幼い頃は、まだ見ぬ物や知らぬ事が多く、自分以外の何かに影響されていない自由さがある。
しかし、小学校位からだろうか、子供はだんだんと小さな自我が芽生え、他人と自分の違いというものを意識し始める。
私は早々と、保育園時代から他人を意識していた。
「なんかうちの家は他と違う。」
という家コンプレックスを感じていた。
それもそのはず、大正生まれの祖父母の家に精神病の母と暮らしていた私。
80年代にまるで戦後まもなくのような雰囲気。白黒テレビですら健在していたし。
小学校高学年にもなれば、知識も増え、また、流行りを気にして取り入れたり、みんなと一緒の共通のものを大切にしたりする。
初めはどんぐりの背比べだったものが、あの子は勉強ができる、出来ない、とか、あの子はスポーツ出来る、出来ない、とか、体型や顔などの外見が良い、悪い、など、違いに敏感になり、
自分の劣っている所などがすごく気になり、コンプレックスを持ったり、
つまり、自分と他者を比べ始める。
世界を見渡して、自分の位置付けをする、という事をし始める。
仲間外れにされないように、より強く、より大きく、自分を見せようと努力する様になる。そして目指す何者かになろうと、作り上げた自分のキャラを守ろうとする。
しかし、それが本当の自分かどうかと言うと、大抵背伸びをした自分だったり、頑張って無理してたりするのだが…。
決まったお手本があり、それを知っているという事や、それを描く事が大事になってしまったら、自分から産み出るはずの個性は出てくる事が出来ず、みんなが同じ顔になっていまう。
大人になり、様々な人間関係の中で感じることは、多くの日本人が、ほぼ同じ顔になってきてしまっている、という事だ。
正確に言うと、いくつかのキャラクターの中のどれかを、誰もが選んで、そのキャラの顔で生きている様に思う。
純粋なイマジネーションは、知識で覆い隠されてしまい、みんなが似た服装、似た髪型、似た喋り方、似た振る舞い、
そして似た職業、似た家、似た老後など、どこかで聞いた何かに当てはまった事を選んでいる様に見える。
それは、「常識」とも言い変える事が出来る。
しかし、今までのやり方が通用しなくなりつつある変化の中にあるこの時代、新しい生き方が求められているが、
常識によって新しい発見は生まれるはずもない。
当時、みんなが描いた顔は、お手本を参考にして真似して描いた絵だけれど、
私が描いた「バイ菌マン」は、正に白紙のキャンバスに、何の予備知識も無く、自分の中からのみ溢れる無垢で自由なオリジナリティがあったのだ。
その絵には、間違いも正解も無く、ただ、純粋なものが描かれていた。
あの時もしも、まだ、みんなが「アンパンマン」の事を知らなかったら、もっと様々な色の顔が描かれていたのではないか?
それが、真の個性である。
大人になるために、一生懸命集めた知識達だが、それを一旦手放し、素の状態に戻る事が、新たな閃きが産みだすベースとなり得るのではないだろうか。
新しいクリエーションは知識や知識の組み合わせでは無く、
誰もが元々持っているイマジネーションの中にあると言えるだろう。
インターネットが普及し、情報が溢れ、重きが知識に偏りがちな世の中で、
見た事も無い何かを創造するのは、テレビやスマホの画面の中では無く、
ワタシという仮面の内側にある事を「バイ菌マン」が思い出させてくれたのだった。