十二月の横浜は湿った冷たい空気に包まれ、今にも雪が降りそうな空模様だった。
水族館の外にある広場にはクリスマスの装飾が施され、ガラスには華やかな光が反射している。
「……で、理佐が連れてきたかった場所って、水族館?」
白い息を吐きながら、イルミネーションに彩られた建物を見上げた。
王道のデートスポット。
まるで少女漫画のワンシーンみたいだ。
「なんか文句ある?」
首をすくめ、少し拗ねたようにこちらを睨んだ。
「数日前に行き先送ったでしょ」
「分かってるって。楽しみにしてたよ」
「ただ、理佐がこういう場所を選ぶとは思わなかっただけ」
こらえきれずに笑った。
渡邉は特に言い返すこともなく、わざと肩をぶつけて入り口へと歩き出した。
その背中を追いながら、ふっと笑みをこぼして後に続いた。
館内に入ると、一気に視界が暗くなった。
中央には天井まで続く巨大な円柱水槽があり、数えきれないほどのイワシが銀色の光の帯となって泳いでいる。青い光が水を通して屈折し、床の上でゆらゆらと揺れていた。
平日の午前中で人は少なく、二人の足音は絨毯に吸い込まれていく。立ち止まるたび、触れそうなほど距離が近くなった。
「ねえ見て」
大きな水槽の前で足を止め、ガラスに張り付いて泳ぐエイを指差した。
「あの顔、メタモンに似てない?」
「……は? メタモン?」
渡邉が眉を寄せて覗き込む。
その拍子に、肩が不意にぶつかった。 ほんの少しの接触だったけれど、鼻先を馴染みのある爽やかな花の香りがかすめる。
服越しに伝わる体温のせいで、つい数日前に読んだ少女漫画の展開が頭をよぎり、意識が逸れそうになった。
……いい大人が何を考えてるんだか。
渡邉も距離の近さに気づいたのか、少しだけ横に退いた。けれど、その視線は小林の耳元で止まっている。
待ち合わせたときから気付いていた。
揺れる銀色の花。
それは先週、駅で渡したプレゼントだった。
まさか、今日のために着けてきてくれるなんて。 言い出せないまま、ただ静かにその横顔を見つめていた。
角を曲がると、クラゲの展示エリアに入った。
さらに暗くなった空間に、青紫色の光が水槽の底から差し込んでいる。透明なクラゲたちが光を浴びて縁を淡く発光させながら、ゆらゆらと漂っていた。
小林が見惚れていると、周りに誰もいないことを確認した渡邉が、一歩距離を詰めてきた。
「由依」
わざと声を潜め、耳元に囁くように言う。
「今日、プレゼントしたピアス着けてくれてるんだね」
跳ねるように振り返った。
吐息を感じるほどの距離に硬直しながら、そっと自分の耳に触れる。冷たい金属の感触があった。
「うん、着けた」
視線を逸らさず、あえて少し首を傾けて聞き返してみる。
「どう、似合ってる?」
少し直球すぎたかな、と思ったけれど、言葉はもう引っ込められない。
「かわいいよ」
満足げな笑みを浮かべた渡邉の視線が、少し赤くなった小林の耳元に注がれる。
「すごく似合ってる」
青紫色の光に照らされながら、数秒間、二人の視線がぶつかり合う。
耐えきれなくなった小林は先に目を逸らし、誤魔化すように水槽へ向き直った。
今のはなに?
横目で隣をうかがうと、渡邉はもう何事もなかったかのように一歩下がり、平然としている。
「行こう。次はサメがいるみたいだよ」
「……うん」
その後も、渡邉は同じ展示を覗き込もうと顔を近づけてきたり、進む方向を示すために腕に軽く触れてきたりした。
けれど、そのどれもがあまりに自然すぎて、意識しているのは自分だけのように思えてくる。
一体、どういうつもり?
