幸福の科学を統一教会の信者が見ると -12ページ目

幸福の科学を統一教会の信者が見ると

幸福の科学も統一教会も、同じカルトじゃないかって?まあそうかもしれないけど、幸福の科学を見てるといろんなことを考えさせられるんですよ。「真実は小説よりも奇なり」

今回の記事は、「大川隆法の予言はなぜ外れるのか?」の続きである。


大川隆法氏ときょう子夫人との離婚は「神の予定」なのか?

きょう子夫人は文殊菩薩だ、アフロディーテだと言っていたのが
「実はユダだった」という設定なので、
「いずれ離婚するようになる運命だったのだ。
主は何の過ちも犯していない」

というのが幸福の科学の見解だろう。

さらに再婚した近藤志央さんは
始原の神アルファとともに人類創世に携わったガイアの転生なのだという。

仏陀の離婚、そして即再婚も天上界の予定通り
ということだ。


しかし、一方では、「神の予定ではなかった」
本当は夫婦としてまっとうすべきところを
大川隆法氏は失敗してしまっのだ
、という解釈もできる。

そして私は後者をとる。


歴史にIF(もし・・・だったら)はないというが、

大川隆法氏が

もし、夫婦の不和を収めることができていたら。

もし、離婚しなかったら。

もし、離婚が決定的になったとしても、きょう子夫人に対して信者をあげて「悪妻封印祈願」をしたり、「イスカリオテのユダ」などと言っておとしめていなかったら。

もし、種村修氏が決死の覚悟で手紙を送ってきたとき、それを謙虚に受け止めていたら。

いまほど、多量の退会者やアンチを生むことはなかっただろう。
また、幸福の科学の未来は、まったく違っていただろう。


きょう子夫人の悪妻ぶり、悪母ぶりは
ファルコン氏の告発に、克明に記されていたし、
それが正しかったことは、のちに大川隆法氏自身が著書で証明した。

  

離婚騒動の時、5人の子どもたちは全員、
父親のほうについたという。

きょう子夫人は、家事も子育てらしきことも、何にもやらなかったらしい。

結婚生活は、ほとんど尻にしかれる状態だったのだろう。
大川隆法氏にとって、自分の手に負えない妻、
気の強い妻は年月とともにだんだんと疎ましくなっていったと思える。

癒されたい思いや、夫人への反発心で
身近な女性たちに心をひかれていったとしても、
わからなくもない。

しかし、夫として強い夫人をみごとにおさめて
夫婦瑞祥を貫いていたならばどうなっていただろうか?

今ごろは、「夫婦の法」「家庭円満の法」を堂々と説くことができたのではないか?

それこそが天上界の本来の予定だったのではないか?

「これが家庭ユートピアの見本だ。
私たちも順風満帆だったわけではない。
じつはとてもとても大変だった。
何度も離婚の危機があった。
そんな私たちでも危機を乗り越え
こうして夫婦で添い遂げているのだから
あなたがたも私に見習って、幸せな家庭を築きなさい」


このように宣言した時、
「仏陀再誕」の書籍における家庭ユートピアの記述も
さらに重みと説得力を増すのだ。

(「仏陀再誕」より)
「およそ信仰においては、まずよき土壌が必要である。
よき土壌とは、調和された家庭のことである。
夫婦ともに信仰心に満ち、調和に満ちていることが大事だ。

このようにユートピアの建設は、仏国土の建設は、
まず家庭から始めねばならない。
家庭に始まった仏国土の建設が、いちばん大事である。


あなたがたも、私の次なる言葉をよくよく聞きとってほしい。
まず、家庭をおろそかにしてはならない。
家庭をおろそかにして仏国土建設ということはありえないということを、
肝に命じなさい。

自らの家庭をおろそかにして、
たとえ外においていかなる慈善事業をしようとも、
たとえ外においていかなる難民救済をしようとも、
たとえ外においていかなる献金をし、いかなる信仰深い行為をしたとしても、
もし、家庭というものをおろそかにしたならば、
そのような信仰は本物ではない。

まず、自らの家庭をユートピアにせずして、
全世界をユートピアにすることはできない。




すばらしい、そのとおりである!

これがそもそもの神の予定だったのではないかと思えてならない。

しかし、大川隆法氏は、天上界の予定であった家庭ユートピアつくりに失敗したのだ。


神の願いは人間の限界を越えているときもある。

神の予定に対して、人間の行動が
それにかなわないときもある。

どんなに頑張っても、届かない時もある。

しかし、失敗したままの神ではない。

そこから直ちにまた、新たな道を準備されるのが神なのだ。

何度も何度もチャンスをくれる。

だから、大川隆法氏は
何度も何度もそのチャンスを逃したといえる。



神は何度も何度も再起のチャンスを与えてくれた。
決して見捨ててはいなかった。

良心の声は叫んでいたはずだし、
心ある弟子たちが進言してくれていた。

しかし、それを否定し、成せなかったのは
誰の責任でもない、大川隆法氏の責任である。


天上界の予定は、あくまでも、使命を果たしてほしい、
善なる方向へ信者を導いてほしい・・・ということではなかったか?

