引き続きも伊藤浩士氏(または伊藤浩睦氏)のアイヌに対する見解『アイヌを旧土人と呼ぶは差別』『日本人は大昔からアイヌを差別し続けていたのだ。』のウソを付き、これを禄に調べもせず、そのウソをバラ撒いている問題に関して『旧土人は差別語では近年まで全く無かった』証拠の提示の『その③』であり、そして一先ず『旧土人』に関する事の最終章としたい。



さて
『旧土人は差別語である』のウソを何も疑わずに信じきっている伊藤浩士氏の今回の該当記事を今一度読んでみよう⬇……と言うのが、これまでの定番の流れだが、氏の記事(長文)をもう紹介せずとも、前回、前々回で既に氏の全文は貼り付けているので、今回は割愛。氏の記事のリンク先だけ紹介しておく。

というか伊藤浩士氏は『ある意味特殊』で、何の予告もなく思い立つと、それまでの自身のブログの記事を『全削除』という私からすると理解不能な事を過去何度もする、ある意味『常習犯』な方で、氏のリンク先の添付だけでは全く信用が出来ないから、わざわざ彼の記事をきっちりコピーペーストをして保存しておかねばならない。…という本記事とは関係のないことだが、そういう事情があるのだ。


まあそういう『裏の事情』は置いといて。


今回は私が確認した「土人が別に差別用語でも何でもない」証拠となる別の切り口の拾い上げてみる。

 

 


丸ブルー甲子夜話 江戸藩主・松浦静山の話(江戸時代)

 

「予が領地にも多久嶋と云へる二里に足らざる嶋の城地に近きに、此(ここ)に異種の雉(キジ)あり  土人、(地元民)高麗雉(こうらいきじ)と呼ぶ (以下中略) 

上矢印

土人が「地元民・原住民」を意味しているのが良くわかる。明言するが、ここで土人と呼ばれた者達が住む所は『日本の本州』である。

 

 

丸ブルー同じく、甲子夜話 高麗人参栽培失敗の其の理由の話

 

「徳廟、朝鮮国の寒期は吾邦(我が国)の信州と均(ひと)し(よく似ているという意味)と御考ありて 信州に人参(朝鮮人参)を植えさせ給うに  其(その)生産、気味、朝鮮に異ならず  因屡々(よってしばしば)人をして視せられし故(ゆえ)、(←朝鮮人参の育成の具合はいかが?と江戸からの役人が見に来る)

 

土人これを厭(いと)ひて(嫌がり) 密かにかの草(人参)に湯を濯(そそ)ぎ 土不協(土が合わない)などと云いて竟(つい)其こと廃せしと云う。」

上矢印

信州の土人(地元民が)朝鮮人参の生産に適していると踏んだ信州に植えたのだが、江戸からの役人の頻繁な視察を嫌い、湯をかけて人参を立ち枯れさせたという話。

 

 

 

丸ブルー江戸期末期の思想家で兵学者「佐久間象山」の名前の由来の話

「予慮之西南 巨陵奮起 其状厳然類象 土人目曰象山。 則余亦遂以象山 自号焉」

上矢印

漢文だが中身は「信州・松代の佐久間象山の家の西南に象に似た大きな丘があって、土人(地元民・原住民)はこれを象山と呼んでいたので これを自らの号にした」と象山は書いている

 

 

丸ブルー昭和初期の朝日新聞(1938年12月4日付)

「(山形県では)こういう現象を土民(地元民)は年に一度は体験する。)」

(錦三郎「飛行蜘蛛」より)

 

 

丸ブルーアイヌ女流作家バチェラー八重子(1884~1962)の詩の一節

「和人(シサム)土人(アイヌ)の区別なく、」

上矢印

旧土人保護法によってアイヌに与えられていた土地が日本の大戦によってアメリカの占領下に入り、マッカーサーが施行した農地改革法(昭和22年)で没収となった時のアイヌの困惑。このことをアイヌのバチェラー八重子は「和人(シサム)土人(アイヌ)の区別なく、」と、文章の中で表記している。 「土人はアイヌをさげすむ言葉」と、アイヌの八重子が承知していたなら、こんな表記は絶対にするはずがない。



もう土人なる言葉は元々、全く差別語ではなかった』は明らかであろう。


中でも盲目なアイヌ擁護派が注目すべきはアイヌ女流作家のバチェラー八重子の言葉である。


ここでバチェラー八重子氏の生涯を紹介しておく




🔵アイヌ女流作家『バチェラー八重子』の生涯



出生地: 北海道 伊達市

生年月日: 1884年6月13日

死亡日: 1962年4月29日

民族: アイヌ民族


出生地は北海道伊達町有珠。戸籍名(和名)は「向井八重子」、幼名は「フチ」。


父はアイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロ。母はフッチセであった。なお弟に向井山雄がいる。


