あの夜、レストランの前で別れてから、二人の関係は特に変わらなかった。


これまで通り、連絡を取り合うこともないし、会うこともない。


時間があの夜のまま止まっているようだった。


渡邉とは七年の同僚で、その後の二年間はほとんど他人みたいな距離を保ってきた。


小林にとって、この状況はいつも通りだった。驚きもしないし、気にすることでもない。


こういう関係性には、とっくに慣れている。

少なくとも、あの日から二週間が経つまでは。





小林がその日仕事を終え、なんとなくスマホを眺めていたとき、海の底に沈んだはずの名前が突然画面の一番上に浮かび上がった。

 

指先がわずかに止まり、そのままメッセージを開いた。

『来週の金曜、空いてる?』

ただそれだけ。


送られてきたのは一時間ほど前。絵文字もスタンプもない。

数秒画面を見つめてから、カレンダーで予定を確認した。

『うん、空いてる』

返信してスマホをロックすると、帰り支度を済ませて家路についた。 帰宅後、スマホを開けば渡邉からのメッセージが届いていた。

『来週、熱海のMOA美術館で期間限定の展覧会があるんだけど、興味ある?』

メッセージの下には展覧会のリンクが貼ってあり、内容を見る限り面白そうだ。


小林は少し迷ってから、ようやく返信した。

『うん、面白そう』

送信した瞬間、既読がつく。すぐに新しいメッセージが届いた。

『じゃあ朝九時半に迎えに行く。住所教えて』

どうしたの?アカウント、乗っ取られた?

小林は眉を寄せ、まだ半ば呆けたままメッセージを見つめていた。この人、普段あんなに口数少ないのに。


たった二週間しか経ってないのに、あの日の「また」が社交辞令じゃなかったってこと?