しかしことごとく、真実を隠し、少しでも批判するものがあると
信者たちの前で徹底的に罵倒した。

天上界の示す方向と逆行したのである。



神の願いと、それに対する人間の責任・・・。
私たちは今一度、深く考える必要があると思う。。

一人ひとりにも、神の願いがあるし、また責任がある。

まずは、神の願い(つまり自分の使命)を正しく知ることから始まるだろう。



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ハリボテの科学」そして「砂上の楼閣」という記事で、
見かけは立派そうなのに、よく見ると中身が無いという幸福の科学の傾向性を書いた。

「縁起の理法」というのが、幸福の科学の一番基本的な教えだったと記憶しているが、
はたして本当にそれがわかっているのだろうか?という疑問が出てくる。

理屈としてではなく、行動原理として。

縁起の理法。
善因善果、悪因悪果。
まかれた種の良し悪しは、実った果実でわかる。
時空を貫いている原因と結果の法則。
そんなふうにも表現する。

あまりにもわかりきったことなのに、
どうして見せかけの実績をつくろうとするのだろう?

架空のベストセラー。
架空の映画興行成績ランキング。
架空の信者名簿。

幸福の科学の職員、信者は
本当に神を信じているんだろうか?
本当に霊界を信じているんだろうか?
本当に縁起の理法を信じているんだろうか?
とさえ思ってしまう。

結果を焦るあまりに、
嘘であっても、見せかけであっても
ベストセラーとか、書籍の発刊数とか、
日本のあちこちに建てられた箱モノ、
それでもって
「大川隆法総裁はすごい。救世主だ」と示すことができると
考えているんだろうか?


それとも、もしかして、行動の原理は
縁起の理法ではなく、
いかに教祖に満足してもらえるか、ご機嫌をとることができるか
それが基準になっているのか?

結論として考えられるのは、因果の理法が
理屈として観念的にそうなんだとわかっても、
実際の生活には全然展開できていないんだな、ということだ。


本当に縁起の理法を信じているのであれば
他人から認められようと認められまいと
見せかけの実績をつくろうとはせずに
黙々と努力を積み重ねるだろう。

その生活の積み重ねが伝統となり
文化となっていくのだ。

縁起の理法からすれば、
いつか、メッキははがれる。
隠された嘘は明るみになり
隠された真実も明らかになる。



洋の東西を問わず、
文化や歴史の背景にあるのは宗教である。

西洋の歴史には、キリスト教が
東洋の歴史には仏教、儒教が多大な影響を与えてきた。

教祖の説いた教えが、教義となり
思想となり、行動原理となる。

それが実生活に展開され、
生活が文化になり、
文化が伝統になり、
伝統が歴史になる。

幸福の科学は、
どんな生活態度で、どんな文化を作り
どんな伝統を立て
どんな歴史をつくろうとしているのだろう?


※この記事で最初は「因果の理法」と表現していましたが
幸福の科学では正確には「縁起の理法」と言うようです。
記憶違いでした。訂正しました。


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見かけは立派そうなのに、よく見ると中身が無いという
幸福の科学の傾向性を、先日つい「ハリボテの科学」と表現してしまったが、考えれば考えるほどその通りだなと思ってしまう。

たとえば、
★選挙の得票数が40万しかないのに、信者は1000万人いるとか。
(教祖みずから幸福実現党をつくって政治に進出しているのに、そこに投票しないレベルの人を、「信者」とよぶことができるのだろうか?選挙では信者以外の人も投票することを考えると、実質の信者数は得票数の何分の一かだ。)

★1年に100冊本を出してギネス更新と言ってるけど、一つ一つの本の中身はスカスカで内容がない。


アンチブログを見ると、もっとすごい内情暴露の山で驚く。

★20年連続ベストセラーと言いながら、支部や信者の家には本の入った段ボール箱が山積み。

★映画館に一人が10回20回と入場する人を「ぐるぐる菩薩」と称してほめたたえる。それで興行収入○億円とか、ランキング◯位とか発表される。(私も映画は何度か行ったが、いつもガラガラだった。というか、入り口で信者さん風の人に「この人誰?」みたいな目でにらまれて怖かった。)

★新聞に大々的に広告を打つのは、まだ財務は大丈夫なんだと見せるためとか。

一事が万事、こんな、見せかけをとりつくろうような話ばかり。
こういうのって何て表現するんだろう?
「自作自演?」「自己満足?」

時間がかかっても、着実に基盤をつくらなければ、
ハリボテは、いつかばれる。
というか、もうとっくにばれている。

風船をふくらますように、中身が無いのに大きく大きく見せようとしても
そこになんの意味があるのか?

