幸福の科学を統一教会の信者が見ると -6ページ目

幸福の科学を統一教会の信者が見ると

幸福の科学も統一教会も、同じカルトじゃないかって?まあそうかもしれないけど、幸福の科学を見てるといろんなことを考えさせられるんですよ。「真実は小説よりも奇なり」

やや日カルトさんのブログのコメント欄に
匿名さんが、「旧正心法語」というものを書かれていた。

私は初めて目にするもので、とても興味深かった。

読んでいて、言霊の力を感じる。
初期のこんな教典が没になったのは惜しいことだ。

これらの言葉は
送り主が本当に伊邪那岐大神やモーセであるかは別として、
たしかに天上界からのインスピレーションではなかったかと感じる。


以下、引用させていただく。


逆境を転ずる祈り   伊邪那岐大神

正しく清く生きたれど
人生にしばし逆境の時節あり
逆境の時こそ われに力あり
逆境の時こそ われに勇気あり
逆境の時こそ われに光あり
われ逆境を転ずるなり
過去の偉人も聖人も
逆境なくして 輝きなく
逆境なくして 偉業なし
われ逆境をはね返し
鋼(はがね)の如くはね返し
光の塔を打(う)ち建てん
青史に名前を止め置かん
逆境はこれ潮(うしお)なり
潮ありてこそ船旅も
勇気とロマンの旅となる
航跡の真白き跡も鮮やかなり
逆境はこれ荒波なり
磯の大岩そそり立ち
荒波とこそ戯れん
われ逆境と闘うより
むしろ逆境とこそ戯れん
逆境はこれ愉(たの)しきかな
逆境はこれ役立つかな
水の抵抗ありてこそ
泳者の筋肉うなるなり
山に傾斜のありてこそ
山男には誇りあり
ああ われ今 真に悟るなり
人生に真の逆境はなきことを
逆境と見えしはこれただ目の錯覚
観世音菩薩の方便なり
逆境を転ぜんとこそ決意せば
そこにはもはや逆境なく
ただ大調和 大団円
光の天使が取り巻きて
祝福の歌 歌うなり
神の世界に 誉れあれ
真の勇者に 栄光あれ
ただこれ光に感謝あれ



心の言葉   モーゼ

『モーゼの訓え』

 一 人のこの世に生まれしは
   神の子として生きるため
   汝ら心を一つにして
   神の教えを広めなさい

 二 人のこの世に生まれしは
   正しき道を 歩むため
   正しき道とは 反省と
   祈りの道と悟るべし

 三 人のこの世に生まれしは
   愛ある日々を送るため
   愛はこの世の力なり
   しかして神の生命なり

 四 人のこの世に生まれしは
   日々の進歩を目指すため
   魂の喜ぶものは ひたすらに
   徳ある日々を送ること

 五 人のこの世に生まれしは
   地上天国 創るため
   己が心に天国を
   創ることより始むべし

 六 神の心にかなうには
   まず悪を捨て 善を取り
   善のみ真理と悟ること
   善のみ力と悟ること

 七  神の心にかなうには
   男女の道を正しくせよ
   男女は共に相助け
   調和を目指し進むべし

 八 神の心にかなうには
   三世の道を旨とせよ
   人間に 過去世・現世・来世あり
   作用があれば反作用
   原因あれば結果あり

 九 神の心にかなうには
   中道をこそ旨とせよ
   極端な思いを避けて
   合掌す
   そこに調和の光あり

 十 神の心にかなうには
   悪しき運命を 乗り越えよ
   努力に天の助けあり
   祈りに必ず応えあり 




 私が同意できないのは「八」の
「人間に 過去世・現世・来世あり」の部分だけ。
(輪廻転生は信じていないので)

 それ以外はまったくもって同感である。

「努力に天の助けあり
 祈りに必ず応えあり」か・・・。

 なかなか勇気の出るお言葉ではないか。

 初期の頃の霊言集を読んで、
「そうだ、そうだ!」と共感していた気持ちを思い出した。


 
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先日「信仰は百パーセントを求める」ということについて書いた。
今日はその続き。

信仰とは、百パーセントの信仰にして、
九十九パーセントの信仰はありえないのだ。
九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。
信仰は、百パーセントを求める。
(仏陀再誕)


絶対的なものを求めるのが信仰の世界であるから
その話は理解できないことはない。

しかし、それを語る者にはブーメランのように
その言葉が自らに返ってくるだろう。

「そういうあなたはどうなんだ?」と。

神に対する百パーセントの信仰を実践してみせているのか?

1パーセントの不信や疑いの余地もないくらい
不変なもの、絶対的なものを示すことができているのだろうか?

過去現在未来にわたって、
ブレることない一貫したものがどれだけあるのだろうか?



