小林が実家に帰っていた数日間 、渡邉は意外と真面目に、ちょこちょこヨーロッパの写真を送ってきた。
教会だの、食べ物だの、大半は何を撮りたかったのかよくわからない街並みで、本人は一枚も写っていない。
人が何を見たいかなんて、まるで考えてないんだから。
二人ともそれぞれの用事で忙しく、決まっていたのは、次に会ったら一緒にキャンプに行く、ということくらいだった。
午後四時、事務所の仕事がようやく一区切りついた。小林はキャリーケースを引きずりながら休憩室からロビーへ向かう。
周りの同僚たちがせわしなく行き交う中、自分だけ遠出の格好をしているのがどうにも浮いている気がして、無意識に足音を忍ばせた。そうすれば少しは目立たずに済むとでもいうように。
角を曲がると、遠くに渡邉が座っているのが見えた。顔見知りの女性スタッフと楽しそうに話している。
近づいて軽く会釈すると、相手も笑顔で返して 「お先に失礼しますね」と気を利かせるように言って、何かと理由をつけてその場を離れていった。
「お疲れ、行こっか」
渡邉は立ち上がったものの、すぐには歩き出さず、ただその場に立ってこちらを見ていた。
どうしたんだろう。
数秒そのままでいたあと、ようやく手を伸ばし、まずキャリーケースを、それから肩にかけたバッグを指さした。
ようやく意味がわかって、笑いながら取っ手を譲る。
「理佐っていつからこんなに気が利くようになったの」
わざとそう聞いてみた。
「もともと気が利くほうだし」
しれっと答える 。
二人はそのまま駐車場へ向かって歩き出した。
車が事務所を出ると、しばらく窓の外をぼんやり眺めていた。ふと、なんだか不思議な気分になる。
「お迎えに来てもらうって、こういう感じなんだ」
しかも運転手が渡邉理佐なんて、考えてみればなかなか贅沢な話だ。
「これからも暇なとき迎えに来てあげるよ」
渡邉は軽い調子で言ったが、小林のほうはそう軽くは受け止められなかった。何と返そうか考えているうちに、渡邉のほうが先に首をかしげて考え込む。
「あ、でも一か月ちょっとしたらここの社員じゃなくなるし、駐車場も使えなくなるのかな」
思わず横目でちらりと見る。この人、また変なこと言い出した。
「そうだ、 後ろの席に渡したいものがあるから、明日帰るとき忘れずに持って帰ってね」
「私に?」
「うん、チョコも買ったんだ。明治のじゃないけど」
ちらっとこちらを見たその目には、あからさまに褒めてほしそうな色が浮かんでいた。
「あとで一緒に食べよ」
一瞬、言葉に詰まる。わざとこんな回りくどいことをしているのだと、聞けばすぐにわかった。
この人、今日はどうしたんだろう。会うなりこんなに甲斐甲斐しいなんて。それとも、ヨーロッパで何かに目覚めちゃったとか?
「ありがとう……」
そう言いながら、前に約束していたことを思い出す。
「実は私も、理佐にプレゼント用意してるんだ」と言ってから 、なんだか大げさに聞こえる気がして、慌てて付け足した。
「ちょっとしたものだけどね」
「へえ 、楽しみ」
渡邉がまたこちらを向いて笑いかけてきたので、その顔を手で前に向けさせて、『ちゃんと前見て運転して』と言った。
それから二人は車の中でぽつぽつと話しながら、途中で寄り道して夕食をとった。キャンプ場に着くころには、あたりはすっかり暗くなっていた。
つけたままのヘッドライトが今夜泊まるエアストリームを斜めに照らし、銀色の車体がまぶしく光を跳ね返す。トレーラーの前には円形のファイヤーピットがあり、すでに薪が組まれていて、椅子が二脚並んでいた。」
車のドアを開けた瞬間、一月の冷たい空気が容赦なく吹きつけてきて、思わず身震いする。吐いた息が、すぐに白く染まった。空気には湿った土の匂いと、木が燃えたあとの独特の燻したような匂いが混ざっていて、それを嗅ぐと、本当に街から離れてきたんだという実感が湧いてくる。
トレーラーの中は思ったより広く、入ってすぐソファの置かれた小さなリビングがあり、向かいには簡易的なコンロと流し台がある。片側は浴室に、もう片側は寝室に繋がっていた。
ぐるりと見回しながら、前に行った温泉旅館のことをふと思い出す。理佐が選ぶ場所はいつもセンスがいい。そう思うのも、今回が初めてじゃない。
ただ、何気なく寝室のほうに目をやったとき、ベッドが目に入った。
ベッドが一つしかないことに、気づいてしまった。
この手のトレーラーの間取りはそもそも選びようがない、それくらいはわかっている。でも、やっぱり気になってしまうものは気になる。
もう同じベッドで寝てもいい関係になったんだろうか。それとも、理佐はそもそもそんなこと気にしてないだけなんだろうか。
幸い、渡邉は下ろしたばかりの荷物の整理に忙しく、こちらに注意を向けていなかった。
何事もなかったような顔でリビングに戻ると、渡邉が『先に休む?それとも火おこす?』と聞いてきた。
「先に火、おこそっか」
そう答えてから、少し考えて、マシュマロも焼きたいと付け加えた。
「いいね、じゃあマシュマロの準備お願い。火は私がおこすから」
任されたとおり、荷物の山からクラッカーとマシュマロ、それから長い竹串を袋に詰めていく。
ふと、テーブルの上のチョコレートが目に留まった。渡邉が買ってきてくれたものだ。少し迷ってから、それも一緒に手に取る。
トレーラーを出ると、渡邉はすでにライターと着火剤を手に、焚き火台のそばにしゃがみ込んで、どう手をつけようか思案していた。
