幸福の科学を統一教会の信者が見ると -16ページ目

幸福の科学を統一教会の信者が見ると

幸福の科学も統一教会も、同じカルトじゃないかって?まあそうかもしれないけど、幸福の科学を見てるといろんなことを考えさせられるんですよ。「真実は小説よりも奇なり」

旧約聖書には
イエス・キリストが王の王として天国をつくるという予言と、
人々に捨てられ十字架につくという両面の予言がある。


十字架に架けられることを暗示した予言の例。

イザヤ書 53章 
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

栄光の王となるという予言の例。

イザヤ書 11章 
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

旧約聖書は、預言者が神から啓示を受けて語った言葉の集積である。

なぜ神の予言には両面の予言があるのか?
神は未来を予測することができないのだろうか?

神の計画が成就するか否か、そこには神の責任と人間の責任があることを知らねばならない。

イエス・キリストを救世主として送ることは神の責任であるが、そのイエスが受け入れられて「王の王」となるか、世に捨てられ十字架にかかるかは、神も干渉できない人間自身の責任だったのだ。

もちろん神は、人類がイエスを救世主として受け入れ、栄光の王として
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる」ことを願われたはずである。

人類はイエスを信じて、イエスと共に自由、平和、幸福な世界をつくっていくのか、それともイエスを信じることができずに、憎しみと闘争に満ちた暗黒の歴史を続けていくのか?

しかし神の願いは果たされなかった。十字架にかかるという予言が成就された。

イザヤ書53章より
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 」

映画「パッション」では、イエス・キリストが十字架へ向かう最後の一日を聖書に忠実に克明に描かれた。ラストシーンは神の涙であった・・・。

イエス・キリストの救世主たるすさまじい生き方。
それを見つめる親なる神の、悲しい思いはいかばかりか?

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

ところで、自称救世主の大川隆法氏の生き様はいかがであろうか?
あまりにもレベルが違いすぎるではないか。

たとえば評論家とか作家とか、あるいはいち真理の探究団体の主宰であれば何にも言わないけれど、自分を神様に祭り上げて「我は地球の至高神なり。救世主なり。我を信ぜよ、我を疑い不信する者は堕地獄だ」などと言うのはとんでもない過ちでは無かろうか?


この記事がよかったら1クリック!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村
$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

イエス・キリストが十字架に架かる前の晩、つまり最後の晩餐の場面において、イエスは急に弟子たちの足を洗い始める。

食事の前に足を洗うのは、当時奴隷の役割であった。驚く弟子たちはためらって断ろうとする。

(ヨハネによる福音書)
こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

イエスは明日十字架につくという前の晩に、自らの姿でもって、救世主として、そして人としての生き様を示されたのだ。

「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」

これにならって、キリスト教では犠牲と奉仕を旨とする。


統一教会では、「父母の心情、僕の体」と学んだ。

親は子どものために喜んで犠牲になろうとする心を持ち、行動としては僕のように奉仕する姿として表れる。

誰のためにもそういう姿勢で接しなさいという教えである。
親なる神様がそういう方であり、イエス様もそのような方であった。

文鮮明師も米国で1年6ヶ月の刑を受けた時、刑務所での模範的な生活態度で1年1ヶ月に減刑された。

出所する頃には、囚人たちから「ファーザー」と呼ばれるまでになったという逸話がある。

「父母の心情、僕の体」とは統一教会の伝統であり、目指すべき人格の目標である。

弟子の足を洗ったイエス・キリスト。こんなエピソードが、大川隆法氏にどれほどあるだろうか?

口を開けば、そこにいない人への悪口三昧とか、
目の前で、テーブルの上に足を置きふんぞり返っていて驚いた・・・という元秘書長の証言は読んだことがあるが。

世界宗教をめざす幸福の科学。
それは結構なことだが、キリスト教会以上の犠牲と奉仕の実践がなければ、世界に出ても圧倒されてしまうのは明らかである。

ましてや、「私は9次元だ」とか「如来だ」「菩薩だ」とか言って威張り散らして、上から目線で説教垂れるなんて、もってのほかだ。


この記事がよかったら1クリック!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村
恐怖心から退会できずに苦しんでいる信者さんが多いと聞く。

このブログでも以前に「誤った霊界観で苦しんでいる幸福の科学信者」として書いたことがあった。


「仏説降魔経」により、幸福の科学の教えや活動、さらには教祖に疑問をはさむことが「阿鼻叫喚 堕地獄への道 避けがたし」と教えられていることが恐怖の大きな原因なのだ。