文鮮明師は、92年の生涯を晩年まで
3時間の睡眠で通された方だ。

修練会で直接話されるときは
夜半まで続いて、早朝から始まった。
その日も次の日も。
私も何度か体験したから事実である。

身近に生活する側近は大変である。

なぜそこまでの生活をされるのか?
「今この瞬間も、自分を師と仰ぎながら、
世界中で伝道活動しているメンバーのことを思うと
いっときも休めない、
休むわけにはいかない」
とのことだった。

安楽とはほど遠い生涯だった。

その一貫した姿勢を
一度も会ったことがない者でも
先輩の姿や信徒の交わり、
生活のいろんな出来事を通して感じていく。

そんな心のつながりがあるから
信徒は師として尊敬してついていくのだ。

マインドコントロールと言えば
マインドコントロールなのかもしれない。

でも実際は純粋な「師弟愛」だと思う。
それだけリアルな
まるで家族のような濃い関係があるのだ。



だから、それから考えると・・・・
幸福の科学で語られるところの
「信仰は百パーセントを求める」という話は、
とても恐ろしい言葉のように感じる。

そう語るためには
どれだけの生活の基準を立てなければならないのだろうか
と恐ろしく思ってしまうのだ。

信仰とは、観念的なものではなく
悟った内容を言葉で語るだけのものではなく
具体的に生活の中で実践するものだと思う。

信仰は、模範的な生活、
豊かな人間関係として
表れるものではないだろうか。

それなくしての
百パーセントの信仰というのは、
盲信にもなりうるし、
ただの「思いこみの激しい人」を
たくさん作り出すだけかもしれない。

自らにも戒める。


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今日は、楽山日記さんの記事に応えて予定変更。

私の率直な気持ちを述べさせてもらう。

私は統一教会がどんなに評判が悪いか
よく知っている。

あらゆるスキャンダルも含めて。

言われなくても30年も信者をやっていれば
表も裏も知り尽くしていると思う。

だから、ブログ記事で色々と悪口を言われようが
気にならない。

すでに散々言われてきたことだから。

そしてどこまでが事実で、どこが誤解かもよくわかる。
当事者だから。

だから、自分自身のことに対して何か言われれば返答するが、
統一教会自体を悪く言われても、気にしないし弁明する気もない。

むしろ自分の関心ごとは
少し前に記事に書いたように
「どんな対応をするのが神様の願いなのだろうか?」
「豊かな心で対応するというのは、どのようなものだろうか?」
ということだ。

幸福の科学が始まった時のスローガン
「正しき心の探求」
「偉大なる常識人」
「家庭ユートピアから始まるユートピア世界建設」
「幸福を科学する」
「この世とあの世を貫く幸福」

私は今も、それらを熱烈に求めている。

人格を高めたいし、
神の心をもっと深くわかりたいし、
愛のある人間になりたい。

そして幸福な家庭を築きたい。
妻と終生良い関係でいたい。

本心に従って、
良心の呵責のない生き方をしたい。

簡単ではないが、死ぬまで努力だと思う。

綺麗事と言われるかもしれないが、綺麗事でも良いと思う。
それが自分の生き方だ。


幸福の科学からは良い刺激を受けた。
良きライバルだと思ってきた。

それらの本当の答えを幸福の科学に見つけたならば、
私は幸福の科学に宗旨替えしたかもしれない。

しかし20数年見てきて、それはなかった。

今もなお、私にとっての「幸福を科学した」答は
統一原理である。

それ以上の真理があれば、私はそこに行くだろう。

ただの批判ではなく、「それ以上の真理があれば」。


だから、私は昔も今もこれからも変わらず
幸福の科学流に言えば、
「正しき心の探求」
「偉大なる常識人」
「家庭ユートピアから始まるユートピア世界建設」
「幸福を科学する」
「この世とあの世を貫く幸福」

これらを求めて行くだろう。

幸福の科学の信者さんとも
お互いに切磋琢磨しながら、
本当はそんな話をしたいものだ。

人間として共通の目標に目を向けて、
善なる競争だと思う。


「あなたは大川隆法氏のことを裁いてるじゃないか?」という声がある。

たしかに裁きと取られるかもしれない。
しかし私は彼を全否定しているわけではない。

一人間として尊重して見ているし、
昔から見ていて良いところもあれば、
最近はおかしいと思うことも多々あり、
それを率直に書いているだけだ。

神とはとても思えないが、
敬意を表して呼び捨てにはせず
「氏」と呼んでいる。

私が決してアンチ一辺倒ではないのは
おわかりだと思う。

客観的な立場なので、シンパとアンチの中間かもしれない。

よそ様のことはとやかく言えないが、
ここ数年の大川隆法氏を見てると
「もっとしっかりしろ!」
とつい言いたくなるのだ。


信者さんから見ると失礼極まりないことだと思う・・・。

もしかして、自分は弱いものいじめしてるのかな?
という思いも湧いてくる。

しかしそれは、決して誰かの不幸を願う心からではなく
みんなが幸福になる道を探し求めたい心からである。

祈願がかなわなければ
「自分の信仰が足りないからだ」と自分を責めるような、
けなげな幸福の科学信者さんたちの永遠の魂に、
誰が責任を持つのか!?

