「戦後和解としての皇室外交」への疑問 | 田口裕史のブログ

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 2009年11月11日付『朝日新聞』朝刊に、君塚直隆さん(神奈川県立外語短大教授)の「戦後和解としての皇室外交」という文章が掲載された。現天皇の海外訪問が戦後の日本外交に重要な効果をもたらしたと評価したうえで、天皇訪韓による戦後和解を期待する内容である。

 これまで私が考えてきたこととかかわって、見すごせない主張だと感じた。いくつかの疑問をメモしておきたい。


 私は、侵略の歴史を乗り越えるために、以下の二つのことが求められると主張してきた。


 第一に、被害者へのまっとうな補償の実現である。

 植民地支配、侵略、戦争の被害者一人ひとりの痛みと真摯に向き合い、それを償うこと。被害者の痛みは回復不可能かもしれないが、その痛みを受け止め、責任の所在を明らかにし、再発防止を誓って、被害者に償いを行なうべきだ。それを怠れば、被害者の尊厳は傷つけられたままに終わってしまう。求められるのは、一人ひとりの「小さな」人間の存在を国家の論理が押しつぶすという、これまでくり返されてきた暴挙への深い反省のおこないとしての補償である。償いは、個々の人間の生存と幸福が何よりも尊重されるべきだという論理を、この世界に築き上げることでもある。償いの対象となる被害者の中には、当然のことながら、空襲被害を耐え忍べといわれ続けてきた日本の民衆も含まれるだろう。


 第二に、おこなわれた犯罪(的)行為への反省として、人権と平和への十分な配慮を支える法制度と文化をこの社会に築き上げることである。

 いかなる理由であれ人間が差別され虐げられることを容認しない社会を実現すること。それが歴史的反省から導き出されるべき当然の途だろう。過去への反省は、現代と未来に向けて具体的に生かされなければ意味がない。


 しかし、これまで日本が行なってきたのは、謝罪・償いの「値切り」である。

 償いは、国家レベルの外交交渉のなかで歪められ、「謝罪」は「おわび」と言い換えられた。頑ななまでに「謝罪」という語を避けたうえで発せられる「おわび」(つまり値切られた「おわび」)に、被害者が不快感と不信感をおぼえるのは自然なことだろう。また、「おわび」の背後でくり返される日本社会の責任否認・加害正当化の言動を見て、被害者が「おわび」の不誠実さを感じとったとしても当然だ。さらに、それ以前の問題として、被害の訴えを黙殺され続けてきた被害者が数多く存在することも忘れてはならない。

 「値切り」と「ごまかし」、そして完全な「黙殺」という対応が繰り返される中で、被害者の不信と痛みは深まる。


 天皇による「和解外交」は、これまでくり返されてきた「値切り」「ごまかし」の延長でしかない。現天皇がアジア諸国を訪問し、笑顔で、親しげな振る舞いをする。前天皇と天皇制の責任は曖昧にされたままだ。地位を公的に引き継いだ現天皇には、前任者のおこないの責任が引き継がれる。しかし、彼は、日本の植民地支配と侵略の責任を語ることはない(いや、その前に、そもそも天皇による「外交」なるものが憲法上許されるものなのか)。

 むろん、天皇訪問先の社会に、友好的な空気が広がることはあるだろう。だが、それは過去をごまかした「和解」に過ぎない。そして同時にそれは、被害者を置き去りにした「和解」だ。以下で、そのことを確認したい。


 このところ、「和解」をめぐる議論が増えている。しかし、「和解」の内実は何か。語られる「和解」は、いったい誰と誰の間のものか。そして、「和解」の目的は何なのだろうか。


 まずは「和解」の対象を考えたい。

 第一に想定できるのは、「被害当事者と日本国家」との関係。そして「被害当事者と日本国民」「被害当事者と加害当事者」「被害国国民と日本国民」…。いくつもの関係を考えることが出来る。その整理を欠いたまま「和解」を論じるのは難しい。

 では、「和解」の目的は何だろう。

 「和解」の対象を「被害当事者」と見るのか、「被害国国民」と見るのかによって、目的は変わるに違いない。

 しかし、対象も目的も曖昧なまま、「和解」という耳障りのよい言葉だけが濫用されている側面はないか。


 「和解」を語る言説の少なからぬ部分に感じるのは、被害当事者の存在の欠落だ。被害当事者の問題を回避しつつ、「被害国民」と「日本国民」との関係改善だけが目的とされているように見えることがある。たしかに、天皇がソフトなイメージで訪韓し、韓国社会の対日感情が改善するなら、それは「よいこと」なのだろう。十分に意義のある「目的」が達せられたことになる。だが、被害当事者の痛みは、こうした上っ面の対応で癒されることがない。これは、誤魔化しのきかぬ被害当事者の痛みを置き去りにし、踏みつけにする行ないだ。「いつまでも過去の痛みを引きずる被害当事者は全体のごく一部であって黙殺してよい。国民同士が関係改善することのほうが、両国の将来にとって意義深い」などという立場を、わたしは完全に否定したい。
 

 一方、「和解」の対象を「被害当事者」とみなすならば、被害者の痛みの軽減が目的になるだろう。民間のいくつかの団体が、被害当事者の痛みを軽減するための行動をとっていることはよく知られている。その努力には敬意を払いたいし、その意義も十分理解できる。ただ、私たちの国家が、国家の責任においてまっとうな償いを果たさない限り、納得の出来ない被害者がいつまでも残り続ける。

 いや、そもそも、被害当事者との関係において、「和解」という語を用いることは妥当なのだろうか。そこにあるのは、被害者と加害者という非対称な関係に他ならない。結果として得られる可能性があるのは被害者からの「赦し」のみである。加害者側がいったいいかなる理由で被害者と「和解」するなどということがあり得るのか。


 天皇外交は、「値切り」と「ごまかし」の延長でしかない。

 まっとうな補償を行ない、より十分な制度と文化をこの社会の中につくること。それを目指したい。

 その結果、被害者が日本社会を「赦す」こともあるかもしれない。しかし、それが私たちの目的ではない。被害者の痛みが解決不能であるという認識から出発しよう。痛みが解決不能だからこそ、被害者への償いを実現し、歴史的反省を現在と未来に具体的に生かす必要がある。


 

 追記:

 先日、西松建設が中国人強制連行訴訟に関する和解条項への合意を発表した。これは私がここで論じた「和解」とは異なる枠組みのものだ。画期的な出来事ととして注目したい。ただ、この問題においても、今後、強制連行に関する国家の責任は明確化される必要があるだろう。