ランチを済ませた二人は、ようやく展示エリアへ。
さっきまでの明るくて広いロビーとは、もう雰囲気が全然違う。黒っぽい壁が光を吸い込んでいて、全体的に落ち着いた空気だ。
展示台に使われているのは屋久杉。天然の木目が、いい感じに温かみのある光沢を放っている。ライトも控えめで、作品だけが自然に目に入るようになっていた。
シーンとしているけど、嫌な圧迫感はまったくない。むしろ整然とした空気感が心地よくて、自然と歩くスピードもゆっくりになってしまう。
小林はゆっくりと前に進みながら、展示を一つひとつ眺めていった。
美術展は何度か来たことがあるけれど、別に詳しいわけじゃない。気になったものを、深く考えすぎずに見るだけだ。
渡邉は少しだけ距離を置いてついてくる。速すぎず遅すぎず、物静かな足取りで。
しばらくして、小林はついに耐えかねたように眉を寄せた。
展示室を出たところで足を止め、くるっと振り返る。
「ねえ理佐、今日ずっと背後霊のつもり?」
片方の眉を少し上げて、どこまでとぼけるのか試すような視線を送る。
突然の一言に、渡邉の足がピタッと止まった。
ワンテンポ遅れてようやく目が合うと、その瞳が少し揺れる。
「……あ、うん」
淡々と答えてから、歩みを進めて、小林の隣に並んだ。
小林は軽くうなずいて、ひとまずそれでいいや、という顔をする。
再び歩き出しながら、隣を歩く渡邉をチラッと見て、ようやく少しだけ気分が晴れた。
その後、空気はだいぶ和んできて、最初にあったぎこちなさもほとんどなくなっていた。
展示をほぼ見終えたところで、二人はミュージアムショップに入った。
店内には工芸品がきれいに並んでいて、美術館のオリジナルグッズから繊細な陶器まで、棚ごとに整えられている。
特に目的があるわけでもなく、二人はぶらぶらと店内を見て回る。
しばらくして、小林はある棚の前で足を止め、ひとつのカップに目を留める。
取っ手のない、少し歪んだ丸い形。霧のような質感の釉薬が、深い青と白を混ぜ合わせ、まるで夜の海に雲の影が落ちたような色合いを見せている。
落ち着いたトーンなのに、どこか柔らかい。
「かわいいな……」
小林は小さくつぶやいて、指先でそっと縁をなぞる。手に取ると、しっとりしていて、どこか温かい。
それに気づいたのか、渡邉もスッと近づいてきて、同じカップをじっと眺める。
「たしかに、かわいいね」
感想というより、自分に言い聞かせるような調子。
小林は手元のカップを見下ろして、少しだけ迷ったあと、結局それを買うことにした。
レジに向かおうとした、その時。
隣で渡邉が、同じカップを迷いなく手に取った。
「私も、買おうかな」
低めの声で、なんてことない風に言う。
小林は横目でそのカップを見て、ふっと口元を緩めた。何も言わずに向きを変えて、レジへ歩き出す。
二人は自然と一列に並び、会話はなかったけれど、その沈黙は悪くなかった。
美術館を出るころには、空が少し黄色がかっていた。
夏の太陽はまだ沈みきっていないけれど、昼間ほどの暑さはなく、空気もやわらいでいる。
「由依、近くの海、ちょっと歩いてみる?」
「いいよ」
小林は短くうなずいた。
車は海のほうへ向かい、街並みは少しずつ開けていく。水平線が低く見え始め、視界が一気に広がった。
車を停めて、二人は砂浜をゆっくり歩き出す。
柔らかい砂を踏みしめるたび、後ろに足跡が残っていく。
海風が吹き、ほのかに潮の香りが混ざった。日に照らされた砂浜は淡い金色に輝き、遠くではカモメがときどき空を横切っていく。耳元には、途切れない波の音。
渡邉は鞄からフィルムカメラを取り出して、気の向くままに何枚かシャッターを切った。
少し離れたところで、小林は海を眺めて立っている。
両手をポケットに入れて、海風に暗赤色の髪がわずかに揺れていた。
渡邉の指が、一瞬だけシャッターの上で止まる。
それから、ゆっくりと押し込まれた。
小林が振り向いたとき、ちょうど渡邉はカメラを下ろしたところだった。
「何撮ってんの?」
「風景」
眉を上げると、渡邉はいつもと変わらない調子で答えて、今度は正面の海を一枚撮った。
小林は深く聞く気もなく、「へぇ」とだけ返して、また歩き出す。
砂浜にはかき氷の屋台が出ていた。
簡単な立て札には、色とりどりのシロップがかかった写真がいくつか並んでいた。
夏の夕方というだけで、なんだか妙においしそうに見える。
「食べる?」
小林の問いに、渡邉は立て札を見上げて頷いた。
けれど、少ししてから言い添える。
「うん。でも、一人で一杯はちょっときついかも」
「じゃあ、一つを分けよ」
即答すると、渡邉も特に反対はしなかった。
注文を済ませると、二人は並んで座れる場所を探した。
