音の意味を聴く(音を記号として聴く)のではなく場全体の音のうねりを聴くことは、場に存在する力の交錯を聴くことであり、力の動きをもたらす物質の接触を聴くことである。そして演奏者は自身もそこにまたもう一つの力を与える存在として居る。
ここまで考えてみて、私はやはり「場に存在する力の交錯」、つまり動きの海や、放電されたエネルギーの彷徨う様に特に興味を感じる。このような状態を体感したいし、その一部でありたい。これは私にとって非常に重要で、言語化はできなかったが音楽を始めた頃にもぼんやりとそんなことを考えていた。
思考を進めると、「場に存在する力の交錯を捉えること」のために「音を記号として聴かない」ということが絶対必要な条件であるのかという疑問も感じる。もちろんその流れはとても分かりやすいが、ある種のエクササイズと見ることもできないだろうか?「音を記号として聴かない」聴き方によって「場に存在する力の交錯を捉えること」がスムーズにできるようになるが、そもそも場にはいついかなる時にも力の交錯はあり、それへの気づきを促してくれるものとして捉えることができる。「場に存在する力の交錯を捉えること」を中心に据えて考えてみると、そのための聴き方についてはまだまだいくつか別のやり方が浮かび上がってきそうだ。