去年の8月、ヨーキーというバンドが解散した。
このヨーキーについて、その前身となったTheBacuuneについてガッツリ書こうと思う。
長くなるので、御容赦。
ヨーキーの前にやっていたTheBacuuneというバンド、メンバーは元晴晴"ボーカル井田、同じく元晴晴"ベース内田に、中学の同級生だった大日方がドラムのスリーピースバンド(後に井田妹のこのかがギターで入る)。
このバンド、実に先進的過ぎてまったくと言っていいほど受けなかった。
晴晴"の後だったこともあるのか、かなり内向的なバンドだった。
井田氏がすべてを担っていた楽曲は異彩を放った。
知る人ぞ知るrevolver/BadGirlfriendはおそらく名曲である。
BadGirlは二兎を追う者は一兎をも得ずという、私の実体験も混じった歌詞で結構気に行っている。
ベースラインもカッコイイのだ。
思えば、矛盾が同居していたバンドだったのだ。
お客さんに向け聴いてもらうというよりは、放っていた。
熱のこもった声を、うねりの効いた楽器を、メロディにのせ、解き放っていた。
聴いてほしい、けど理解されなくていい、ただここにいること、ライブをしている時が限りなく気持ち良くなれること。絶望と希望を。
アドレナリン全開でライブをした。
周りから見れば下手くそなバンドだっただろう。
リハはおろかレコーディングでさえクリックを使わなかったのは脅威だ。
てんでバラバラな演奏でも心を込めた。
だから、心に響いた人は確かにいたと思う。
うまく言えないが、悲しみに溢れて輝いていたバンドであり、曲達だった。
そのTheBacuuneがなぜ解散し、ヨーキーになったのか。
答えはシンプルだ。
現実を見たのだ。
井田と確かドトールで話し合った結果だったが、ものすごい冷静にこのバンドでは飯は食えないと判断した。
その当時24歳、周りも結婚しだして、子供がいる同級生も増えてきた。
皆が皆ではないが、必死に少しでも安定して、大切な人を守ろうとしていた。
それは素晴らしいこと、生き甲斐になること、誰だって不安定の中生きるのは嫌なのだ。
例に漏れず自分も不安定の中を彷徨っていたし、不安の中を生きていた。
どうすればフリーターから抜け出せるのか、どうすれば彼女と結婚できるのか、どうすれば音楽で飯が食えるのか、どうすれば、、、。
考えた結果、音楽で結果を出すしかない。
もう一度デビューして結果を出すしかないと。
そのためには力が必要だった。
経験と音楽に対する情熱を持った、ロンドンからの留学帰りでひと味もふた味も成長した、元晴晴"ドラムのハルナが。
時を同じくして、ドラム大日方が脱退し、ハルナが加入。
ヨーキーは結成した。
年齢的にもこれが最後のチャンスという思いと覚悟が、多分メンバーそれぞれにあったと思う。
洗練されたポップな楽曲、胸を掴むような歌詞、数年前とは比べ物にならない演奏。井田の声。
聴き手を強烈に意識し作り上げたバンド、ヨーキーは様々な方の助けを借り成長した。
ライブを重ねる毎にその精度は増した。
本当に何もかも上手く事が運んでいた。
数ヶ月後、デビューまで後少しの所で事件は起きる。
忘れもしない、7月の渋谷2days。
初日O-crest。
音楽関係者数十人、某レコード会社取締役の方も訪れたこのライブでヨーキーは失敗をする。
失敗と言ったらそれまでだが、緊張が裏目にでた。
いつもはまったく緊張しない自分でさえ、胃が痛くなり座り込んでしまうほどの緊張があった。
本番直前に曲順を変えなければならない不測の事態もあり、対応しようといつもと違うプレッシャーがかかった。
音楽という、文字通り音を楽しむ余裕はそこになかった。
ライブは生ものだ。いい時もあれば、悪い時もある。
それを毎回しっかり平均点を、もしくはそれ以上を出すのがプロだ。
ヨーキーはその日平均点を下回るライブをした。
神のイタズラ以外の何でもない。
何もかも上手くいっていた矢先の出来事だったので、落ち込みも一際だった。
挨拶回りも程々に、夜の反省会はメンバー皆顔が上がらなかった。
明日もライブだというのに色んな感情が渦を巻いて襲い掛かってきた。
それでも気持ちを切り替えてやるしかない。
これも人生に必要なことと割り切って。
次の日のライブは楽しむことに重点を置いてやった。
ライブ自体は前の日の出来を払拭するかのような、良いライブが出来た。
近しい方が言った。
昨日このライブが出来ていれば...と。
確かにそうなっていればまた違った人生が、違う道が広がっただろう。
