赤レンガ倉庫のクリスマスマーケットは、木製のヒュッテが立ち並び、頭上には星空のようなイルミネーションが会場を包み込んでいた。遠くで巨大なツリーが輝き、ホットワインの甘い香りが漂う。

そして、どこを見てもカップルばかりだった。

隣を歩きながら、否応なしにその光景を意識させられる。



チョコがけいちごの屋台の前で、渡邉が足を止めた。 

「一箱、買おうか?」 

問いかける声とともに、手がふっと手の甲に触れる。

そのわずかな接触に、心臓が不意に跳ねた。



まただ。 



真剣にいちごを選んでいる横顔を眺めながら、やりきれない思いを抱いた。

いつもさらりと、意識させるようなことをする。

他の誰かにも、こんな風に振る舞うのだろうか。 


腕を組んだ時の動揺や、水族館での距離感。

一日を通して、自分の予感は間違っていない気がした。けれど、あと一歩の確信が持てない。

遠くで回る観覧車を見つめ、数秒の後、何かを決意したように視線を戻した。



チョコがけのいちごを手に、渡邉が戻ってくる。

 「理佐」

できるだけ自然なトーンを意識して、切り出した。



 「観覧車、乗ってみない?」 







十五分。


一周、およそ十五分


係員の言葉が頭の隅に残っていた。

小林は渡邉の隣に座り、手のひら一枚分の距離を空けて座る。時折、揺れに合わせて膝がかすかに触れ合った。 

観覧車がゆっくりと上昇するにつれ、クリスマスマーケットの喧騒も街のざわめきも、次第に遠く、ぼやけていく。

まるで世界の音量を急に絞られたかのように、車内には二人の呼吸音と、時折風に揺れる窓ガラスの震えだけが残された。 


「やっぱり、上から見ると全然違うね」 

窓辺に寄り添うと、吐き出した熱でガラスに白い霧が広がった。

「さっき、あの辺りにいたんだよね」と明かりの灯る一角を指差す。

「……そうだね」 

渡邉は指の先を追ったものの、その声はどこか心ここにあらずといった様子だった。

 
高度が上がるにつれて、地上の景色は小さく縮んでいく。

窓から差し込む微かな光が、隣に座る横顔に淡い陰影を落としていた。整った顔立ちだとはずっと思っていたけれど、これほど近い距離では、唇を噛むわずかな癖さえも鮮明に映る。 


二人きりの空間が、普段慎重に守っている境界線を曖昧にさせていく。 


「理佐、しゃべらなすぎ」 

少し不満げに体を向けると、「さっきから私ばっかり話してる」とこぼした。



渡邉は瞬きをして、ようやく我に返ったような顔をする。

「あ、ごめん……」

「何を考えてるの?」


すぐには答えず、視線を窓の外へ泳がせた後、小さく首を振った。

「別に、何も」



その瞳を数秒見つめ、さらに距離を詰めてみる。

ゴンドラが空中でわずかに揺れ、肘と肘が重なった。

渡邉は避けようとはしなかった。

その温度を感じるうちに、胸の中である思いが確信へと変わっていく。




「理佐」


体を預けるようにして、その瞳を覗き込んだ。

「今日これって、デートなのかな?」 


渡邉はハッとしたように視線を戻すと、膝の上で握りしめた自分の手に目を落とした。 

「私たち......」 

数秒の沈黙の後、言葉を絞り出す。

「観覧車にまで、乗ってるんだし」

 赤く染まった耳たぶが視界に入る。

「そうだね......観覧車にまで、乗っちゃったもんね」



ちょうどその時、ゴンドラは頂上に達した。

横浜の街が足元に広がり、無数の光が遠くまで連なっている。 この高さでは、現実の世界がひどく遠い。 


その横顔を見つめながら、出会ったばかりの頃や、これまでの月日を思い返していた。

十年近い歳月の中で、二人の関係はとうに友人という枠を超えていたはずなのに、誰もそれを口にはしなかった。



ゆっくりと、顔を近づけていく。

渡邉が顔を上げ、視線が重なった。今度は、逸らされることはなかった。


重なった唇は、ひどく柔らかった。 


かすかな接触だったけれど、世界の音がふっと消えたような気がした。風の音も、街の喧騒も消え、ただ二人の呼吸と鼓動だけが、この小さな空間で現実味を持って響いている。



時間が、止まっていた。



唇を離したとき、乱れた呼吸を整える間もなく、ただ「理佐にキスをした」という事実だけが後から追いかけてきた。

十年の記憶、途切れてはまた繋がった日々が、一気に押し寄せてくる。


本当に、してしまった。

その実感が脳内を駆け巡り、奇妙な眩暈に襲われる。

何かを言おうとした瞬間、先に視線を逸らしたのは渡邉だった。

「……もう、下り始めてるね」


呆気に取られ、つられるように外を見た。

確かに観覧車は下降を始めていて、地上の街が少しずつ大きくなり、遠かったはずの通りが近づいてくる。


どうしてこんなに早く終わってしまうんだろう。



車内を静寂が支配する。


服の裾を握りしめ、唇に残る感触を確かめるけれど、隣の渡邉はまるで何事もなかったかのように振る舞っている。けれど、赤くなった耳も、視線を逸らす直前の瞳に自分が映っていたことも、はっきりと見ていた。




クリスマスマーケットの灯りや人々の話し声が、再び鮮明になっていく。

ゴンドラが止まり、扉が開くと同時に冷たい空気が流れ込んできた。係員が笑顔で「足元にご注意ください」と告げる。 

二人は一歩踏み出し、先ほどの出来事には触れないまま歩き始めた。




十五分。

 

一周、ちょうど十五分だった








車が港を離れると、街の灯りが窓の外を流れていった。

小林は背もたれに体を預け、視線を外に向ける。


観覧車でのキスの感触はまだ唇に残っているのに、隣の渡邉は何もなかったかのような素振りで、車内にはお気に入りのK-POPが流れていた。


キスまでして、その先は? 


 

盗み見るように隣をうかがうと、路灯に照らされた横顔は真剣にハンドルを握っている。

景色が馴染みのものに変わり、角を曲がればもう自宅だ。

このまま何も言わずに終われば、明日からまた元の関係に戻ってしまう。あるいはもっと悪く、忙しさを理由にしばらく距離を置かれるかもしれない。 


それだけは、嫌だった。


マンションの近くで車が止まり、エンジンが切られた。

「着いたよ」 


促されても、ドアノブにかけた手は動かない。車内に差し込む街灯の光を背に、意を決して向き直る。


「ねえ、理佐」

名前を呼ぶと、渡邉がこちらを見た。


瞳の奥で小さな光が揺れる。言葉を口にする瞬間、空気が引き伸ばされたような沈黙が流れ、渡邉がかすかに息を呑むのがわかった。






「――うち、寄っていく?」




 


 

 

 

 

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