住所を送ると会話は途切れ、渡邉から次に連絡が来たのは出かける前日の夜だった。

『明日の朝九時半、忘れないでね』

静かな夜にスマホの音が小さく響く。

小林は画面を伏せて机に置いたが、しばらく視線を外せなかった。


クローゼットの前に立ち、ぎっしり並んだ服を前にただ立ち尽くす。何を着ればいいのか、すぐには決められなかった。



*****



翌朝九時半。渡邉の車が小林の家の前にぴったり時間通りに停まった。


階段を降りると、木漏れ日が地面に落ち、風に揺れる葉の影が揺らめいている。


車に近づくと、開いた窓の向こうで渡邉が俯いたままスマホを眺めていた。気配に気づいたのか、ふと顔を上げる。

渡邉は相変わらずだった。深色のシャツに、ゆったりとしたパンツ。整えられた短髪には、わざと作ったような無造作さがある。


その視線が小林の姿――身体のラインが浮かぶノースリーブに薄手のカーディガン、ハイウエストのワイドデニム――を一度なぞり、何も言わず、ただ数秒長く留まった。

「どうしたの?」

その視線に気づいて、口角を上げる。八年半アイドルをやってきた自分だ。見た目に自信がないわけがない。

「……別に」

渡邉は相変わらず淡々と返し、「乗って」と短く告げた。


ただ、その視線が小林の背から離れたのは、彼女がドアを開けて乗り込む瞬間、ほんの一拍遅れてからだった。

小林は助手席に座りシートベルトを締めながら、横目で彼女を盗み見る。


渡邉は運転用のサングラスをかけ、指先で軽くハンドルを叩いていた。車内の静けさに馴染もうとしているようだった。





車はゆっくりと走り出す。窓の外の景色が流れ始めた。


沈黙が気になったのか、渡邉が何気なく Spotify を開く。

「何か聴きたいのある?」

「なんでもいいよ」

小林がそう答えた瞬間、スピーカーから聴き慣れた K-POP のリズムが流れ始めた。思わず眉が上がり、窓から視線を戻した。


「NewJeans?」

「お、詳しいじゃん」

渡邉の声には珍しく楽しげな響きがあり、満足げに笑みを向けてくる。

ここ数年で一番嬉しそうな顔の理由が韓国アイドルとは。


小林は軽く呆れて頬杖をつき、再び窓の外へ視線を逃した。全身から「いまその話とかしたくないんだけど」という空気が滲み出ている。

反応のない小林を、渡邉は横目でちらりと盗み見た。


車窓から差し込む陽光が髪を透かし、赤みがかった光を帯びていた。唇の端には、うっすらとした笑みが浮かんでいた。

数秒その横顔を見つめ、何事もなかったかのように視線を前へ戻した。ハンドルを握る手から力が抜け、口元がわずかに緩む。





車が相模湾沿いの道に入ると、景色が一変した。

陽光を浴びた青い海が広がり、遠くの水平線は空と溶け合っている。道沿いにぽつぽつと現れる小さな町や漁港。波間に揺れる漁船が数隻。白いカモメが水面すれすれを滑り、影が波を追いかける。


車内では軽い音楽が流れ、沈黙でも気まずい感じはない。小林は頬杖をついたまま、窓の外を眺めていた。

「この道、きれいだね」

渡邉がふと声をかける。

 

小林が顔を向けると、視線がぶつかった。

「うん、きれい」

渡邉は何も言わず、しばらく小林の横顔を見ていたが、やがて前に視線を戻し、指でハンドルを軽く叩き始めた。





美術館に着く頃には、もう昼が近かった。

車を降り、二人はエスカレーターで上階へ向かう。


最初は柔らかな光に包まれていた。けれど上がるにつれて光が薄れ、次の瞬間視界が一気に開けた。


円形の天井に万華鏡のような光が広がり、絶えず形を変えている。角度によって影も移ろい、まるで流れる宇宙だった。

小林は思わず見上げたまま、足を止めていた。テクノロジーアートに詳しいわけじゃない。けれどこの天井は、なぜか目が離せなかった。


しばらくして、小林が先に視線を外し、出口へ歩き出した。



外に出ると、熱を含んだ風が夏の匂いを運んできた。頬をそっとなでる。

目の前には、さっきまで車の中から見ていた景色とはまた違う広がりがあった。

 

片側には海がずっと続き、濃い青の水面が陽光できらきら光っている。道路や建物に遮られない分、湾全体と熱海の街並みが一気に見渡せた。

もう片側には、美術館の建物が景色に溶け込むように静かに立っていた。


自然素材を使ったシンプルなデザイン。地形に沿って伸びる石の階段は、カフェオレとテラコッタの間のような柔らかな色味で、青空や緑によく映えていた。



階段を上ると、美術館のロビーに着いた。


中は明るく広々していて、大きなガラス窓からたっぷり光が入ってくる。遠くの海までそのまま見通せて、思わず足が止まった。

「きれい」

小林は窓際まで歩き、ゆっくり景色を眺めた。


いつも休日は家にこもりがちな自分が、ようやくふっと力を抜いているのを感じる。

渡邉はその後ろに立ち、何も言わず、小林の視線の先を見ていた。


少し上がった顎のライン。窓にぼんやり映る横顔。自然と目がいく。





二人は館内をひと回りしたあと、併設のLa Pâtisserieで先に昼食をとることにした。


ちょうど窓際が空いていて、外の庭がよく見える。真夏の日差しを浴びた緑が、柔らかく揺れていた。

ここのスイーツは評判らしい。席に着いてからも、スタッフが次々ときれいなデザートを運んでいくのが目に入る。


小林は隣のテーブルに置かれたケーキにちらりと目をやり、手元のメニューを見下ろした。

結局その誘惑に勝てず、ケーキをひとつ頼んでしまった。



 


 

 

 


こんにちは、hsinです。


今回は翻訳に少し時間がかかってしまって、お待たせしました。

前回の翻訳がちょっと文芸寄りになってしまった気がして、読みやすくなるように、今回から表現を少し調整しています。前の話も一部修正しました。

読んでくれてありがとうございます。


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