けど、実際はそうはならなかった。
現実はここにある。パラレルワールドにはどうあがいても行けないのである。
その日を境にヨーキーは楽曲制作に入る。
周りの度肝を抜かすような楽曲をつくるため。
事実、ハルナが作ってきた「サクラ」は名曲の匂いがした。
まだやれる、道はまだ残っている、そう思っていた矢先に更なる事件が起きる。
ボーカル井田がバンドを辞めると言い出したのだ。
バンドを、音楽を辞めると言うのだ。
10年連れ添った相方の発言に、はじめは冷静を装ったものの久々に度肝を抜かれた。
詳しくは書かないが、その時彼を取り巻く環境は本当に厳しいものだった。
彼一人を責めることは出来ない。
環境が、タイミングが、運が、様々な要素が複雑に絡み合って物事は起こる。
その中で人は精一杯の決断をする。
選択をする。
当時は自分も混乱の真っ只中にあって、彼を支えられなかった事が今は悔やまれる。
ハルナも俺も説得を続けた。
時には感情的になって。
話し合いは何度も続いた。
そりゃそうだ。人生を賭けて、これが最後のチャンスだと思ってやってきたのだ。
事実、まだチャンスは目の前にあったのに。
しかし、説得も虚しく彼の決断は覆りはしなかった。
そして、ヨーキーは解散。あまりに早過ぎる解散。
色んな方に迷惑をかけ、色んな方の期待を裏切っての解散だった。
この解散から、しばらくは途方に暮れた。
この頃彼女にも振られた。
バンドをなくし、最愛の人を失って、正直生きる希望が見出せなかった。
それでも日々は流れたし、息は続いてた。
この先どうするのか、毎日考えてばかりいた。
それでも、この解散から学んだ事がいくつかある。
ひとつは自分の人生は自分で決めるということ。
俺の人生は誰かの人生ではなく、俺自身で完結する物語なのだ。
親や、先生が決めれるものじゃない。
もうひとつは、思い通りにいかない事が世の中にはたくさんあるということ。
儚いが、どんなに強く願っても叶わない願いもある。
そういうことを少しずつ受け入れる事が出来てきたのも、歳を重ねてきた証だと思う。
かくして、バンドを失い音楽から離れる日々が始まった。
今から僅か9ヶ月前の話だ。
ちなみにこれまでの話はだいぶ主観的なので、ちょっと?な部分もあるかもしれないが、それは僕のblogなのであしからず
このヨーキーについて、その前身となったTheBacuuneについてガッツリ書こうと思う。
長くなるので、御容赦。
ヨーキーの前にやっていたTheBacuuneというバンド、メンバーは元晴晴"ボーカル井田、同じく元晴晴"ベース内田に、中学の同級生だった大日方がドラムのスリーピースバンド(後に井田妹のこのかがギターで入る)。
このバンド、実に先進的過ぎてまったくと言っていいほど受けなかった。
晴晴"の後だったこともあるのか、かなり内向的なバンドだった。
井田氏がすべてを担っていた楽曲は異彩を放った。
知る人ぞ知るrevolver/BadGirlfriendはおそらく名曲である。
BadGirlは二兎を追う者は一兎をも得ずという、私の実体験も混じった歌詞で結構気に行っている。
ベースラインもカッコイイのだ。
思えば、矛盾が同居していたバンドだったのだ。
お客さんに向け聴いてもらうというよりは、放っていた。
熱のこもった声を、うねりの効いた楽器を、メロディにのせ、解き放っていた。
聴いてほしい、けど理解されなくていい、ただここにいること、ライブをしている時が限りなく気持ち良くなれること。絶望と希望を。
アドレナリン全開でライブをした。
周りから見れば下手くそなバンドだっただろう。
リハはおろかレコーディングでさえクリックを使わなかったのは脅威だ。
てんでバラバラな演奏でも心を込めた。
だから、心に響いた人は確かにいたと思う。
うまく言えないが、悲しみに溢れて輝いていたバンドであり、曲達だった。
そのTheBacuuneがなぜ解散し、ヨーキーになったのか。
答えはシンプルだ。
現実を見たのだ。
井田と確かドトールで話し合った結果だったが、ものすごい冷静にこのバンドでは飯は食えないと判断した。
その当時24歳、周りも結婚しだして、子供がいる同級生も増えてきた。
皆が皆ではないが、必死に少しでも安定して、大切な人を守ろうとしていた。
それは素晴らしいこと、生き甲斐になること、誰だって不安定の中生きるのは嫌なのだ。
例に漏れず自分も不安定の中を彷徨っていたし、不安の中を生きていた。
どうすればフリーターから抜け出せるのか、どうすれば彼女と結婚できるのか、どうすれば音楽で飯が食えるのか、どうすれば、、、。
