幸福の科学を統一教会の信者が見ると -15ページ目

幸福の科学を統一教会の信者が見ると

幸福の科学も統一教会も、同じカルトじゃないかって?まあそうかもしれないけど、幸福の科学を見てるといろんなことを考えさせられるんですよ。「真実は小説よりも奇なり」

初めて幸福の科学の映画を見たのは
「ヘルメス 愛は風の如く」。
あれは良くできていた。
チケットをもらって見にいったけど
もう一度見たくて2回目は自分でお金を払って行った。

描かれるエーゲ海の美しさと、水澤有一さんの音楽がよくマッチしていた。

それから今思うのは、ヘルメスはなかなか戦略家だなと、そのあたりも面白く見た。



そして最後はやはり、奇跡が起きて、めでたしめでたしなんだな。

霊界で大魔神となったミノス王と対決。
ヘルメスは全然歯が立たず絶体絶命のピンチで、オフェアリス神の言葉を思い出す。
「お前は私で、私はお前だ」
「そうか、私は神と一体ならば、何を恐れることがあろうか?」とヘルメスが奮起した瞬間、天上界から天使の大軍勢が援護の攻勢をかけてくる。
photo:01


そして大魔神をやっつけて終わり。

勧善懲悪で、スッキリ。実に楽しませてくれる映画だった。

当時感じた素朴な疑問。
霊界では(もう死んだ身なので)それ以上の死はないのだが、あれじゃミノス王は永遠に救われないのでは?ということ。

それから今思うと、やっぱり幸福の科学の人たちって
「最後は奇跡が起きてどんでん返しが起こる」というのを期待してるんだろうなということだ。

ピンチになると「エルカンターレ・ファイト!」とか・・・。


先日の記事「奇蹟を期待する幸福の科学」もどうぞ。



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1980年代は幸福の科学を見ていて
これはすごいライバルが出てきたな~と思ってた。

霊界の細かい描写とか、本を読んでいて面白かったし、「100%霊界はある!」と言っているのを聞いて、「そうだ、そうだ」と心強くも感じていた。

いまみたいなスピリチュアルのブームもなく、霊界の話もしにくい時代だった。例えばテレビで霊界ものが取り上げられるとしても、キワモノ的なおどろおどろしい感じだった。

それから、大川隆法氏が東大卒、元商社マンで、ビジネスの話も霊的な視点を踏まえてバンバン語ってるというのも魅力だったな。

1990年ごろだろうか、幸福の科学絶頂のころ、家の法事に菩提寺のお坊さんが来られた。
「最近は変な宗教が流行ってますけどね。お金儲け宗教とか」
幸福の科学のことを言ってるってピンときた。
法事でお酒飲んで、そのままバイクに乗って帰るお坊さんを見て、「何だかなあ・・・、幸福の科学への負け惜しみ?」なんてその時は思ってた。

あれから20年以上たったいま、「お金儲け宗教ね」と見抜いていたあのお坊さん、すごいと思う(笑)


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$幸福の科学を統一教会の信者が見ると-ゲツセマネの祈り

ゲツセマネの祈りは、救世主イエス・キリストが、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園で、十字架刑に処せられる前夜祈った祈りである。4福音書すべてに記されている。「オリーブ山の祈り」とも呼ばれる。(Wikipediaより)

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」

これを、さすがのイエス・キリストも死を恐れたのだと、
人間的な弱さとして解釈する人も多い。

これは、「なぜ予言には両面があるのか」で書いたように
神の願いが成就するかしないかは
神の力だけではなされない、
イエスの力だけでもなされない、
当時の人々が、イエスを待ち望んだ救世主として受け入れてこそ成就する

この原理原則を知ればはっきりとわかる。

「この杯」とは十字架のことである。

「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」

イエスは死が恐ろしかったのか?
十字架にかかるのが恐ろしかったのか?

違う。

イエスは十字架が恐ろしかったのではなく
自らの死によって神の願いが果たされないことを恐れたのだ。

救世主を送ることによって果たそうとされた神の理想実現。
地上のユートピア建設の理想、
それが当時の人々の不信によってくじかれてしまう。

ひとり子の無残な死を目の当たりにするならば、
親である神の悲しみ、絶望はいかほどか?
それがイエスにはあまりにもよく分かるので
なんとか杯を過ぎ去さらせ、生きて神の願いを果たす道はないものか?
と身悶えしながら祈られたのである。

聖書には「額から血の汗が流れるほど祈られた」とある。

弟子たちはイエスの深刻さも知らず、疲れのままに眠っていた。
生命をかけて、死の道をもイエスと共に行こう
という弟子はいなかったのである。

救世主を通してなそうとされた神の計画は
これから何千年延長してしまうだろう?

