「ねえ、もしかして……」


言葉を選び直し、さらに声を落とした。



「最近会ってる人って……理佐?」 



顔を上げると、数秒だけ目が合った。

けれど答えず、そのまま視線を外してワインを口に運んだ。



否定はしない。

その沈黙だけで、十分だった。



まだ酔っていないはずなのに、齋藤は頭がじわじわ痛くなる気がした。

親友として、この話がどれだけデリケートなものか分かっている。深入りしすぎちゃいけない。でも、どうしても聞かずにはいられなかった。



「じゃあ……ゆいぽんは、これからどうするつもりなの?」 



グラスのふちを指先でトントンと叩き、長い沈黙のあと、ぽつりと答えた。



「…………わかんない」 


本当に分からなかった。

自分がどうしたいのかも、相手が何を考えているのかも。



鈍い方じゃない。

少なくとも、最近の理佐の態度を見ていれば、自分にまったく気がないわけじゃないことくらい分かっている。

暇なときに用もないのにメッセージをやり取りして、ドライブに誘われて、おまけに温泉旅館へ二人きりで泊まりに行く。

そんなこと、ただの友達相手にするわけがない。




だけど、それ以上には進まない。

一歩踏み出すよりも、渡邉はこのあやふやな距離のまま、どっちつかずな方を選んでいるみたいだった。



この数ヶ月、二人はどこか懐かしい関係に戻っていた。

お互いの出方を探り合っているようで、決して一線は越えない。



湖の近くを歩いたとき、触れてすぐ離れた指先。

あの夜、お互いの息遣いが聞こえるほど近かったのに、結局最後まで触れ合わなかった距離。



これがただの友達旅行だなんて、さすがに思ってない。

でも友達じゃないなら、なんて呼べばいいんだろう。




そして何より――理佐は、どう思っているのか。




はっきりした言葉は何もないし、今日も一期生の前では、せっかく縮まった距離をわざわざ元に戻すような態度を取った。

まるで、この数ヶ月の時間が自分の勘違いだったって言われているみたいで。

そんなフラフラした態度が理解できなくて、モヤモヤだけが残る。



 

ただの友達なら、どうして距離を気にする必要があるの?

友達じゃないなら、どうしてここまで線を引くの?




