hiroshi kato
  • 04Feb
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      3/11,13

      「FISSION(分裂) and FUSION(融合) — POST/PHOTOGRAPHY 2011-21 3.11から10年目の、写真の今と未来」展「FISSION(分裂) and FUSION(融合) − POST/PHOTOGRAPHY 2011-21 3.11から10年目の、写真の今と未来」展 – 銀座奥野ビル306号室プロジェクトroom306project.tokyoこちらの展覧会に演奏で参加させていただきます。3月11日(木) 14:46〜3月13日(土) 14:46〜、19:00〜各回演奏時間30分ほど入場無料作品の展示はせず、演奏のみです。3.11直結の展覧会ですが基本的にはいつもと同じ感覚で演奏します。というよりも、3.11は現在特に日本を拠点にして演奏活動をしてる人全員に影響を与えていると思います。音にその影響を意味付ける人もいるでしょう。音を意味付ける音楽とは別の音楽を志向する人も意識の底には3.11の影響はあるはずです。そもそも音楽家であろうがなかろうが3.11について自分なりに考えたことがある人は誰もがそうなのではないでしょうか?それぐらい3.11は人の感情や在り方までも揺さぶったと思いますし、3.11がない並行世界の2021年の音楽がどうなっているのか想像がつきません。つまり3.11とはあえて言及するまでもなく誰もが抱えているものなのですが、人はすぐ忘れがちな生き物ですので、時々は意識した方がいいのかもしれないと思います。自分が今3.11について改めて考えてみようと思った理由の一つとしてコロナがあります。おそらくコロナも3.11同様に以後の人の在り方の基盤の一つになるはずです。それ以前の在り方にはもう戻れないぐらいに冷酷に世界が分岐してしまいました。重要なのはその現象が良いか悪いか判断することではなく、世界が分節されたという事実をそのまま受け入れることです。感情面で難しい人もいるかもしれませんが、まずその認識を意識的にしたか否かで個人の在り方の居どころみたいなものが明らかになります。分節を意識的に認識することは、長じると個人個人がそれぞれの在り方で世界を認識することにつながります。今回タイトルに分裂と融合と書いてありました。ということは複数の存在があり、それぞれの境界線上において何らかの現象が起こっているのでしょう。ではその境界とは一体何か。大抵の境界は制度や社会に束縛されています。ではその束縛を逃れて個人の意識によってなされる境界はないのでしょうか?自分はあると思っています。それに気づくために分節された物事の構造を捉えて、さらに自分のやり方で構造を受け入れるという営みは必要になります。長くなってしまいましたがこの文章はもっと膨大な補足が必要ですね。。とにかく、自分は上記の営みとして今回3.11に向き合おうと思います。実際には自分にとってこの営みは常時発動中ですので全く特別なことではありません。このように文章化することで読んで下さった方に考えの一端が伝われば幸いです。

  • 17Jan
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      2/4 at 306

      2月4日(木)@銀座 奥野ビル306号室(https://room306project.tokyo)open 18:30 start 19:001000円出演石川高(笙)加藤裕士(エレクトロニクス)※感染状況次第では直前の中止の可能性もございます※20時前に終演予定です※お問い合わせ:hrsh.kato@gmail.com(加藤)

  • 17Dec
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      1/24 at 極楽寺 anoxia

      1月24日(日)open 14:30 start 15:00入場無料出演加藤裕士@極楽寺 anoxia神奈川県鎌倉市極楽寺1-5-2稲村ヶ崎マンションD3※江ノ島電鉄 極楽寺駅から徒歩5分※演奏中も窓を開けて換気しますので暖かい服装でお越しください※消毒液・マスクのご用意をいたしますお問い合わせ:hrsh.kato@gmail.com(加藤)

  • 23Nov
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      12/22 孔

      『孔』12月22日(火)@銀座 奥野ビル306号室(https://room306project.tokyo)start 19:301000円出演加藤裕士

  • 18Nov
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      11/27 at Permian

