筆者は37歳になってから、若い頃からの夢だったオーボエのレッスンを始めました。
もともと音楽には異常に興味がある人間なので、何でもやって見たいのです。
(弦楽器と打楽器は全くだめですが、鍵盤楽器と木管楽器が大好きです。)
ロンドンの生活にも慣れた5年目のある日、郊外南部のブロムレイという地区の商店街にある楽器屋に入って行って、「オーボエの先生はいますか?」と聞いた所、1人だけ登録されていた名前と電話番号を教えてくれました。
何と、ミセスです。
女性の先生だと思ってウキウキしながら電話してみると、男性が出てきました。
「ミセス・カークをお願いします。」と言うと、「彼女は今外出している。何かご用?
(She is out now. Can I help you?)」 と来ました。
仕方なく「オーボエの先生を探しています。」と応えた所、
「オー、アイ キャン ヘルプ ユー!!」(I can help you! オレが教えられるぞ。)ということで、奥さんではなく旦那に教わることになりました。
もし日本なら・・・ ここで大問題が発生します。
「君はどこの大学で音楽やったの?」とか、「これから音楽でメシ食うの?」という質問が飛んできて、「オーボエは初心者です。音大は出ていません。」と応えようものなら、「本職になる気のないヤツには教えないよ」でガチャリ。
「お勉強しなければ教えない」のが日本流です。
英国流は?
多分、個人によって対応が違うのでしょうが、素人でも別に問題にされません。
「初心者だって? 分かった。それなら、ビギナー用のリードが要るな。私が作ってあげよう。
レッスンのペースは週1回にするかい、それとも隔週にするかい?
仕事の都合で分からない? OK. それならレッスン毎に次回の日取りを決めよう。
それから、楽器はどうしてる? これから買う? それじゃ、探してあげよう。」
という具合に、粛々と話しが進んで行きます。
生徒のレベルに応じた教授方法が確立されている感じがしました。
で、まとまった話は、翌週から先生が我が家に出張レッスンをしてくれること、授業料は1回20ポンド(当時4,500円程度、現地の生活感覚なら8,000円位)、楽器を探してくれ、リード(口に挟んで音を出す部分)も作ってもらえること、当然教科書も先生が選んでくれること、等です。
さて、初回のレッスンの日(土曜日)の午後4時、カーク先生が我が家に到着しました。
乗ってきた車は、古~いシトロエン(小さな丸い車体で、細いフレームにガラスがはめてあり、時々コメディ映画で使われるヤツ)です。
相当のマニアかな? と思って出迎えると、30代後半と思われる中背でガッシリした体格にもかかわらず、丸顔で優しそうなイギリス人が「ハロー、ヒロキ. アイム ジュリアン.」と入って来ました。
この先生、異邦人に教えるのが珍しくて楽しいらしく、懇切丁寧に教えてくれます。
楽器もちゃんと見つけてくれ、「この間引退したプロが控えの楽器として持っていたもので、英国のトップメーカー、ハワーズの1599番、1952年製・・・」
「日本の湿度に耐えられるかって? これ位年季が入っていれば木も安定しているから大丈夫。」
「リードも2個作ってあげた。」
という具合に、至れり尽くせりです。
ここまで親切にしてもらうと、こっちも良い気分で、先生の言う通りの値段で引き取りました。
楽器の値段は800ポンド、リードは1個5ポンド。
高いのか、安いのか全く分かりません。
日本人らしく、とりあえず言い値を受け入れたので、先生は大喜びの様子でした。
余談ですが・・・
日本人の金銭感覚は欧米人には奇異に映っていたようです。
BBCの夜のドキュメンタリーに、1990年頃ソ連混乱時のモスクワの娼婦の話が紹介されていました。
裏ルートで外人専用バーに出入りし、50ドルで客の相手をしていたのですが、日本人の商社マン風の4人組との交渉では、最初の提示が何と200ドルです。
そこで日本人同士がヒソヒソ話しをするのですが、これが全て放送されてしまいました。
駐在員らしい人が「200ドルだって、どうする?」、 出張者らしい人「ちょっと高いね。」
ロシア語を話せる駐在員が彼女と交渉し、「100ドル、これ以下なら寝ないって言ってるよ。」 「まあ、いいか。」
この日本語のやりとりが、そのまま夜の英国全土に放送されたと思うと恥ずかい限りですが、
何のことはない、自分も相手の言いなりで物を買う1人でした。
それでも、自分の場合は珍しいものを手に入れたのだから、「マ、いいか」と自分を慰めたものです。
コレクターの心境です。
で、カーク先生、1時間の予定で親切に教えてくれるのですが、生徒のこちらが保ちません。
30分位経つと、唇の筋肉がへばって(口が笑って)音を出せなくなるのです。
先生、それも見越していたようで、次回までの宿題を出して早めにおしまい、です。
さあ、そこからがまた英国流。
何だと思いますか?
・・・ ヒントは、「土曜日の午後5時」です。
そう、ティータイムです。
別室で子供と共に待っていた妻が出てきてお茶を薦めると喜んで応じてくれ、彼女の自慢のケーキと紅茶で世間話しを楽しんで帰るのが、当に英国流です。
ちなみに、我が奥さんは中学生の頃から共稼ぎ世帯で主婦の代りをし、京都の短大家政科で料理を「勉強」した人なので、和食も洋食も、料理もお菓子もとても上手なのです。
彼女自慢のケーキを楽しんだカーク先生、授業料(現金)と楽器代の小切手を手に、ご機嫌で帰っていただきました。
その後、帰国まで10回ほどレッスンをしていただいたのですが、練習嫌いの筆者、仕事にかこつけて練習をサボることもしばしばです。
それでも先生は、「それなら、こうしよう。」と言う具合にちゃんと生徒に合わせてくれるのです。それも自然に。
日本の先生なら怒る所なのに、平然と対応してくれました。
やはり、伝統があって、生活に溶け込んだ文化は裾野が広く、許容度も大きなものです。