨敗することがあって、そのあと攻めて来ると怯えて、大野城、水城、屋島城、高安城などを作らせます。外征も築城も庶民にとっては大きな負担です、天候不順による飢饉や疫病は天災なのに対して、これは完全に権力者による人災です。

 

 奈良の大仏建立と国分寺、国分尼寺の建設は最悪の大型公共事業です。もちろんこれは聖武天皇の道楽による人災です。

 

 天智天皇のそれは、近隣諸国を反日国家だ、戦争被害は捏造だといって挑発しておいて、攻めて来るから必要だとして、マヨネーズ土壌を埋め立てて基地を作らせ、敵基地攻撃能力が必要だとしてアメリカから中古のミサイルを買い込む行為に酷似しています。大仏建立は無用で膨大な経費がリニア新幹線と同じと考えたら分かり易いです。

 

 昔の人でも天災と人災の区別はつきます、天災は仕方がない、人災になることだけは朝廷にやってもらいたくないと考えていましたから、軍備を廃止して、外国の紛争に巻き込まれないようにして、遷都のような大型公共事業を行わないとの平安京の朝廷の方針は、最低ラインの民衆の支持を得ていたのです。

 

 平安京の朝廷を倒しても、新たに権力を得た者が、張り切って外征やそれに伴う軍備の強化や、遷都などをやつたらなんにもならない、なにもしない現政権の方がマシといったところに、民衆の意識が収斂されて行ったとしても不思議なことではありません。

 

 平将門、藤原純友、平忠常の乱が起きますが、大規模な内戦にはならず、局地戦で反乱軍は壊滅しています。あらゆる階層の人たちを巻き込んでの、巨大な反政府運動には成長しなかったのは、民衆は切実に平安京の朝廷の打倒を望んでいなかったものと推測できます。

 

 隋の煬帝は、大運河の建設と高句麗征討という、大型公共事業と戦争を行ない、随王朝を破滅させていますが、平安京の朝廷はそれと反対に、巨大な資金が必要なことをやらなかったので、長期に渡って王朝が続いたのです。非武装中立政策が基本にあったから、なにも政治らしいことをしないでいても良かったわけで、軍備を放棄して、外国の紛争に関わらないとの政策は偉大なのです。

 



この氏の考え方には異見を入れたい。


氏は平安の世を『非武装中立の時代』と見做し、(氏の平安時代の歴史観も問題あるが)


『非武装中立で外国と関わらない事が何より素晴らしい』としているが、そうではなかろう。


非武装中立は『相手国も武装せず、口出しをしてこない条件の時に初めて成立する』もので、 


隣国が武器を買い集めをしだし、

買った武器の使い方の練習をしだし、

交渉の際にその買い溜めた武器をチラつかせるようになる、


という状況になっても非武装中立の方針一択であったら、何の効果もないどころか、侵略される可能性を高める『愚か極まりない国家のドクトリン(大方針)』となる。



国家の大方針に『一択・それしかない』などありえない。



『国家のドクトリン(大方針)』は、世界に目を向け、耳を立て、情勢を把握し、それに国内の情勢も加えて対応する大方針を立てるのが常道であり当然である。


伊藤浩士氏のような『非武装中立こそ一番の一択論』は、状況・情勢を丸無視した、ただの『熱狂的信仰』に過ぎない。


思えば氏の所属する社民党は、前身の社会党の結党以来、ずっと『非武装中立』である。今もって『非武装中立一択』を叫び続ける党というのは、思想・思考の柔軟性に欠けている党という査証ではないか?


 もし今の日本のドクトリンが『非武装中立』となり、その方向に舵を切ったら、心持たないどころか『国が滅ぶ危険』を一気に抱え込むことになるだろう。既に日本の5倍を越える軍事力で尖閣・沖縄を狙い『西太平洋地域の王』になろうと画策している中国。核兵器の開発と、いつでも逃げる暇もない時間でミサイルを日本に落とせる状態を整えている北朝鮮。そしてまだまだ倒れない世界一、ニの軍事力のロシア。これらに今この瞬間、日本はこれらの国に囲まれているのだ。



ではここで私は『非武装中立』ではない、私なりの『日本のドクトリン(大方針)』を提案しよう。


今後当分の間、日本は『武装・中立・積極外交』がベストではないが、ベストに近いベターだと判ずる。


具体的には

今よりは確実に軍事力は高める。

しかし『専守防衛』は守り、先制はしない。

そして戦争に至らない為に外交力で頑張る。

軍事力を高める度合いは同盟国の了解を得てからとする。


これが今の日本の方針としては『ベストに近い最善策』ではなかろうか?




🔵おまけ



そもそも

『右翼』とは『昔に戻せ!』に硬直した急進派

『左翼』とは『理想未来(共産主義社会こそ理想)にせよ!』に硬直した急進派である。


私の提案と発想は右でも左でもない第三の考えだ。従って右翼でもなければ、左翼でもない。


しかし伊藤浩士氏は現在、社民党の愛知県所属の党員である。当然『左翼』のはず。…なのだが、何故か大昔の平安時代の世を大賞賛し、平安の世の国家方針こそ理想でそこに戻るべきと力説する。が、


これではまるで『左翼の党員であるはずの伊藤浩士氏の考え方は右翼と同じ』な訳で、この現象は実に面白い。と同時に、『社民党は大丈夫なのであろうか?』心配になる。