      11月27日(金)@不動前 Permian(http://www.permian.tokyo)start 20:001000円〜3000円の任意出演加藤裕士

  • 27Oct
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      11/14 みみをすます

      【津田貴司ワークショップ『みみをすます in 北鎌倉』】◎秋の北鎌倉に、耳のピクニックに出かけてみませんか?◎簡単なガイダンスの後、2時間程度ゆっくり歩きながら行います。いつもの散歩道も、注意してみみをすますと、驚くほど豊かな音の風景が広がります。「音を聴く」ことから始めて、「静けさを聴く」「みみをすます」という3つの意識状態をガイドする予定です。◎どなたでもご参加いただけますが、野外でのワークショップですので、各自で水筒や日除け、雨具等のご用意をお願いいたします。スニーカーなど、歩きやすい服装でご参加ください。 (集合後すぐに移動しますので、集合時間に遅れないようご注意ください)日時:2020年11月14日(土)集合時間:11:00(13:30頃終了予定)集合場所:JR北鎌倉駅北口参加費:1000円お問い合わせ先:hrsh.kato@gmail.com(加藤)企画:北鎌倉anoxia

  • 25Sep
    • 11/2〜11/8 10周年記念企画展 −306−

      「10周年記念企画展 −306−」2020年 11月 2日 (月) – 11月 8日(土)  13 : 00 – 19 : 00 (最終日 9 : 30 – 17 : 00)中央区まるごとミュージアム参加イベント メンバー全員による大展覧会◼︎ 参 加 ◼︎石川信行 大西みつぐ 奥野景子 奥野亜男 押田美保 小野寺純乃 加藤裕士 貴石堂摩耶 清武愛流 黑多弘文 今道子 斎藤もとすがわらたかみ 髙橋淳子 高橋淳平 田口賢治 田島木綿 西田省吾 西松典宏 野口多嘉子 野村とし子 野村秀樹 馬場薫子 比留間雅人 福家由美子 藤井紀子 藤田浩司 藤原成章 松田ふみ子 森谷謙一郎※中央区まるごとミュージアム当日(11月8日)は、開閉室時間が異なります。ご注意下さい。@銀座奥野ビル306号室https://room306project.tokyo

    • 10/30 孔

      小津安二郎の晩年の家に向かうと思われるトンネルを発見しました。北鎌倉は(鎌倉市内どこもそうな気がしますが)やぐらだったり小さいトンネルがとても多いです。風景にところどころ孔が空いているという印象があります。切通しもかなりヤバい。孔の向こう側は人間社会の表層に覆われていない状態であり、姿形のない存在が当たり前に存在していると思いたいです。そんな孔の一つが芸術であるはずだし、よく考えてみると孔は日常の至る所にあるのかもしれません。それに気づくか気づかないかはその人次第な気がします。『孔』10月30日(金)@銀座 奥野ビル306号室(https://room306project.tokyo)open/start 19:30/20:001000円出演加藤裕士

  • 10Sep
    • 10/9 at Permian

      10月9日(金)@不動前 Permian(http://www.permian.tokyo)start 20:001000円〜3000円の任意出演秋山徹次加藤裕士

  • 30Aug
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      音楽→心や感情に響くもの→心や感情とは?→現実的・制度的なものも、そうではない領域も感じている→演奏や作曲もそのような名前の付けられない領域と相対しなくてはいけない姿形のないもの→目には見えないが気配がある、気になる→上記した名前の付けられない領域に属する事柄なのかもしれない→音楽は元々そういった事柄に向き合っていた(鎮魂、祈り、祭事など)→ならば自分の音楽も真正面からそういった事柄に向き合おう→→その結果心に響く音楽が生まれたら嬉しい→具体的な方法論はあるともないとも言える→少なくともただ音を出したら音楽になる訳ではない→自分なりの作法とでも言えるのだろうか、そういったものを自分で作った→それについては書かない

