今日で雲仙普賢岳火砕流災害から30年.あっという間だったような感じが強い.

 

1991年当時,雲仙普賢岳で火砕流が出ているという情報を聞いて,6月2,3日に現地入りする予定でいたのだが,授業の都合だったか,錯綜する中では邪魔になることを考えてだったか忘れたが,予定を延ばしたら,3日に比較的大きな火砕流で死者が出たとのことで,結局現地入りできたのは2月以上遅れて8月中旬だった.

 

火砕流で亡くなった,モーリス・クラフトとは桜島の国際学会で,ハリー・グリッケンとは鳥海山巡検の宿の風呂で話したことはあったが,足を伸ばしてきていたとは言え,一気に規模の大きな火砕流に襲われた*のは不運だったとも云えるし,危険を考えると避難勧告区域に入るのは差し控えるべきだった,とも云えるが,いずれにしても結果論.ただ,巻き込まれた運転手さん達のことを考えるとマズかった.

 

8月以降,大学合同観測班に入れて頂き,結局,1週間の当番を10回担当して現地を訪ね,SEVO(九大島原地震火山観測所)と自衛隊のヘリにお世話になった.現地の当番に行くと,天気が良ければ,毎朝(時には晩も)ヘリの搭乗があり30-50分程度,多くの場合SEVOの方や他の観測班の方と一緒.自衛隊のパイロットも心得て,ドームや火砕流が良く映る様に方向・高度を考えて飛んでくださったので貴重な写真を多く撮ることができた.降りた後すぐに写真屋に行って現像・プリントしてもらって搭乗日誌に貼り付けたりした.カメラは望遠ズームと普通の一眼レフの2台を使っていた.1週間で10本程度(36枚撮り).

 

10年前に定年退職になって,フィルムの段ボールをどうしようかと思っていた.数年前に,フィルムメーカーのデジタル化のサービスを知り,全部デジタル化した.40年近くでたまったフィルム全部で400本余り(少ない?!).CDにすると3枚に収まった.これでpcで簡単に昔の写真を見ることができるようになった.せっかくの貴重な映像だが,なかなか今更論文にすることもできずにいたが,最近,溶岩ローブの粘性の論文で流れなかった,というのが印刷になったので,それはないだろう,という討論をJpGUに申し込んだので,少し昔の映像を生かすことができそうだ.

 

いろいろあったが,今日3日は鎮魂の日,火砕流の情景を思いながら黙祷.

 

* 雲仙での崩落型火砕流の規模頻度分布(神定1993)によると,大半の火砕流は溶岩ローブ先頭の1ブロックの崩落で生じており規模が小さく一定のサイズであるが,数少ない大規模崩落は頻度―サイズ分布がべき分布をしており予測が困難.小規模と大規模の遷移の条件はまだ火山学で分かっていない問題.そういう意味で6月3日の大火砕流災害は不運でもあったと思う.