父の向井富蔵はイギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が死去。


13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出てバチェラーが運営する「アイヌ・ガールズスクール」に通う。さらに、東京のミッション・スクール香蘭聖書学校に通う。


1906(明治39)年

八重子は、ジョン・バチェラーの養女に。22歳のことであった。なお、ジョン・バチェラーには、妻のルイザがいて、彼女ルイザがバチェラー八重子の養母となる。1908(明治41)年、養父母とともにシベリア鉄道経由で英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命される。平取や幌別の聖公会で伝道活動を展開する。滞在中、各地で講演を行った。帰国後、北海道の幌別、平取の聖公会教会で伝道活動を展開。1912(明治45)年には、ジョン・バチェラーと共に、樺太に行き、伝道活動を行う。


1931(昭和6)年

バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版。1936(昭和11)年、養母ルイザ・バチェラーが死去。札幌円山墓地に葬る。1940(昭和15)年12月、太平洋戦争が始まると、敵性外国人として、養父ジョン・バチェラーは帰国させられ、1944(昭和19)年に死去。八重子は、日本に残したジョン・バチェラーの蔵書250冊ほどとその他の遺品を自宅に保管する。


1962(昭和37)年4月29日、関西旅行中に京都にて死去。77年の生涯を閉じる。


上記の八重子氏の事は、ほぼWikipediaのコピーであるが、これがアイヌ女流作家・バチェラー八重子の生涯だ。⬇


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%AD%90



バチェラー八重子はアイヌ民族であり、文学を通してアイヌ文化を全国に広めたアイヌは勿論、アイヌ協会も尊敬せねばならない、間違いなくアイヌの歴史を打ち立てた人物の1人である。


その歴史的女流作家の言葉を北海道アイヌ協会と擁護派、そして伊藤浩士氏は何故無視して、彼女が込めた言葉の正反対となる言葉(=ウソ)を流布するのだろう?これはバチェラー八重子という『偉大なアイヌの先人』に対する愚弄である。



🔵『土人』に差別のイメージが付いた「きっかけ」


上記の表朝日新聞の記事の記録を見れば、昭和38年時点(1963年)は確実に「土人(=地元民・原住民)」は別段差別語でも何でも無かったのは火を見るより明らか。


この差別語でも何でもない『土人』は、いつ頃から差別語になったのか?


恐らくではあるが、まあ間違いないであろう『きっかけ』はある。『アメリカから日本に持ち込まれた西部劇TVドラマシリーズ』だ。


時期的にはこの米製西部劇ドラマシリーズの数々が日本には昭和34(1959)年から昭和38(1963)年まで日本の各地で良く放映された。西部劇は勿論、舞台は昔のアメリカなので当然アメリカの原住民である「インディアン」が登場する。 

   


このドラマでインディアンは『理屈が通らず、愚かしく、野蛮で、すぐに白人に襲い掛かり殺そうとする蛮族』として描かれた。


このアメリカ原住民のインディアンを放送や邦訳や新聞の番宣で『アメリカ土人(原住民)のインディアン』と表記したり呼称した。


これによって、それまで特に注目もされなかった原住民、地元民を表わす言葉『土人』に、にわかに『未開人・野蛮人』といった『土人なる言葉に悪いイメージが付いた』大変濃厚な線の『一つ』だ。


上記の日本におけるアメリカ西部劇のドラマ放映開始は1959年だから、土人=悪いことば意味の定着の始まりは1959年と明記したいが、実際はもう少し前、つまり『映画としての放映』から『土人=野蛮人』のイメージ付けは既に始まっていたのではと勘案する。それがTV放映で『土人=野蛮人』が全国区になったのだろう。


これ以降、元々そんなにメジャーな言葉では無かった『土人』だが、この言葉を以降メディアは徐々に使わなくなる。悪いイメージとなった言葉を、悪いイメージとなってきても散々使っていたのは特権・利権のために『旧土人保護法』を必死に守る現在の北海道アイヌ協会の先人達(ウタリ協会)とその関係者だけだったのだ。

 



丸ブルー一つ目の証拠『童話ちびくろサンボ』


その少し前の昭和28(1953)年、

ヘレン・バンナーマン(ヘレン・バナマン)が1890年頃、軍医の夫に帯同してインドで過ごした体験を元に、自分の目子供たちの為に童話『ちびくろサンボ』を創作。


彼女の『ちびくろサンボ』は、知人を通してイギリスの出版社に紹介され、1899年に英国のグラント・リチャーズ社より初版が刊行。


そして昭和28(1953)年

童話『ちびくろサンボ』日本の岩波書店が発売。全国的な大ヒットとなり、発刊1年で120万部以上が売れたとされる。


このときのちびくろサンボの紹介に『土人』が散見されるが、のちの『ちびくろサンボ廃刊事件(実際は製作側の自粛なのだが)』が起きるが、ちびくろサンボの中身でもっとも槍玉に挙げられたのは黒人を思わせる大きな目・分厚いくちびる・黒い肌、そして『半裸』という挿絵と描写であった。