  • 26Aug
    • 2

      心が反応することは現実的・制度的なものだけではなく名前のつけられない曖昧なものや五感程度では知覚できないものもある。むしろ後者の方が圧倒的に多いはずで、そこに目を向けないのには違和感がある。音楽はそんな心に直接響かせなくてはいけない。姿形のないものに向ける意識は鳴らす音楽と直結している。姿形のないものは超自然的な存在であるとともに、個人の心が生み出す概念でもあるのだろう。超自然的な存在も認識されない限り存在しないと同意で、それは物質的な存在と同じだと思う。認識ではなくても想像するだけでもいい。想像した時点でそこに存在することになる。感覚器官の働きとその全体に深く関わる心の動き(ちなみに、「心」も何らかの感覚器官、ないしは感覚器官によってもたらされる物理現象とする考え方もあるだろう)は同時進行し境界は融解する。(そもそも、すべての境界は融解しているが、その上で境界を見つめ直す作業をしなくてはいけない)

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      自分はなぜ姿形のないものを知覚したいという欲求があるのだろうか?何者かの気配の正体を知りたい。この感覚は幼少の頃からあるし、たぶん本当に何かがいる訳ではなく自分の脳内で作り出された幻なのだろう。しかし、その脳内の動きにむしろ興味を覚える。(それは脳内だけなのかという別の問いもある)この追求と音楽への追求は実は同じ道程であると思っている。姿形のないものと言ってもオカルト一辺倒で考えている訳ではなく何かを感じる人間の心を見つめたいし、そのためにはある種の技術がいる。祈りや儀式、呪術とかは姿形のないものと関係を持つために生み出した技術だ。重要なことは技術そのものではなくそれを生み出し用いる人の心なのは言うまでもない。音楽にも方法があるがこれらは同種の技術なのだろう。一部の音楽がオカルト・スピリチュアルな感じがあったり、実際に音楽家がそういうことを言うことがある。自分はそういったものが苦手で、音楽とそういうことは別にしてくれと今でも思うが、音楽を掘り下げて考えると姿形のないものとの関係を切り離すことはむしろ難しくなってくる。加藤はスピリチュアルになったと思われるのだろうか。まあそれはどうでもいいのだが、音楽の一番大事なことは人の心であるという意見を否定することはなかなか難しいだろう。人の心にもいろいろあって、現実的な恋愛感情や世間への不平不満などももちろん人の心の一つだろうけどこれらが音楽全体を成り立たせられるとはちょっと思えない。そもそもタグ付けのできない曖昧な動きが心の大部分を占めているはずで、恋愛感情や不平不満はその中の一部に過ぎない(全体に含まれている)。心は巨大・広大すぎる。心全体と相対しようと思った時、鳴っている音も鳴っていない音とも全力で関わっていかなくてはいけないと思う。

  • 09Aug
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      生き生きとした生命の躍動みたいなものを音楽から感じるだろうか。特に即興演奏は生の音楽だと感じやすいかもしれない。また、生演奏の現場は人間の生命力の発露だと考えられる。そこが大きな魅力であることは間違いない。もちろん自分もそういった要素を好ましく思っているし、たまにとても幸せな気分になる。が、個人的にはそれだけの認識だと少々寂しい。単純な対比になってしまうが「死」がないと心に響いてこない。死の匂いがしますね〜とか死体があればそれでいいというのはもちろん違う。死の抽象化というか少しずれるとロマンチシズムになるものではなく、何かを意味するために死体が配置されていますでもなく、具体的に直接に死を実感させて欲しい。具体的な死と言われても困ってしまうが。遺体を前にした時の恐怖・不安・気持ち悪さなどといった感情はとても大事なのではないかと思う。そして、キャパオーバーになった感情たちが向かう畏怖の念。結局、この畏怖の念がなくてはいけないのだろうな。当たり前ですが鎮魂はここから始まる。畏怖の念を何らかの形で昇華したいという願いや祈りや行き場のない想いが形になってしまったものが原初の音楽の一つなのでは。というか音楽はそもそもそういうものなのでは。何が言いたいのかというと、自分も含めて死や人知を超えた存在への畏怖の念がない音楽が非常に多いんじゃないかなということです。油断してるとすぐに刺激とか快楽に向かっちゃうのか。あ、そうでもないのかな?もちろん極少数の音楽からは畏怖の念を感じます。もし音楽を演奏する全ての人が(つまり全人類が)畏怖の念を持って演奏しているとすると世界はこんなことになっていない気がします。とにかく、まず自分はそこを大事にやっていきたいと思いますし、他の方がこのことについてどう考えるのか聞いてみたいです。