自分の後を従ってくる信徒たちは
どれほど殉教の血を流さなければならないだろうか?

自分を否定したイスラエルの民は
今後どのような運命をたどるのだろう?

これからも争いの絶えない罪悪の歴史が
どれほど繰り返されるのだろう?

十字架を目前にしたイエス・キリストには
以後2000年間に繰り広げられる悲惨な歴史が
ありありと見えていたはずである。

きっとそのような、
親なる神を愛し、人類を愛するがゆえの、
悲壮な祈りだったのではないか?

ゲッセマネの祈りは、
個人的な悲しみや恐怖ではない、
どこまでも全てに責任をもつ救世主であるゆえの祈りだったのだ。

しかし、わたしの思いのままにではなく、
みこころのままになさって下さい
」という祈りの言葉には、
最善の限りを尽くすが、その結果は神に委ね従うという
最高の信仰の境地が表れている。

私たちも絶体絶命の境地にたったとき
こう祈ってみれば、イエスの心情の一端に触れることができるだろう。


ところで1996年ごろだったか、
幸福の科学の支部で聞いた大川隆法氏の説法、
「私はすでに仏陀、そしてイエス・キリストの悟りを越ええたと自負しております」。

バカも休み休みに言え!(怒)


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イエス・キリストは「汝の敵を愛せよ」と語られた。

(マタイによる福音書5章)
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

「自分に良くしてくれる者に良くしてあげたとしても、それが何の徳になるか。それは信仰を持たない者でもしていることではないか。むしろ敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というわけだ。

この言葉こそ、究極の「言うは易く行うは難し」言葉である。

頭では「そうなのか、許さなければならないのか、愛さなければならないのか」
と思っても、感情が許さないのである。

やられたらやり返さなくてはすまない、
復讐心」というものがある。

怒り、憎しみ、復讐心を、どのようにして、愛、許しに変えることができるのか?


幸福の科学にも「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という本がある。
愛の発展段階説だ。


これが一番実践できていないのが大川隆法氏本人であることは、誰の目にも明らかである。

(↓↓↓)愛せない者への憎しみと憎悪に満ちた著作の数々。とても自称救世主、地球至高神とは思えない。わかりやすくてイイネ!

    


「敵を愛する、許す」頭でわかっても、心がついていかない、そうできない自分というものを見つめたとき
「天の父が完全であるように完全である」神の子とはほど遠い自分自身を発見する。

そこに罪を発見するし、救世主による救いが必要な自分自身を発見するのだ。

神無くしては絶対に敵をも愛する心はでてこない。神の力、神の愛を求めざるを得ない人間の限界線である。


こんな実話がある。
1999年4月20日、コロラド州コロンバイン高校で2人の生徒が銃と手製爆弾を校内に持ちこみ、教諭1人と12人の生徒を射殺、28名を負傷させ、犯人はその場で自殺するという大事件が発生した。

その事件で娘を亡くしたデラン・スコット氏のインタビュー。

娘レイチャルの死後、彼女の「愛するとは」という愛の定義を書いたレポート用紙をべットの間に見つけた。死ぬ1ヶ月前に書いたものだった。

その「愛する」行為の最初が「許すこと」とだった。彼女は、イエスを心から慕っていたクリスチャンだったので「許すこと」は、キリスト教の教えによるものだ。

父親スコット氏は、自分の力ではとうてい犯人たちや事件を許すことはできなかった。特にレイチャルの弟は、机の下で事件を目撃したため、悪夢とトラウマの中で「許す」ことがとても困難だった。時間もかかった。