これを「砂上の楼閣」というんだよな。

有名なイエス・キリストの言葉がある。

(マタイによる福音書 第7章)
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。



※今日の記事は、先日の「ハリボテの科学」の続きでした。

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信仰の道に試練はつきものだ。

ちょっとの試練、自分が否定されることで、ジタバタする人がいる。

少し悪口を言われただけで逆上してキレる人もいる。

マスコミにほんのすこし批判されただけで大騒ぎする教祖がいて、大騒ぎする団体がある。
それは自らの器の小ささ、信仰の幼さを証明している以外の何物でもない。

信仰を持たない人と、信仰を持つ人の違いは
このようなときにどのような態度をとるかに表れるのではないか?

救世主イエス・キリストの歩みを振り返ると、3段階の試練があった。

外的試練、内的試練、そして真の試練だ。

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(1)まず、外的な試練。
これは目に見えるカタチでの試練である。宗教指導者や国など、既成の勢力からの大迫害である。
イエスは世を惑わしたという罪で、十字架という極刑に科せられた。

外的な試練はひどかったが、イエスの心は穏やかだった。イエスと共にする弟子たちがいたからだ。弟子たちの存在がどれほど心強かっただろう。

(2)次に内的な試練である。それは身近な者、弟子たちや家族の不信であり、裏切りである。目に見える形の外からの迫害よりも、精神的にはもっとダメージは大きい。「命をかけて運命を共にする」と誓った弟子たちが、自分の身が危うくなったとたん「私はあの人を知らない」と言って否定し逃げ出した。イエスの心はどれほど痛んだことだろう。

弟子たちが裏切り去っていった時、イエスの心の支えはただひとつ、すべてをご存知の父なる神であった。

(3)そして最後の試練がある。十字架の苦痛の絶頂で、それまでイエスと共におられた神との交流が切れる。神の姿が見えなくなる。「我が神よ、我が神よ。我を見捨てたもうか?」とイエスは思わず叫んだ。

最後の真の試練は、生涯共にあってくださり、それまで一問一答していた神から「見捨てられる」という試練だったのだ。

祈っても通じない。求めても答えがない。

愛するひとり子に対する、人間のあまりにもむごい仕打ちに、神は思わず目を背けられたのか?

しかしここでイエスは気をとりなして祈る。「すべてをあなたの御手にゆだねます」
神から見捨てられても、最期は感謝で越えていったイエス。
助けたくても助けることのできない悲しい神の事情、心情をありありと察していたのかもしれない。

最期は真の試練を越えて、真の神の子であることを証明した。


使命が大きければ大きいほど、また受ける試練も大きい。
凡人には計り知れない境地だが、
程度の差はあれ、また宗教は違っても、
信仰の道を行こうとしたときに我々も、(外)→(内)→(真)と、同じような試練を通過するのではないか?


果たして自分は、どのくらいの試練まで越えることができるだろうか?

ささいな事で心が揺れたり、怒ったり、悪口を言う相手を非難するのではなく、
真の信仰者らしく、
でんと構えて不動の境地でいられるそんな人物を目指したいものだ。

人の悪口なんて、まだまだ外的な試練にすぎないのだから。


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大川隆法氏や幸福の科学に対する批判の中で一番多いのが、
言行不一致であろう。

言うことは立派でも、行いは正反対とか、
教えに対しての実践が伴っていないとか。


しかし、実際のところ言行一致、これが一番難しい。

言行一致の人を、人格者という。
イエス・キリストは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語られ、その通り自らの命を差し出して実践された。

理想と現実、
自分のなかの本心(善の心)と邪心(悪の心)、
そのはざまで葛藤する。

頭ではわかるのだが、心がついていかない。
心で思い、言葉にするのだけれども、行動がついていかない。

だからこそ、宗教の歴史の中で、
より本心にしたがい善に生きようと、信仰者は血の滲むような努力をしてきたのだ。

修行をしたり、瞑想をしたり、真理を探求したり。


現在は米国で統一教会の世界会長として活動されている文鮮明師の7男、文亨進会長が、韓国テレビのインタビューに応えられたときの話が心に残っている。

インタビュアーから、「統一教というのは、朝鮮半島の南北を統一する」という意味ですか?と尋ねられた。(「統一教」というのは韓国での呼ばれ方)

会長の答えは、
「南北統一という意味ではありません。
統一教のいう『統一』というのは、
まず自分の心と体を一つにする。
そのような夫と妻が一つになる。
そして人間と自然が一つになる。
これが統一教の目指す世界です。」

という答であった。

この3つが人生の目的、目標であり、
これを実践することで成されるのが家庭ユートピアであり、地上のユートピアなのだ。

まずは、ここから始まる。
私も日々、格闘中(修行中)である。

イエス・キリストのように、これを率先して示してくださる方がまさに救世主であろう。

 
 ↓ ↓ メディアの取材に積極的に応じて来られた文亨進世界会長
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ダライ・ラマとの対話
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