イエス・キリストが王の王として天国をつくるという予言と、
人々に捨てられ十字架につくという両面の予言がある。
十字架に架けられることを暗示した予言の例。
イザヤ書 53章
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
栄光の王となるという予言の例。
イザヤ書 11章
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
旧約聖書は、預言者が神から啓示を受けて語った言葉の集積である。
なぜ神の予言には両面の予言があるのか?
神は未来を予測することができないのだろうか?
神の計画が成就するか否か、そこには神の責任と人間の責任があることを知らねばならない。
イエス・キリストを救世主として送ることは神の責任であるが、そのイエスが受け入れられて「王の王」となるか、世に捨てられ十字架にかかるかは、神も干渉できない人間自身の責任だったのだ。
もちろん神は、人類がイエスを救世主として受け入れ、栄光の王として
「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる」ことを願われたはずである。
人類はイエスを信じて、イエスと共に自由、平和、幸福な世界をつくっていくのか、それともイエスを信じることができずに、憎しみと闘争に満ちた暗黒の歴史を続けていくのか?
しかし神の願いは果たされなかった。十字架にかかるという予言が成就された。
イザヤ書53章より
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 」
映画「パッション」では、イエス・キリストが十字架へ向かう最後の一日を聖書に忠実に克明に描かれた。ラストシーンは神の涙であった・・・。
イエス・キリストの救世主たるすさまじい生き方。
それを見つめる親なる神の、悲しい思いはいかばかりか?

ところで、自称救世主の大川隆法氏の生き様はいかがであろうか?
あまりにもレベルが違いすぎるではないか。
たとえば評論家とか作家とか、あるいはいち真理の探究団体の主宰であれば何にも言わないけれど、自分を神様に祭り上げて「我は地球の至高神なり。救世主なり。我を信ぜよ、我を疑い不信する者は堕地獄だ」などと言うのはとんでもない過ちでは無かろうか?
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