とりあえず、感じたことをメモしておく。
今朝、テレビで、福島第一原発の放水作業に参加した緊急消防援助隊の会見を見た。救援のプロフェッショナルとしての誇りと誠実さがあらわれた、見事な会見だった。涙が出そうになった。
ネット上には、彼らの活動への感動や感謝の言葉が数多く見受けられる。当然のことと思う。
しかし同時に、会見を見ながら私が感じたのは、どうしようもなく深い怒りだ。
彼らを現場に送り、危険にさらし、家族に痛みを強いたのは、原発安全神話をふりまいてきた電力会社や研究者・政府諸機関であり、原発を許し、恩恵を享受してきたわたしたちだ。
これは、自然災害への対処とは根本的に質が違う。
緊急消防援助隊の人々だけでなく、原発周辺の住民や作業員らは、いま、本来不要な被害を強いられている。
私たちはもっと怒るべきではないのか。
数年前、鹿児島の知覧特攻平和会館に行ったとき、遺書を読んで涙を流す若い参観者たちを何人もみた。参観者ノートには、死んだ特攻兵たちへの感動や感謝の言葉が並んでいる。
しかし、私たちはもっと怒るべきではないだろうか。特攻を強いた者に対して。
古い知人であるジャーナリスト田中伸尚さんは、日本の戦後社会が、戦争「被害」を「犠牲」と言い換えて美化し、責任の所在を曖昧化してきたと指摘する。「被害」は「加害」と対になる概念だが、「犠牲」という語には、何らかの良い結果を生み出す土台という意味合いが含まれており、特定の加害者が存在しなくても「犠牲」は成立する。くにのための死ということに関して言えば、これは他の社会においても共通する問題だろう。
福島第一原発の問題にも、「犠牲」への言い換えは存在しないだろうか。
原発については、まず状況のさらなる悪化が抑えられることが重要だが、いずれ、この問題は徹底的に責任追及されるべきだろう。
安全に、安心して暮らせる社会への転換が、そこから生まれるはずだ。
私たちはもっと怒るべきだ。
そして、その怒りを通して、新しい社会のあり方を具体的に構想していこう。