久しぶりのかき氷は、口に入れた瞬間、ひんやりした甘さが一気に広がる。
「やっぱ、外で食べるのが一番うまいわ」
小林はもう一口、氷をすくった。
それを聞いて、渡邉は昔のことを思い出す。
番組で、小林が家の中に置きっぱなしになっていたかき氷機を紹介していたこと。
思わず笑いをこらえながら、口を開いた。
「欅共和国のかき氷、確かにおいしかったよね」
「でもさ、前は夏になると何杯も普通にいけたのに……」
スプーンで氷をそっと削りながら、渡邉はもう限界が近い気がしていた。
「若さでしょ」
チラッと渡邉を見て、当然のように言う。
「だよね」
渡邉はつい笑ってしまい、視線を海のほうへ戻した。
太陽はもう海にかなり沈んでいて、空の色は金色から、やわらかなオレンジへと変わりつつあった。
砂浜に伸びる二人の影。
吹き抜ける風には、ほんのりと潮の香りが混ざっている。波は静かに寄せては返し、それを繰り返していた。
「このあと、まだ時間ある?」
ふいに渡邉が口を開く。
何気ない言い方だったけれど、視線は海に向けられたままだ。
「一緒に、晩ご飯どう?」
小林は一瞬きょとんとして、横目で渡邉を見る。
「東京戻って食べるの?」
「うん。今出たら、八時過ぎくらいかな」
そうして二人は、車で東京へ戻った。
空はゆっくり暗くなり、高速道路には車のライトが途切れなく続いている。
市街地に入るころには、あちこちでネオンが瞬き始めていた。車内に流れているのは、朝とほとんど同じ音楽。
ただ、小林は
ようやく、韓国アイドルの話にも付き合ってくれるようになっていた。
レストランに着く頃には、東京の夜はすっかり深まっていたけれど、街の賑わいは相変わらずだった。
店の扉を開くと、そこは落ち着いた雰囲気の韓国料理店だった。
暗めのトーンでまとめられた内装に、柔らかな間接照明。モダンだけど、派手すぎない絶妙な空間だ。
すぐに店員が近づいてきて、予約の確認を求めた。
「海老原、二名です」
渡邉が落ち着いた声でそう告げるのを聞いて、小林は思わず口元を押さえて笑ってしまった。
この人、ほんとにどれだけエビ好きなんだろ。
そっと隣の横顔を盗み見て、小林は気づく。
これは、ただの思いつきの誘いじゃなかったんだ、と。
夕食の空気はどこか柔らかい。
話題は他愛ないことが中心で、ときどき昔の話も混じった。
時間は静かに流れ、小林のグラスが空になる頃には、店内の客もずいぶん減っていた。
彼女は指先でグラスの縁を転がしながら、力の抜けた横顔をしている。
酒を飲んでいない渡邉は、ただ静かにそれを見つめていた。
柔らかな灯りに照らされた横顔を眺めていると、胸の奥から、懐かしさがふっと湧き上がってくる。
未熟だった、あの頃の二人。
距離の詰め方が、あまりにも急すぎたこと。
言葉にしないまま、なかったことにした過去。
時間は、二人の間に距離をつくり、その距離をいつの間にか「当たり前」のものに変えていた。
夕食を終え、そのままの流れで渡邉は小林を家まで送った。
車は夜の街を走り、窓の外ではネオンが線になって流れていく。
車を停めると、小林はシートベルトを外したけれど、すぐには降りずに渡邉の方を向いた。
「今日はすごく楽しかった。誘ってくれてありがとう、理佐」
渡邉は数秒だけ小林の顔を見つめてから、いつも通り淡々と答える。
「うん。楽しめたなら、それでいい」
「じゃあ、またね?」
小林がふっと微笑む。
「うん、また」
街灯の光が、小林の瞳の中で小さく揺れた。
車を降り、軽く手を振って、そのままマンションの中へ入っていく。
その背中が扉の向こうに消えたのを見届けてから、渡邉はようやく息を吐き、思わず小さくこぼすように笑った。
------
『遊びに行ってたの?』
インスタを投稿して間もなく、齋藤からLINEが届いた。
小林は画面をチラッと見て、気だるそうに指を動かす。
『うん😊』
語尾に、ちょっとだけ癪に障る笑顔のスタンプを添えて。
『いいじゃん。今度は私も誘ってよ』
『考えとく』
そう送って、すぐにLINEを閉じる。
大きく伸びをして、ソファに体を預けた。
一方その頃、渡邉はちょうど風呂上がりだった。
手に取ったスマホを何気なく眺めていると、最近フォローしたばかりのアカウントの投稿が目に留まる。
夕暮れの砂浜を写した一枚。
数秒、じっと見つめる。
でも「いいね」は押さない。
ただ、指が画面の上で止まったまま、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
読んでくれてありがとうございます。
もし気に入ってもらえたら、いいねをもらえるとすごく嬉しいです。