その疑問は、水族館を出るまでずっと頭の片隅に居座り続けた。
外に出ると、冬の陽光が少し眩しかった。いつの間にか正午を過ぎている。
「お腹空いたな」
渡邉が時間を確認しながら言った。
「中華街で何か食べていく?」
車で三十分ほど走ると、中華街の鮮やかな牌楼がそびえ立ち、通りには真っ赤な提灯が並んでいた。
平日とはいえ人通りは多く、肩を並べて歩いていると、人混みに押されて時折距離がぐっと近くなる。
渡邉に促され、二人は焼き小籠包やフルーツ飴、天津甘栗を買い食いしながら通りをぶらついた。
「あ、肉まん」
渡邉が指差した先には、白い湯気が立ち上る屋台があった。
「食べる?」
「いいよ」
二人はそれぞれ熱々の肉まんを買い求めた。
一口かじると、熱い蒸気が鼻先をかすめる。
隣で黙々と食べている様子を眺めながら、不意に言った。
「理佐のも一口ちょうだい」
「え? 同じやつじゃない?」
不思議そうにしながらも、戸惑い混じりに肉まんを差し出してくる。
それを受け取らず、邪魔な髪を耳にかけた。その仕草に、渡邉の視線は吸い寄せられるように止まった。
自分で選んだピアス、白いうなじ、そして鎖骨のライン。
そのまま顔を近づけていく。ふわりと木の香りが鼻をくすぐり、微かな体温が伝わった。
差し出された手首をそっと支え、肉まんに大きくかじりついて満足そうに目を細める。
その様子を間近で見せつけられた渡邉は、喉の奥が妙に乾くのを感じていた。
何食わぬ顔で口元を舐め、「理佐の、美味しいね」と悪戯っぽく笑う。
その姿に数秒呆然とした後、渡邉もつられて口角を上げた。何も言わず、残りの肉まんを口に運ぶ。
その後、しばらく街を散策した。
冷凍餃子を買いたい衝動を必死に抑える渡邉の横で、小林は雑貨屋で見つけた肉まんの形をしたストラップを嬉しそうに買っていた。
いつの間にか冬の陽光は西に傾き、空気の冷たさが増していた。
中華街の喧騒を離れると、街の空気感は一変する。
ショッピングモールの駐車場に車を止め、海沿いの遊歩道をゆっくりと歩き出した。潮の香りを孕んだ海風が、街中よりもいっそう冷たく頬を撫でる。
目の前には近代的なビル群と巨大な観覧車がそびえ、空は淡いオレンジ色に染まり始めていた。
首をすくめ、吐き出した白息が冷気に溶けていくのを眺めた。
こうして隣を歩いている景色が、どこか現実味を欠いている。
これって、デートなのかな。
渡邉は自分と違って友人も多い。貴重な休日をわざわざ一人の相手に費やす必要なんてないはずだ。
ましてや、一緒に出かけたい相手なんていくらでもいるだろうに、クリスマス前のこの時期に、あえて自分を選んでここにいる。
ふと横を盗み見ると、髪が風に揺れる渡邉の横顔が、夕日に照らされて酷く綺麗に見えた。
ドラマや漫画ならいくらでも読んできたけれど、いざ自分のこととなるとさっぱり分からない。
深読みしすぎなのか、それとも。
その時、遠くの観覧車に灯りがともった。色とりどりの光が暮れなずむ街を彩り、海面にその影を落とす。
二人は示し合わせたように足を止めた。
その光景を眺めていると、抱いていた疑問なんてどうでもよくなってくる。
ふとした勇気に突き動かされ、隣の腕にそっと自分の腕を絡めた。
渡邉の体が明らかに強張ったのが伝わり、慌てたような視線がこちらを射抜く。マフラーで顔の半分は隠れているけれど、瞳に宿った動揺までは隠せていない。
「いいでしょ。女同士が腕を組んでたって、誰も気にしないよ」
気づかないふりをして、おどけたように付け加える。
「ふーちゃんと出かける時だって、いつもこうだし」
「……そっか」
渡邉は視線を泳がせながら、低く応えた。
そのぎこちなさに、小林は唇を噛んで腕を解こうとする。
「理佐、嫌なら――」
「嫌じゃない」
何かを堪えるように視線を彷徨わせ、ようやく言葉を絞り出した。
「ただ、慣れてないだけ。……あんたと、こういうのは」
蚊の鳴くような小さな声。
小林は瞬きをして、こぼれそうになる笑みを堪えながら、さらにぎゅっと腕を密着させた。
今度は拒まれることはなく、渡邉は耳の先を赤く染めて遠くを見つめている。
その横顔を見ているだけで、なぜだか気分が軽くなった。
夜の気配を孕んだ海風が吹き抜ける中、二人の歩幅は自然とゆっくりになっていく。
しばらく歩くと、赤レンガ倉庫のシルエットがはっきりと見えてきた。
人通りが増え始めたのに合わせ、二人は示し合わせたように、そっと腕を離した。
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