  • 06Aug
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      ある種の気配がある。この先の領域はこれまでとは断絶されており恐怖・不安・得体の知れなさを感じて心許ないのだが、なぜか不快ではない。それどころか快さまで感じてしまうし、もう戻ってこれなくてもいいかなとまで思ってしまう。自分には認識すら不可能な巨大な何かに対する畏怖は小さな自分の自我を超えたものと接触する喜びを与えてくれる。この気配との遭遇は東京ではとても稀だ。全くないわけではないが、条件がかなり絞られるのだろうと思う。東京以外だといくらでも感じることができるのに。これは神と呼べるのかな?呼び名は何でもいいかなと思うけれど。この感覚を始めて実感したのは覚えてないくらい幼い頃だったし、おそらくその後成長とともに変化しているのだとは思うが、未だに求めてしまうのはなぜなのだろうか?

  • 31Jul
    • 奥野ビル306号室プロジェクト 10周年記念冊子掲載原稿

      「中央区まるごとミュージアム」の一環として2018年10月と2019年10月に「オープンマイク」というイベントを開催しました。オープンマイクとは、客が飛び入りで自身の表現を発表するというイベント形態です。表現発表の場として参加のハードルが低いため活動初期の作家の受け皿になりやすいですし、人の交流が生まれやすいのでこれをきっかけに新規のプロジェクトが発生する可能性も高いです。表現者の流動的な出会いの場と言えます。表現の内容は店や主催者の意向でいくらでも変わり得るのですが、私の場合は音楽演奏・詩の朗読・身体表現などから自身の創作した作品についての談話まで基本的には何でも発表可能という趣旨にしました。表現の形態や方法の違いを見るのではなく、現代における表現の核のようなものを探索したいという想いがあり企画しました。 実際の現場では、私が10分〜20分ほどの演奏を断続的に行いそれを軸に参加者同士が表現について言葉を交わすという状況が大部分を占めました。自身の表現を発表される方はいなかったのですが、その分談話が濃密になりました。ちなみに私の行う演奏内容は、テープレコーダーやマイクロフォン、シンセサイザーといった機材から発生する電子音による即興演奏を主としています。単独のメロディーやビートが明確にある訳ではなく、音の組織を把握することは困難だと思います。しかし、組織化をしないことによって一音一音の在り方は無限の可能性を持っていたのだということが明らかになります。私はその状態をとても好ましいと考えています。そして、その可能性の束を演奏を通して目に見える形にすることによって音楽が成されていきます。私の演奏がこのような思想のうえで成り立っているため、参加者との談話もそれを踏まえた内容になりました。 話題の一つとして重要だったことは、私の演奏における考え方と306号室の在り方との共通点についてでした。306号室はある特定の芸術を発表するためだけの場ではありません。そもそもこの部屋はある個人の生きた痕跡が堆積した部屋であり、それに伴って時代や歴史もまた積み重ねられています。この強烈な要素が前提となる作品には、空間とより密接な結び付きを持ち、そのうえで無数の可能性の広がりがあります。このような話をじっくりと腰を据えてできたのは「オープンマイク」といういい意味で敷居の低い企画だったからですし、そんな場があることは非常に大切です。今後も緩やかな空気で、なおかつ掘り下げた話もすることができる場として「オープンマイク」を企画していけたらと考えています。

