「慰安婦問題の日韓交渉」とその報道にイライラする。とりあえずのメモ。
・被害者の人権問題が、「外交」問題に置き換えられている。この問題の被害者は「慰安婦」とされた一人ひとりの女性たちであり、韓国政府も韓国人一般もこの問題の被害当事者ではない。韓国世論が納得するかどうかではなく、被害当事者に受け入れられ得る対処であるかどうかが問われるべき。
・しかも、当事者でない役人や政治家たちが「最終妥結」に合意できるかを話し合うという奇妙さ。1965年の日韓協定と同じ構図。だから政治的な決着が成立しても、問題は「解決」に至らないだろう。人権問題については、国家をこえて、個々の請求権が認められるべきはないかというのが、この二十数年間の議論だったように思うのだが。
・「解決」「決着」という語が安易に使われることへの強烈な違和感。当事者にとって、非道な現実は消えない。被害者の痛みに寄り添い続けるような何事かが求められている。被害者への直接的なケアはもちろんのこと、言論の場で、また教育の場で議論が繰り返され、問題を深く捉え直していく営みが続けられたり、あるいは資料の公開と共有というかたちで、被害者の痛みへの想像力が喚起されたり…。
・広島・長崎についても、ナチス犯罪についても、被害者の痛みに寄り添う何事かが続けられ、それが未来へと生かされようとしている。「ホロコースト問題の解決」という表現が使われたらおぞましく思うのは、私だけだろうか。「解決」「決着」という語が安易に飛び交う現状に疑問を感じる。
・その意味では、アジア女性基金解散後の、外務省によるフォローアップ事業は評価されるべき面がある。しかしメディアの注目は「解決」「決着」に向けられている。
・「最終的解決」という語を用いた記事もあり、驚いた。いうまでもなく、「ユダヤ人問題の最終的解決」とは、ショアー(ホロコースト)を意味する。
・求められているのは、被害者の味わった苦しみや痛みを、まさしく被害であると、まっとうに、公的に認めること。「金を出すので、もう問題にするな」という態度を取られたり、法的根拠のみで「できるのはこれだけだ」と言われれば、被害者は、自分の被害がまっとうに認められていないと感じる。苛立つのも当然だろう。
・問題対処の発想と方法を大きく変えなければ、混乱は深まる。