何度もすいません。

たくさんのコメント、ありがとうございます。


これは、京都市下京区にある

蓮久寺の住職

三木大雲様が言っておられた言葉です。


動画を検索しても出てきませんでしたので、間違っていたら訂正をお願い致します。


このお言葉は私が日常生活で耳にする

世の中の悲しいニュース

(赤ちゃんが亡くなってしまった)

(幼い子が犯罪や事故で生命を落とした)

(十代の子が喧嘩やトラブルで生命を落とした)

などを見て、悲しくなる度に思い返している言葉です。




鉛筆が二本あります。

一本は毎日使われて毎日削られるのですぐ短くなっていき、すぐ使えなくなってしまいます。


もう一本は滅多に使われることなく、ずっと引き出しにいれたままの鉛筆です。故に滅多に使われることも削られることもなくその後、何百年も鉛筆としてあり続けました。


この二本の鉛筆。

どちらが幸せだったと思いますか?


人生も同じじゃないですか?


『若くして亡くなって…気の毒に…』

と他人は言うかも知れませんが、その鉛筆はたくさん使われ、削られてその人生を全うしたんです。

生きた年月ではないんです。


人の何倍も人生を楽しみ、ご両親にも人の何倍もの笑顔をプレゼントし、人生を使い切った。 


これは亡くなった方の心情を推測するしかありません。

ですが残された遺族はこう思うのが正解なのだと私は思います。



一方、

滅多に使われることもなく、削られることもなく長く長く暗い引き出しの中に入れられ、何百年も鉛筆としてあり続けた鉛筆は本当に幸せだったのか…を考えたらどうでしょう。


鉛筆としての一生

その鉛筆は幸せだったのでしょうか。


書く言う私も

いつ膵臓がんが再発するか分かりません。


再発したらどうしよう…

下の娘はまだ七歳です。

そんなことばかり考えています。


でも最後の最後は

【神様にもらった鉛筆が使えなくなるくらい生きた】

と思えるように生きようと思っています。


私の人生の鉛筆の長さはどれ程残っているんでしょうか。


それが分からないから、日々頑張れますニコニコ