考えた結果、音楽で結果を出すしかない。
もう一度デビューして結果を出すしかないと。
そのためには力が必要だった。
経験と音楽に対する情熱を持った、ロンドンからの留学帰りでひと味もふた味も成長した、元晴晴"ドラムのハルナが。
時を同じくして、ドラム大日方が脱退し、ハルナが加入。
ヨーキーは結成した。
年齢的にもこれが最後のチャンスという思いと覚悟が、多分メンバーそれぞれにあったと思う。
洗練されたポップな楽曲、胸を掴むような歌詞、数年前とは比べ物にならない演奏。井田の声。
聴き手を強烈に意識し作り上げたバンド、ヨーキーは様々な方の助けを借り成長した。
ライブを重ねる毎にその精度は増した。
本当に何もかも上手く事が運んでいた。
数ヶ月後、デビューまで後少しの所で事件は起きる。
忘れもしない、7月の渋谷2days。
初日O-crest。
音楽関係者数十人、某レコード会社取締役の方も訪れたこのライブでヨーキーは失敗をする。
失敗と言ったらそれまでだが、緊張が裏目にでた。
いつもはまったく緊張しない自分でさえ、胃が痛くなり座り込んでしまうほどの緊張があった。
本番直前に曲順を変えなければならない不測の事態もあり、対応しようといつもと違うプレッシャーがかかった。
音楽という、文字通り音を楽しむ余裕はそこになかった。
ライブは生ものだ。いい時もあれば、悪い時もある。
それを毎回しっかり平均点を、もしくはそれ以上を出すのがプロだ。
ヨーキーはその日平均点を下回るライブをした。
神のイタズラ以外の何でもない。
何もかも上手くいっていた矢先の出来事だったので、落ち込みも一際だった。
挨拶回りも程々に、夜の反省会はメンバー皆顔が上がらなかった。
明日もライブだというのに色んな感情が渦を巻いて襲い掛かってきた。
それでも気持ちを切り替えてやるしかない。
これも人生に必要なことと割り切って。
次の日のライブは楽しむことに重点を置いてやった。
ライブ自体は前の日の出来を払拭するかのような、良いライブが出来た。
近しい方が言った。
昨日このライブが出来ていれば...と。
確かにそうなっていればまた違った人生が、違う道が広がっただろう。
けど、実際はそうはならなかった。
現実はここにある。パラレルワールドにはどうあがいても行けないのである。
その日を境にヨーキーは楽曲制作に入る。
周りの度肝を抜かすような楽曲をつくるため。
事実、ハルナが作ってきた「サクラ」は名曲の匂いがした。
まだやれる、道はまだ残っている、そう思っていた矢先に更なる事件が起きる。
ボーカル井田がバンドを辞めると言い出したのだ。
バンドを、音楽を辞めると言うのだ。
10年連れ添った相方の発言に、はじめは冷静を装ったものの久々に度肝を抜かれた。
詳しくは書かないが、その時彼を取り巻く環境は本当に厳しいものだった。
彼一人を責めることは出来ない。
環境が、タイミングが、運が、様々な要素が複雑に絡み合って物事は起こる。
その中で人は精一杯の決断をする。
選択をする。
当時は自分も混乱の真っ只中にあって、彼を支えられなかった事が今は悔やまれる。
ハルナも俺も説得を続けた。
時には感情的になって。
話し合いは何度も続いた。
そりゃそうだ。人生を賭けて、これが最後のチャンスだと思ってやってきたのだ。
事実、まだチャンスは目の前にあったのに。
しかし、説得も虚しく彼の決断は覆りはしなかった。
そして、ヨーキーは解散。あまりに早過ぎる解散。
色んな方に迷惑をかけ、色んな方の期待を裏切っての解散だった。
この解散から、しばらくは途方に暮れた。
この頃彼女にも振られた。
バンドをなくし、最愛の人を失って、正直生きる希望が見出せなかった。
それでも日々は流れたし、息は続いてた。
この先どうするのか、毎日考えてばかりいた。
それでも、この解散から学んだ事がいくつかある。
ひとつは自分の人生は自分で決めるということ。
俺の人生は誰かの人生ではなく、俺自身で完結する物語なのだ。
親や、先生が決めれるものじゃない。
もうひとつは、思い通りにいかない事が世の中にはたくさんあるということ。
儚いが、どんなに強く願っても叶わない願いもある。
そういうことを少しずつ受け入れる事が出来てきたのも、歳を重ねてきた証だと思う。
かくして、バンドを失い音楽から離れる日々が始まった。
今から僅か9ヶ月前の話だ。
ちなみにこれまでの話はだいぶ主観的なので、ちょっと?な部分もあるかもしれないが、それは僕のblogなのであしからず