を聞くと、毎回頭の中にしのびこんでくる映像は


しとしとと雨が降る六月の午後の

たたみの部屋


濃い鹿色の窓枠の向こうに見えるのは、

降る雨をうける庭いっぱいの緑色と

雨の午後特有の、どんよりとした、でもあたたかみのある様子の空


すきとおる羽のような薄い柔らかい布をつぎはぎしてつくられたカーテンのそばで

じっと座り込んで、遠くを見ている人の後姿


のうぜんかつらには、やっぱり雨降りが似合う。

とりわけ、午後の雨降りが似合う。


外が暗くなる雨降りの日には、部屋の中の光がいつもの倍以上に柔らかくてまるくて黄色くなる。

だから、わたしは、いつでも雨降りが好きだ。

雨降りのときには、みんなで、その光をあたためあって譲り合って使うような気になれるから。

晴れの日にはごまかしちゃうような自分の手のひらの中の「さみしい」を

その光の中なら、お互いの指の隙間から少しずつ見せ合うことも、

許されてしまう気がするから。


晴れの日より、光がやさしくて近いから、やっぱり雨の日がわたしは好きだ。


http://www.youtube.com/watch?v=3j5Pn00ugQw&feature=related


光に、やさしく、なでられているようだから、やっぱり雨の日が好きだ。










言葉足らずだったので。

走っていたら、足らない言葉がふっと、わかった気がしたので。


大事にしなきゃいけないと思うのは、
未来をずっと約束できる安心じゃなくて、
いいなぁって素直に思える自分の中のなにかと、
わずかでもそれを共有出来ている今 なんだ。

だけど、誰かをすごくきずつけている上にそれは成り立っているから、自分だってなんだかこわいのも事実なんだ。

間違いから生まれた責任も、
幸せから生まれた不幸せも、
手の中にある不安も、

全部全部が裏と表になっていて、世界はちゃんと繋がってつむがれているのなら、

わたしが出来ること、の存在はちゃんとわかる。


明確にある。
多分、わたしが生きることはそれをやり続けることでも、あると思う。

しっかりしよう。
止まってとまどって、よく見て歩こう。

今日も笑ってよう。


追記なのに重い。しかもまだ全然足らない。
ああ。

って、ほんとにあるんだろうか。


もしあるとしたら、わたしは来年

死ぬのかもしれないなぁ。


ごめんなさい。