そんなことを思うのだ。

幸福を求める純粋な信者さんたち、
幸せになってほしいと思う。

多くのアンチさんたちも
きっと似たような気持ちではないかと思う。



本当は秘めておきたかった本音を
今日は吐露してしまった。


※追記
ガンブロさんを改めて読み直してみて、
当方も相当の言葉足らずなところがあったことに気づいた。
誤解を生むような書き方をしたのは申し訳ない。
率直にお詫びする。

ガンブロさんのような、私の未熟さへの指摘は
大歓迎。ありがたい。

真意がうまく伝わっていないようなので
改めて書かせていただく。



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人間には、絶対的なものを求める本性がある。

時代が変わっても、
歴史が変わっても、
国が変わっても、
変わることのない
永遠の価値あるもの。

宗教というのは、
そのような絶対的なものを求める。

絶対的な存在である神を求める。

幸福の科学に「信仰は100%を要求する」
という言葉がある。

信仰とは、百パーセントの信仰にして、
九十九パーセントの信仰はありえないのだ。
九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。
信仰は、百パーセントを求める。
(仏陀再誕)


「信仰は百パーセントを求める」?
たしかにそうかもしれない。

絶対的な信仰、絶対的な愛、絶対的な従順。

ただし、それには大前提がある。

人間が信仰の対象とする神に
絶対的な存在であることを求めるのだ。

神ご自身が
絶対的に人間を愛する。
絶対的に人間を信じる。
ご自身の決心に絶対的に従われる神。
無限に与えて与えて忘れて、
また与える神。

永遠普遍の愛。
絶対的な真理。
絶対的な人格。

そのような絶対的な存在であることを
求める。

だからそこに人間は喜んで
信じていこう
愛していこうと思うのである。

愛されていることがわかるから、愛さずにいられない。
信じられていることがわかるから、信じずにおれない。
それが率直なところではないだろうか?

だからこそ、試練の時も、その時点ではわからなくても
何かきっと深い神のみこころがあるのだろう
と思って甘受し、感謝していくことができるのだ。



もし、信じる対象に対して
絶対的なもの、普遍的なものを感じることができなければ
100%信じるということは不可能だろう。


さらにもう一つ、
重要なことを付け加えねばならない。

それは「信仰に百パーセントを求める」とき
それを語る主体はどんな基準を立てないといけないか
ということだ。

信者に対して「百パーセント信じなさい」と言うならば
さらに主体たる教祖には
百パーセントの絶対的存在であることを求められるということだ。

なんと厳しい道であろうか?考えるほど恐ろしい話である。

それについては
次回「絶対的な基準を立てる大変さ」で書く。


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「私に騙されても、あきらめてください。もし私が嘘つきだったならば、
そのときには、「まな板の上の鯉だ」と思って、騙されてください。そして、
私と一緒に地獄で修行しましょう。」

「どうか、「大川隆法先生に騙されても構いません。地獄までついて
ゆきます」というぐらいの信仰心を持ってください。」


【救世の法】より


この文章からどんなことを連想するだろうか?
失礼ながら私が連想したことは・・・

「赤信号、みんなで渡ればこわくない」
「長いものにはまかれろ」
 無責任
 付和雷同
 責任転嫁
 悪党

それらの単語だ。

極端な例だが、たとえば銃乱射事件。
人生が嫌になったのなら
一人でひっそり死んでいけばいいものを
多くの無垢な人を巻き添えにして死んでいく
そのような傾向性がある。

これはまさに悪魔の業である。

自暴自棄。
地獄に道連れ。

一人で自滅ではなく、
まわりを巻き添えにして・・・。

核武装に走る北朝鮮にも
そうなりかねない傾向が見える。

「どうか、『大川隆法先生に騙されても構いません。
地獄までついてゆきます』というぐらいの信仰心を持ってください。」
という言葉は、どこからでてくるのだろう?

もしかして、
大川隆法氏自身が
自分はこのままでは地獄行きかな~
と感じているのか?

それとも身近な女性から
「もしかして私たちって地獄に行くんじゃ?」
と不安を打ち明けられたか?

それで
大勢の信者に向かって説法しているように見えて
実は身近な女性たちが
その説法の対象だったりして。

あくまでも私のかってな空想だが・・・。

それにしても、
「先生に騙されても構いません。
地獄までついてゆきます」
って、
まるでドロドロしたメロドラマのなかで
不倫中の男女が口にしそうな会話に聞こえてしまうのは、
私だけだろうか?



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