目の前に、取っ手の折れたコーヒーカップがある。

娘と息子が小学生だった頃に、少ないお小遣いを出し合い、私の誕生日にサプライズで贈ってくれたもの。

長く使っているうちに取っ手は折れてしまった。

それでも、このカップを使い続けている。

10年近く使っていてはじめて思うことがあった。

最近、イマヌエル・カントの本(「カント入門」石川文康著)を読んだ。

カントは、私たちが世界を「そのまま」知っているわけではないと言った。

私たちが触れ、見て、感じているものは「現象」。
それは、私たちの感覚や経験、記憶を通して立ち上がってくる世界。
一方で、「物自体」──それが本当は何であるかは、人間には分からない。

このカップも同じ。
陶器で、取っ手が壊れていて、機能的には不完全。
それが「客観的事実」だとすれば、もう使わないという選択もある。

けれど私にとって、このカップはそうは現れない。

子どもたちの少し照れた顔。
「おめでとう」と差し出された瞬間の空気。
使うたびに積み重なった時間。
それらすべてを引き連れて、このカップは私の前に現れている。

価値は、物の中に最初から入っているものではない。
私たちが世界とどう関わり、どう意味づけて生きているかの中で、立ち上がってくるもの。

取っ手の折れたこのカップは、
完璧でなくても、壊れていても、
それでも「大切なもの」として、ここに在り続けている。

カントは、わけわからん。(あるYouTube番組で紹介されていたので読んでみたんだけど……。)
2,3回読んだところで、到底太刀打ちできない(入門編なのに)。

それでも、
Chat-GPTに助けてもらいながら読み進めているうちに、少しずつ目の前のモノの見え方が気になり始めた。

少しワクワクする。

今日もこのカップで、コーヒーを飲んだ。