うつむいたままの小林を見て、齋藤は自分にできることがそんなに多くないのは分かっていた。それでも、味方でいることだけは伝えたかった。

「正直、二人の間で何があったかは分かんないけどさ」

背中をぽんと軽く叩いて、少しだけ明るい声で続ける。

「話したくなったら、いつでも聞くからね」


グラスをなぞる指を止めないまま、すぐには返事をしてくれなかった。

数秒後、小さな声が返ってきた。



「……うん、ありがと」





*****





渡邉が長濱と一緒に長濱の家へ戻った頃には、もうすっかり遅い時間になっていた。

慣れた手つきでコートを掛け、そのまま長濱の後ろについてリビングへ入ると、流れるようにソファへ腰を下ろす。

長濱はマフラーを外しながらキッチンへ向かい、振り返って言った。

「何か飲む?」

「ねるに任せるよ――」

長濱はふふっと笑って、今夜の空気に合いそうなドリンクを作り始めた。




リビングの明かりが柔らかくカーペットを照らして、時折カランと氷が当たる音が聞こえてくる。

渡邉はソファにもたれてスマホを眺めていた。タイムラインはさっきのライブの話題でほとんど埋め尽くされている。

少し考えてから、インスタを開いた。画面の真ん中には三本のペンライト、背景にはぼんやりとステージのシルエット。

シンプルに「おめでとう」と書き込み、最後に黄色いハートを添えた。



しばらくして、長濱が二つのグラスを持って戻ってきた。

「はい、今日もお疲れ様」

「ありがと」

グラスを受け取って、軽く合わせた。

カクテルのほのかな甘みが喉を通っていく。数口飲んだところで、長濱がふと思い出したように言った。

「そういえば――理佐、今日ゆいぽんにあんな感じで、本当に大丈夫だったの?」

ちょうどお酒を飲んだところで、思わずむせそうになり、咳き込みながら顔を上げる。

「……何が?」

「理佐なら、私が何言ってるか分かってるでしょ?」

首をかしげて、いたずらっぽく笑った。

「こんなに長い付き合いなんだし、私が気づかないと思ってる?」

言い返そうとして口を開きかけたけれど、結局そのまま黙り込んだ。



「どうしてあんなことしちゃったの?」

「ねるはね、ゆいぽん傷ついちゃうと思うよ」

柔らかい声だったけれど、思わず肩をこわばらせた。



長濱はいつもそうだ。

見た目はおっとりして可愛らしくて、笑うと無害なタヌキみたいなのに、言うべきことははっきりしている。いつも核心を突くようなことを、さらりと言いのける。



視線を落とし、ぼそりと呟いた。

「……気づいたら、ああしてた」


分かっていなかったわけじゃない。ただその瞬間、頭より先に体が後ろに引いてしまった。

小林にどう向き合えばいいのか分からなくなるたび、いつも本能的に一歩退いてしまう。

この癖はあまりにも長く染みついていて、気づいた頃には言葉が口を出ていて、もう取り消せない。



ライブ会場で小林と目が合った瞬間も、まだ鮮明に思い出せる。

あの表情を見るのは初めてじゃない。そして、それを見ないふりをしたのも初めてじゃない。

自分が台無しにしたことくらい、渡邉だって分かっている。

でも、一度口にした言葉も、取った行動も、もう戻せなかった。



長濱は、視線を落としたままの彼女を見つめ、これ以上は追及しなかった。

「とにかく、このことは理佐もちゃんと考えた方がいいよ」

「……うん」


渡邉はスマホへ視線を戻した。

指先を画面の上でしばらく迷わせたあと、ゆっくりとメッセージ画面を開く。カーソルが入力欄で点滅する。少しして、ようやく一行打ち込んだ。

『今日のライブ、すごくよかったな』

『もう家に着いた?』


謝罪も、説明もない。

ただ、何か一言でも送っておきたかった。

送信してから数秒、画面を見つめる。返事を待つことなく、スマホをテーブルに置いた。




「で、理佐はこれからどうするつもり?」

長濱はグラスを軽く揺らしながら言う。

渡邉はすぐには答えなかった。視線はグラスの中の淡いシャンパン色の液体に落ちたまま、その揺れる光の中に答えを探しているみたいだった。


 「……まだ、分からない」


簡単に答えられる問題じゃない。

長濱もそれを分かっているから、何も言わずに待っていた。




「私たちの立場とか、関係とか……」

言葉を探すように続ける。

「もう卒業したとはいえ、いろいろ考えることはあるでしょ。」



恋愛ひとつでもすぐ記事になる。

まして相手が同性で、元同じグループのメンバーならなおさらだ。

もし公になれば、ファンは騒ぎ、メディアは面白がって取り上げる。メンバーにまで影響が及ぶかもしれない。

憶測、議論、過剰な解釈……現実的な問題が、いくつも頭に浮かぶ。

それらに向き合うくらいなら、今のままでいる方が簡単だった。一歩踏み出さなければ、関係を定義する必要もない。

この曖昧さを「安全な距離」だと思い込んでいればいい。



長濱は何も言わなかった。ただ、その目には確かな理解があった。 

「それに……」

 息を吸い、さらに声を落とす。

「これが、彼女にとって……本当にいいことなのかも分からない」 

そう言って、無意識にグラスを強く握る。ガラスの冷たさが手のひらに伝わる。

けれど胸の奥に溜まった感情は、少しも冷めなかった。



「でもさ」

「理佐、前に言ってたよね。人生って一回きりだって。」

声は柔らかいのに、言葉には確かな重みがあった。

「自分が後悔するような選択はしたくない、って。」




一瞬言葉を失った。

喉の奥がきゅっと締まる。



後悔。

もし何もしなかったら後悔するのだろうか。



会場で目が合ったあの瞬間。

湖畔で重なってすぐ離れた手。

あの夜、お互いの呼吸が聞こえるほど近かったのに、結局引いてしまった自分。 

ずっと、自分は流れに任せているだけだと思っていた。



でも本当は――

引き返していたのは、いつだって自分だった。



このままで、本当に後悔しないのか。



長濱はそれ以上何も言わず、にこっと笑ってグラスを持ち上げた。

渡邉は小さく息を吐き、同じようにグラスを上げて軽く合わせる。 


「……うん、分かった」




 


 

 

 

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