それにアメリカの黒人層が反発『あんな(サンボみたいな)アフリカ土人と俺等が一緒に見られるような表現は許せん!』とまあ、今のアフリカの人が知ったら激怒するような言い分であった。


(ヘレンの生活はインドで、虎のバターは原本では『ギー』だから、インドが舞台じゃないの?のツッコミを入れたいけれども。)


それが大きな波となり、日本にも1974年に『ちびくろサンボを糾弾する問題』が海を越えて持ち込まれるも、日本ではコレに対する反応は薄かった。(黒人というより、外国人がそもそも少なかった)


だがここでも『土人』が顔を出し、やはり『土人』なる言葉に良くないイメージが付いたと考えられる。



丸ブルー2つ目の証拠『人食い土人サムサム』


昭和36(1961)年

NHK放送の「みんなのうた」で『ひとくいどじんのサムサム』が歌われる。


歌詞は⬇


ひとくいどじんのサムサム 

おなかがすいてうちへかえる


かめのなかのかめのこをたべる 

ななくちたべたらもうおしまい


ひとくいどじんのサムサム とてもさむい


ひとくいどじんのサムサム おなかがすいてとなりへゆく


ともだちのカムカムをたべる ふたくちたべたらもうおしまい


ひとくいどじんのサムサム ひとりぼっち

ひとくいどじんのサムサム おなかがすいてしにそうだ


やせっぽちのじぶんをたべる ひとくちたべたらもうおしまい


ひとくいどじんのサムサム いなくなった



『みんなのうた』は幼い子供が視聴する番組だが、『当然、子供の親も視聴する』。土人という言葉のの悪印象を広める効果は確実にあっただろう。


また裏を返せば、公共方法NHKも『どじんのうた』が当時、何の斟酌もなく、放送していたわけで、1961年の『土人』に日本人は特に注意など払っていなかったのは明らかである。


とまあ、『土人』なる言葉に悪印象が付いたであろう歴史を探ってみたが、やはり1950年代の米国の西部劇ドラマシリーズから『土人』なる言葉に明確な『悪印象(野蛮・原始的という)』イメージが付いて、それが全国区となり、それ以降、何かの拍子で常に『悪印象としての土人』が度々顔を出し、その悪印象が定着。結果、元々の『土人』と連結した。と考えるのが妥当だ。


だが、

これに対して辞書の業界はあくまで慎重で、少なくとも手元の調べでは少なくとも1971年で時点では『土人』に『原始的な』などという、今の感覚でアイヌを土人と呼べば『侮蔑』となるイメージは付けるべきか否かで、『まだまだ検討中』で、辞書の『土人の項』に原始的という新たな意味を載せる段階ではないと判断していた。


これは間違いない。


そして結果として『土人』そして『旧土人』を『被差別ビジネス』の材料として使い出したのは結局、北海道アイヌ協会を筆頭とした、『アイヌは大昔から日本人に差別されてきた!酷い事をアイヌにしてきた』と叫ぶことで、金と権利を勝ち取ろうとする為に『それは大嘘なのに』『土人』が利用される事となった。


そう考えるのが妥当だ。


ちょうどアイヌの解放運動(=それを利用した被差別ビジネス)が本格化したのは1970年以降。これには『ある団体』がアイヌと接触した事が切っ掛けと推定するが、その組織は追々書いてみたい。



(兎に角、その組織自体が頭が痛くなるほど、やっている事が膨大で、とこから手を付けてよいやら未だに混乱する程なのだ。)




今では『土人は差別の言葉』のイメージとなってしまってるが、昔はそうではなかった。だから今の北海アイヌ協会を筆頭としたアイヌ擁護派と伊藤浩士氏の言い分は明らかに間違っており、その間違ったウソの言い分で、『アイヌは大昔から日本人に虐げられいたのだ!』のウソを展開し、そのウソを事情を知らぬ者が多い事を良いことにバラ撒き、日本政府と国民に償いをせよ!と叫び、給付金(=国民の税金)を求めるのは、明らかに道徳的にはもちろん、歴史的にも、司法上でも重大な犯罪なのだ。

仮にも伊藤浩士氏は人の世を良くしようという、分野で見識を深めようと目指している社民党の党員の1人であると判じているが、この知識の浅薄さ、それによる浅い見識では本当にどうにも心持たない。


伊藤浩士氏に人の為、国の為、という『志(こころざし)』があるのならば、もっともっと一層の研鑚してほしいものだ。