こんにちは、うるまです。

 

昨日9月14日、プロ野球の阪神タイガースがリーグ優勝しましたね。おめでとうございます!地元も大盛り上がりです...!

前回の記事では、阪神タイガースがきっかけで、私が野球を始めたお話をしています。↓↓↓

 

 

 

 

さて、今回は幼少期の習い事について、お話しします。

小学校に入るまでの習い事は、「ピアノ教室」でした。

 

母が子供の頃にピアノを習っており、それと同様に姉と私もピアノ教室に通っていました。野球に夢中であった私がピアノを始めた理由は、主に2つです。

 

1つ目は、姉がしていたから。他の人が持っているものやしていることを、「自分も手に入れたい/したい」という時期だったので、「姉が習っているから自分もしたい」という理由で始めました。

 

2つ目は、母に「ピアノを習うと手先が器用になる。野球も上手になるよ。」と言われたことがきっかけです。正直この手先の器用さに関しては、ほとんど恩恵を受けることがなかったので、手先の器用さは”ピアノを習っている/いない”というより、本人の向き不向きが影響すると思っています。母に上手く転がされてピアノを習い始めました。

 

 

最初は、上手に弾けないながらも家で練習をして、少しずつ上達していく過程が楽しくて仕方がなかったです。ですが、ある程度弾けるようになると、飽きてしまいました。

 

もっともっと上手になろう、コンクールで優勝できるようになろう、と思うことができませんでした。

これはピアノに限らず、野球や勉強など他のことにおいても同じでした。

 

私が自分に対して後悔していることは、「1つも死ぬほど努力をした経験がないこと」です。

 

ある程度上手にできるようになると、それ以上に上達するまでの努力量や難しさをイメージしてしまい、モチベーションが下がる。”自分にはできない”という高いハードルを挑戦する前から作ってしまい、想像しただけで諦めてしまっていました。

 

これは幼少期の頃から変わっていません。私は何も極めたことがありません。継続力がありません。

 

結果、ピアノは小学2年生の時に辞めてしまいました。建前の理由は「野球に絞って取り組みたいから」というものでしたが、本音の理由は違います。

 

本音の理由は、「これ以上続けても私は一流にはなれない。失敗したくないし、ある程度のところで才能が頭打ちになってしまうのを見たくない。自分に才能がないことを知りたくない。」というものでした。

 

 

自分を失敗から守るために、常に言い訳をして逃げてきた人生でした。失敗や周りの目を気にせずに、本能のままに物事に熱中して努力できなかった自分が苛立たしいです。

 

子供の頃は色々なことに手を出して、勉強、スポーツ、習い事などほとんどのことがある程度できるようになりました。すると周りからは「何でもできるね」と褒めてもらえていたので、自分のことも肯定できていました。

 

しかし大人になるにつれて、それはただの「継続力がない器用貧乏」でしかありませんでした。特別なスキルや能力がない私は、今の社会では「何者にもなれない」という現実を突きつけられるのでした。

 

この頃から「次々と興味が移り、すぐに飽きてしまう」を繰り返してしまう、HSS型HSPの気質が出てしまっていたなあと気付きました。

 

様々なことに挑戦してきたので、”初心者であること”に慣れているのはメリットではありましたが、”継続することが苦手”という部分は今でも劣等感を抱いてしまうというお話しでした。

 

 

次回記事では、一般的なものとは異なる、私の変わった”負けず嫌い”についてお話ししています。↓↓↓

 

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。