隣にしゃがむと、渡邉が着火剤を薪の隙間に押し込み、ライターで火をつけるのが見えた。
小さな炎が上がったものの、着火剤自体に燃え移っただけで、薪のほうはまだ何の反応もない。
渡邉は眉をひそめて考え込みながら、椅子に置いてあった紙皿を取り、そのか細い炎に向かって扇ぎ始めた。炎は扇がれるたびに左右に揺れ、何度も消えそうになりながら、それでもしぶとく持ち直す。
いつの間にか、こちらも一緒に息を止めていた。
そしてついに、橙色の炎の舌が乾いた薪に食いつき、パチッという音とともに、小さくも明るい炎に育った。
そこでようやく振り返った渡邉の口元には、得意げな笑みがはっきりと浮かんでいた。
マシュマロを取ろうと振り向きかけたけれど、渡邉の瞳に映って揺れる小さな炎に目を奪われて、しばらく視線が動かせなかった。
渡邉は傍らの火ばさみを取って薪をつつく。火に照らされた横顔に、光と影が小刻みに揺れているのが見えた。
見入っているうちに、ふと、ずっと前の夏の夜を思い出した。
蝉がうるさいくらいに鳴いていた夜。あのときも同じような小さな火があって、肩と肩が触れそうなくらい近かった。
何か言わなきゃと思って、口を開く。
「理佐って、前にも火おこしたことあるの?」
「あるよ。この前ゆっかーたちとキャンプ行ったとき、みんなで超苦労してやっとおこせたし」
笑いながら話す。
火で肉を焼くのって本当に難しくて、食材が炭まみれになっちゃうし、火加減の調整も大変だったらしい。
幸いぺーちゃんがガスコンロを持ってきてくれてて、結局ぐちゃぐちゃになりながらも、なんとかお腹は満たせたのだという。
「あの経験から学んだのは、こういう焚き火はマシュマロ焼くくらいにしとくのがいいってこと 」
渡邉はそう締めくくった。
思わず笑ってしまって、こちらも手にした袋を軽く振ってみせる。
「じゃあ、マシュマロ焼く?」
火が勢いよく燃え上がり、二人はそれぞれ竹串を手に取って、マシュマロを刺し、火の縁にかざした。
薪が時折パチパチと小さく爆ぜる音を立てる。遠くから風が吹いてきて、小林は寒さに首をすくめ、マフラーをもう少しきつく巻き直した。
マシュマロがじんわり膨らんで、縁がキャラメル色に焼けていくのを見つめながら、何気なくヨーロッパ旅行の話を振ってみる。
旅行の話になると渡邉は途端に饒舌になって、話はサグラダ・ファミリアからカタルーニャ音楽堂、美味しかったシーフードパエリアにまで及んだ。
焼き上がったマシュマロをクラッカーに挟んで食べながら話を聞いていると、橙色の光がお互いの顔に映って、さっきまでの寒さもそれほど気にならなくなっていた。
「一人旅も好きだけど、これからは機会があったら、由依とも行きたいなって」
渡邉はこちらを見ずに言う。マシュマロを焼くのに集中しているような素振りだった。
「北欧のオーロラとか、スイスとか、ドイツのクリスマスマーケットとか……そういう場所は、誰かと一緒に行きたいんだよね」
まさかそんなことを言われるとは思っていなくて、竹串を持つ手が宙で止まる。数秒経ってからようやく顔を向けた。
「私と……?」
「他にゆいなんていないでしょ 」
渡邉の表情は、それって変な質問だとでも言いたげで、不満そうに口を尖らせた。
「わかったわかった ――」
その拗ねた様子につい笑ってしまって、思い切って椅子を少し寄せ、肩をそっと渡邉の肩に寄せた。
「私も理佐といろんなところ旅行したいよ」
「ただ、一人のほうが好きなのかなって思ってたし、それに私、いつも任せっきりで何もできてない気がして…… 」
だんだん声が小さくなっていく。
渡邉は小林を見つめる。
揺れる炎がその綺麗な瞳の中で明滅しているのを見て、冗談の裏に隠れたおずおずとした気配に気づいて、ふと、どこか引っかかるものを感じた。
この違和感は実はもうしばらく続いていた。ただ、これまでは勝手に、前に自分が逃げ出したことへの抗議なんだと解釈していた。
最近由依があまり自分から来ないのも、どこか距離を置いているように見えるのも、きっとそのせいなんだろうと。
でも、たぶんそうじゃない。
渡邉はよく気がつく、とみんな言う。
周りの感情の変化にすぐ気づく人だ、と。実際そのとおりで、だから渡邉には、見えてしまっていたことがたくさんあった。
たとえば、自分が初めて『こば』と呼んだあの朝、何でもないふりをして隠された一瞬の動揺。
たとえば、自分が目を逸らすたびに、そっとしまい込まれる落胆。
たとえば、自分が他のメンバーとふざけ合っているとき、休憩室の隅からおそるおそる向けられては、すぐに逸らされるあの視線。
自分たちは息が合いすぎていた。何も言わなくても、由依ならわかってくれるだろうと思えるくらいに。
だからあの頃の自分は、そのすべてを見て見ぬふりすることを選んだ。
自分が先に悪者になって、あってはいけない関係を完全に断ち切ることを選んだのだ。
でも、もしかしたらその過去のせいで、由依は慣れなくていいはずの遠慮に、すっかり慣れてしまったのかもしれない。
だから最近どれだけ行動で示そうとしても、返ってくるのはいつも、あの不安げな聞き返しばかりなのかもしれない。
これはきっと、自分のせいなんだろう。
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