  • 13Jun
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      彼は凄まじい混沌を抱えている。この混沌を現実から摘出し、混沌の位相を明らかにするために彼は絵を描く。世界は人間一人が全てを認識できるはずもない広さなのだが、その一端に触れることは可能なのかもしれない。作品制作はその助けになる。自らが抱える常識や当然のこととしている事柄の外に接触すること。そもそも「内」とはあまりにも小さい存在であり、「外」と対比できるものではないのだろう。世界の広がりに対して「内」を定めてしまうのはもったいないことであるようにも思う。混沌を現実から摘出するとは一体何か。それは、混沌を一種の存在として捉えてそれと対面する、または対面しようと試みる行為であるだろう。矮小化するという意味ではない。巨大なもの、手の届かないものと向き合いたいという願いや祈りがその前提にある。そして、それが具体的な行為として現れた場合、絵を描くことそのものになる。絵は混沌が存在として現前するためのトリガーになる。

  • 18Apr
    • 時形時景

      『時形時景』展を体験してくださった皆様、関係者の皆様本当にありがとうございました。---入室して左側、半紙にクレヨンで描かれた絵二点と針金が私の作品です。部屋に立ち、部屋を凝視します。凝視とともにクレヨンを握っている私の行為の痕跡が半紙に残ります。その痕跡をさらに凝視し、行為が続いていきます。そうして描かれた絵を展示させていただきました。現場の凝視は私にとってとても大切です。現場に愛情を持って向かい合うこと。向かい合う時間を大切にすること。それは私にとって作品制作を超えて、人生の営みそのものです。---

  • 26Mar
  • 20Mar
    • 【中止】4/15 収束

      本公演は中止致します。4月15日(水)『収束』@銀座 奥野ビル306号室(306project.web.fc2.com/index.htm)open/start 19:30/20:001000円出演加藤裕士凝視によって立ち現れた存在の境界を受け止めようとさらに凝視する。受信機である自分自身は吐き気がするほど鋭敏になる。時間は時間だけで自立はできない。それは自分自身も同様であり、あらゆる存在すべてが該当する。存在と存在を区別する境界を受け止めることから始まる。

  • 14Mar
    • ダイアリーソング

      galleryDEN5で開催された『ダイアリーソング』展終了しました。やはりやってみると見えてくるものも多く、今後まだまだ考えていくべきですね。・死(または鎮魂)今回の展示の通奏低音であり、私にとって(おそらく福家さんも)作品を発表する意味はもうここにしか見出せません。抽象的な概念について話していると感じられたかもしれませんが、私たち3人にとって死を見つめることは感情について見つめることだと言えます。亡くなってしまった人のことを想うとき、その死者自身の現在を想っている実感よりも、死者との記憶など過去に属することを想っている実感の方が私はあります。どこまでも死者に届かないのかもしれませんが、届くか届かないかではなく届きたいという想いを大事にしたいです。むしろこれは相手が死んでいるか生きているかも問題ではなく全く同等です。存在の感情が他の存在によって揺れるという当たり前のことを、当たり前に受け入れられるかどうか。存在と存在を区別する境界をじっと見つめること。そういったことを考えています。・美術と音楽の違い私が普段演奏活動をしていることが多く、展覧会で作品を発表することが始めてだったため美術と音楽の違いについて話す機会が多かったです。私の見解は、そこに違いはない、です。美術と音楽を分かつものの一つは時間だと再認識しました。つまり今を実感することです。考え方はそれぞれだとは思いますが、私は美術作品においても今を実感することが非常に稀にあります。文学作品なども同様です。今とは一体何なのでしょうか。そもそも現在のことを現在として見つめることができるのでしょうか。常に少しだけ過去のことしか見つめることはできず、見つめることで過去は現在になる、存在は常に固定されずまた別の存在に変貌し続けている。今とは実体を持たない想像上の存在だからこそ行為を介す必要があるのでしょうし、その行為を突き詰めればいつでも今は出現する。という理想です。結局は存在についての問い掛けが根底にあることは変わらず、行為がどのような素材を媒介にして成されるかの違いだけしかなく、現場で行為や素材と向かい合うしかないということです。あと、素材への愛情はとても重要な要素です。・作品の死今月さらに掘り下げます。体験してくださった皆様、関係者の皆様、本当にありがとうございました。