ひとりごと0118(番外057 僕の先生) | 林住期さんのひとりごとブログ

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林住期を生きるおっちゃんの不定期なひとりごとです。

僕の先生


Believe
1998年に発表された
杉本竜一氏作詞・作曲の歌だそうです。

下記、作詞の一部です。

たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は
かならずぼくが そばにいて
ささえてあげるよ その肩を

もしも誰かが 君のそばで
泣き出しそうに なった時は
だまって腕を とりながら
いっしょに歩いて くれるよね


1998年は、私はもういいおっさんでした。
この曲は、林住期になるまで
全く知りませんでした。

この曲を初めて聞いた時は衝撃的でした。
素直にいい歌だと思いました。
このような子供たちが増えたらいいなあと思いました。

小学校3年生の時を思い出しました。
ごく普通のクラスでしたが、
この歌詞のようなクラス、
良いクラスでした。

担任の先生は、
本当は本名を世間にお伝えしたいぐらい
いい先生でした。
赤穂恵美子先生(仮称)は、
大学を出て教員になり
初めて担任クラスを持ち、
私たちの先生になりました。
先生1年生でした。
優しくもあり、厳しくもあり、
音痴でした。
クラスメートのこいのぼり君が
給食で出たにぬき(ゆで卵)の殻を胸にあてて
おっぱいと言って騒いでいた時も
先生は優しいまなざしで笑っていました。
先生の4畳半だったか6畳だったかのアパートに
十数人で押しかけたのも覚えています。
皆座れず立っていました。

でも、クラスで、いじめが発生しました。
動作が速くできない女の子がいて。
ただ、今のような陰湿ないじめでなく、
どちらかと言えば、
男の子が「や~い、や~い」というような
ほんと子供のからかいレベルでした。
でもいじめはいじめ。
教壇に立った赤穂先生は、
目を真っ赤にして
僕らクラス全員を叱りました。
そして、涙があふれてしまい、
教室を走って出て行ってしまいました。
先生の悲しみはクラスメート全員に刺さりました。


僕らは、謝罪し反省し、話し合い
そして先生を探しに行きました。
当然その日を機にいじめは全くなくなりました。
良いクラスだったと思います。

どう言えばいいんでしょうか?
ルールとかきまりとかじゃないんですよね。
怒られるからでもないんです。

先生は出て行ったらダメでしょとか
いじめられる方にも問題があるんでしょとか
そんなことどうでもいいんです。
これはどれも大人目線。大人の論理です。

先生が泣いて出て行ってしまったことに、
僕らは、
ものすごくいけないことをやってしまった。
と感じたんですね。


何度も言いますが、
僕らが、謝罪し反省し、話し合いすることに向かわせたのは、
ルールでも規則でも、ポイントがずれた大人の意見でもありませんでした。

大好きな先生が泣いて出て行ったことなんです。

その時、自分たちのやった行為が、
とんでもないことだったということに気づかされたんです。
確かにその女の子のつらさに気づいて、反省したわけではありません。
だから正当な反省ではないかもしれません。
でも、いけないことを正すのは、正当な方法一つである必要はありません。
間接的であっても、いくつもあってもいいのです。
ちょっと意味合いは違いますが、私の説明が下手なので。
親が怒らないなら、近所のおばちゃんが怒ってもいいのです。

学校教育って、こんなことなのだろうと思います。

その後も私は、この歌詞からそう逸脱しない世界で
成長していったと思います。
やんちゃなやつもいっぱいいましたが、
憎むほどの奴らではありませんでした。

そして就職。会社に入って仕事上の衝突は見ましたが、
社員皆さんが、真剣でぶつかっていたのは理解出来ました。
良い会社だと思いました。
良い人が多かったように思います。

でも時は経ち、おかしな人たちが
私の前に現れるようになりました。

私の暗黒の10年の始まりです。

この歌詞に逆らうような人です。
いい年齢になってからの初めての接触は戸惑いました。
免疫がありませんでした。
ホントにいるんだ。こんな人。
いい大人になってから、生まれて初めて、
人に対して「憎い」という感情を持ちました。


それからは、そのような類の人が増えるばかりになってきました。
残念です。
林住期になって、ぼやきも増えました。
その対象、嫌が勝つ人種が増えたためです。
今後は、もっともっと増えると思います。
いつか揺り戻しがくるまでは、この傾向は止まらないでしょう。
コロナが収束した時がその潮目となってくれることを
本気で望んでいます。

ダメ出し意見ばかりで終わってしまいましたので、
次のブログで、いろいろ提案したいと思います。

今日のおしまいに。

赤穂先生は、私の成長になくてはならない方でした。

私は、2年、3年生の時は、学校を良く休みました。
頭が痛くなったり、お腹が痛くなったりしました。
仮病ではありません。
それが証拠に、遠足の時には、
前日におやつを買いに行って、
行く気満々でした。
でも、当日、頭が痛くなったり、
お腹が痛くなったりになるんです。
友達が嫌なわけでもありませんでした。
勉強が嫌なわけでもありませんでした。
給食が嫌なわけでもありませんでした。
今でも理由は分かっていません。
でも、母親は、学校行け!の一点張りでした。
母親が妖怪である夢も良く見ました。笑うでしょ?
これ、私は本気に悩んでいました。

結構影響あったんですよね。
未だに本人には言ってませんが。

そのころ、変に”死”についてものすごく恐怖を持っていました。
6年生まで(ホントは中学校3年生)学校へ行かなくては
ならないことに絶望的な感覚を持っていました。
特に月曜日と木曜日が嫌でした。

でも、4年生になって、赤穂先生と2年目の時には
かなり前向きになっていったようです。
多分、赤穂先生のサポートがあったからのように思います。
林住期までの人生で、
一番、積極的で、頑張ったと思います。

でも、先生をいっぱい困らせたかもしれません。

感謝しかありません。

 

長くなってしまいました。