昨日が、福山博之・柵山雅則両氏と堀越君がアイスランドでの事故で亡くなって30年目であることに今日気がついた。地質学雑誌(1984)の追悼文 http://ci.nii.ac.jp/els/110003023460.pdf?id=ART0003467877&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1407754034&cp=

中村保夫さんが追悼文で書かれているように、二人とも当時の日本の、そして世界の火山学を引っ張っていた人材だった。30年経って、我々の世代がほぼ結果が出てしまってみると彼等が元気であったらどれほどの仕事を成し遂げたであろうかと改めて思う。

福山さんは私と同い年(1947年)生まれだったが、フィールド調査から、全岩化学分析、元素分配、高温高圧物性測定実験(+音楽)まで、多才であった。彼と私はほぼ同時に玄武岩マグマのニッケル量を用いて初生マグマ判定法を提案したが、論文にするのが私の方が早く、一歩違いだった (1977Lithos, 福山氏は学位論文で1978) 。日本で火山岩の溶融実験を行うラボがなく、私は1995年頃から高橋栄一さんや中村美千彦さんに教えてもらって雲仙daciteの相平衡実験を行ったが、福山さんが居られたら彼が上手にやって私の出る幕は無かったろうと思う。日本の実験火山岩石学の厚みが全然違っていただろう。

柵山さんは5歳下だったが、短時間のうちに島弧火山岩でのマグマ混合過程の重要性を立証し、火山学の中心人物の一人であった。人柄の良さとバイタリティで周囲を活気つかせてくれた。彼が元気だったらどのような方向で研究を進めたか、英国留学では地球化学から島弧火山岩の成因を攻めていたが、もう一つは防災がらみで火山学に取り組んだ可能性も考えられる。兎も角、影響力の大きな人物だったので多くの若手を火山学に向かわせたに違いない。また、日本の火山学会は彼が居たらかなり違った雰囲気になったように思う。息子さんの一人の徹也君が同じ道を歩んでいるが、じっくりながら大きな論文を書いていて目が離せない。