しかしスコット氏は娘の意思をついで「ゆるす」選択をした。「娘は、自分たちが怨みにより、人生を破壊してほしくないだろう」と感じたのだ。

その過程で、許せない自分にぶちあたり、弱さを自覚した。そのことにより「ゆるす力」が次第に神、キリストにより、家族全員にあたえられていったという証だ。

何度も何度も「ゆるそう」と身もだえしながら、そこに神の臨在を感ずるようになった。そして「ゆるし」が自分のなかで「揺るがないもの」になっていった。


スコット氏は2002年8月、下院司法委員会の公聴会に招かれスピーチをするようになる。誰もが「彼はきっと銃の存在に憎しみをぶつけ、NRA(全米ライフル協会)を非難するだろう」と思っていたが、彼のスピーチは、まったくおおよその予想を裏切るものだった。

「人類最初の暴力はカインがアべルを殺したことに始まります。悪いのは、カインが使った『棍棒』ではありません。カインが犯人であり、彼の心の中にその罪がありました」

「わが国に、いったい何が起きたというのですか。我々は神を愛することを拒否し、憎しみと暴力の扉を開けてしまったのです。そしてコロンバインの悲劇が起こったのです。政治家はすぐにNRAを攻撃します。また個人の自由を制限する法律を作ろうとします。我々にそんな法律は必要ありません」

「悪は私たちの心の中に存在します。政治的なポーズや、自由を制限する法律では、このような悲劇をくいとめることは出来ません。私の息子クレイグは学校の図書館でそのテーブルの下に横たわっていました。彼の二人の友人が彼の目の前で殺害された時に、彼は学校で祈ることを躊躇しませんでした。」

「コロンバイン高校で、学生たちが捧げた多くの祈りを、無駄にさせないでください。神から与えられた神と交流するする権利を否定するような、神聖なるものを軽視するような法律を持ったままで、新たな千年紀に突入しないでください。NRAを攻撃している人たちよ、 私はあなたがたに、心から挑戦をします。
最初に石を人びとに投げつける前に、まず自分の心を調べてみてください!そうできれば、私の娘の死は無駄にはならないはないでしょう! 」

イエス・キリストの敵を愛するという伝統は、今も確かに息づいている。

スコット氏のインタビュー(英語です)




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どのようにして理想社会が実現するのか

それがとてもあいまいというか、奇蹟を期待している幸福の科学。


たとえば マンガ「希望の革命」。
読んだのはもう10年以上も前。

最後のどんでん返しのシーン。

総理大臣がくるっと回れ右をしたら
正心宝のペンダントを首にかけていた。
「私も正会員なんですよ」と。

それで一発逆転
幸福の科学の主張が全面的に認められた、
記憶は薄れたが、たしかそんな設定だった。

総理大臣が正会員
それで一件落着。

あんたら、そんな甘いこと期待してるんか~!
その途中のプロセス、全部省略してるじゃないか~!
と感じたことを覚えてる。

水戸黄門じゃあるまいし。



どの映画もそう。



映画「仏陀再誕」も空野太陽が説法するだけで
大衆が「ははーっ」と手を合わせて拝む場面が出てきた。

あり得ない。

口先だけでは絶対に人の心はつかめない!

全然「仏陀再誕の証明になっていない。

近年の幸福の科学の動向を見ていると
「宇宙人がいる」「宇宙人が来る」
「中国が攻めてくる」とやたら強調している。

「宇宙人来てくれ~。
中国よもっと攻めてきてくれ~
そうすれば私たちの主張が正しかったと証明できるから」。


そういう叫びが聞こえてくるようだ。

「それによって仏陀の証明ができるから」と。

そんなんでは仏陀の証明になりません!!

「みんないっぺんに仏陀を信じるようになるから」

なりません!!


イエス・キリストの伝道を思い出してみれば・・・
弟子の一人一人を分け隔てのない愛で愛して、
その愛に感動して弟子達はイエスについて行った。

人の心は、愛されることによって
感動してその人に屈服する。
喜んでついて行こうとする。

イエスは「汝の敵を愛せよ」とまで言った。

イエスは、自らに槍をさし殺そうとするローマの兵士さえも許した。
「主よ、彼らを許し給え。彼らは何をしているのかわからないのです」と。

敵をも愛する愛によってはじめて、怨みの心も解ける。
それなくして、憎み合う者たちがどのように和解できるというのか?

しかし、「敵を愛する」
人間にとってそれほど難しいことはないのだ。

幸福の科学のいうユートピア建設、世界宗教への道、
それはきれい事ではない。悲惨な道だ。
血と汗と涙の、もっともっと泥臭い道だ。


敵を愛するということ」の記事もどうぞ。



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