これについて、「みろたん」さんが「幸福の科学をやめるまでの葛藤」として
ブログに率直な退会プロセスを書いてくださっている。

http://s.ameblo.jp/purasenta123/entry-11461632509.html

とても参考になると思う。



この記事がよかったら1クリック!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

マタイによる福音書の11章。あまりにも有名なイエス・キリストの言葉。
キリスト教会の入り口に、この聖句が掲げられているのを見たことがある人は多いと思う。

ふとしたことでこの聖句が目に止まり、涙がでそうになった。

重荷とは何であろうか?
仏教的に言えば「四苦八苦」というような、人生の思うようにならないことがあるだろう。

生・老・病・死の四つの思うがままにならないことに加え、
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
(Wikipedia)

これらの苦しみ。
しかしそれ以上に人生の重荷になるものがある。
それは、自分自身の良心の呵責である。

忘れたようでも忘れらない。いっときごまかせたとしても、ごまかしきることはできない。
人が気づいていなくても、自分自身はよく知っている。
罪にまみれていたとしても、本当の自分はそうではない!という魂の叫びがある。
誰を責めるのでもない。そのことによって責められるのは自分自身だからだ。

この良心の呵責を、誰が救ってくれるのだろうか?

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると

それは救世主キリストである。

罪なき方として生まれ、神から許す権限を授かった方である。
罪に勝利された方である。邪心のない方である。
その方の許しによって、初めて自分自身を許すことができる。
はじめて良心の呵責から解放される。

それは自らに新しい生命を与えられたのと同じである。

そして心の底から、二度と過ちは犯すまい、
良心の呵責に苦しむような生き方はするまい、
と自ずと誓うようになる。

良心にしたがって、
影のない、隠し事のない人生を堂々と生きることが出来れば
それが最高に幸せな人生であろう。

恐怖も不安もない。平安と喜びと希望がある人生だ。
まさに「魂に休みが与えられる」人生だ。


幸福の科学は仏教なので、このようなキリスト教的な世界はわかりづらいかもしれないが・・・・。

そんな考え方もあるのかと、少しでも参考になれば幸いだ。


この記事がよかったら1クリック!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村
「大川隆法氏が洗礼ヨハネだ」というのは
生まれ変わりという意味ではない、ということを前回書いた。

仏教では輪廻転生を説き、それを信じている人も多い。
ことさらそれを否定するつもりはない。

しかし、何かにつけて「誰々の前世は◯◯」と公言し強調する幸福の科学には
輪廻転生説の悪い面が如実にでている。

再婚した奥さんの紫央さんは「坂本龍馬の生まれ変わりだ」と言ったり、
元妻のきょう子さんはアフロディーテ、文殊菩薩と持ち上げていたのが、
やっぱりそうじゃなかったと、
いつの間にかイエスを裏切ったユダとなったり、
もはや支離滅裂で、これによって教祖に不信感を持つ人も少なくない。

最近では、1990年代に「鳩山邦夫氏が豊臣秀吉だ」と言っていたのを覆したり。


「大川紫央さんが坂本龍馬の生まれ変わり」という点ではどうだろう?
本人は対談のなかで「そういわれてみれば確かにそのような気もする」みたいなことをおっしゃってた。

生まれ変わりとは何か?
もし自分に坂本龍馬のような使命があると思えば、坂本龍馬が霊界から力を与え、インスピレーションを送り、何かと助けてくれることは十分あるだろう。
それが一見生まれ変わりのように見えてしまうのだ。

しかし「自分は坂本龍馬のような使命があるのでは?」と感じて行動する人は一人だけでなく、たくさんいるはず。

龍馬に心酔して武田鉄矢はグループ名に海援隊とつけたくらいだし、ソフトバンクのの孫正義社長は大の龍馬ファンだ。「維新」という言葉を好んで使う政治家たちもそうじゃないかな?

熱心に龍馬を思えば龍馬が霊的に尋ねてくることはあると思う。
彼らが各分野で活躍することを、龍馬が霊界から応援しているかもしれない。

「生まれ変わり」と断定すれば、それはその人一人に限定されてしまう。

ということで、結論。
生まれ変わりはない。
前世はない。
あるのは霊界からの協助
その対象は一人に限らない。

↓ ↓ 「わしは熱心な者に応援はしちょるが、誰にも生まれかわっとらんぜよ」とでも言っていそう。
「俺は俺、あんたはあんた、しっかりやれ!」と。
$幸福の科学を統一教会の信者が見ると


この記事がよかったら1クリック!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村