山路きて何やらゆかしすみれ草
よく見ればなづな花咲く垣根かな 芭蕉
風流人は、かように、どうしようもなく地味な花、諸君が急いで踏みしだいて歩く道辺の草に想いを致すのである。見捨てることができないのである。

「小さい秋」を見つける。
秋来ぬと目にはさやかに見えないけれど風の音に秋の到来を発見する。
風流人は自然界の機微を見いだしては「どーだ」とドヤ顔しているわけ、ではない。

「もののあはれ」を言い立てた本居宣長は、「今の世の百姓といふものは、いともいともあはれにふびんなる物也」と言い、みすぼらしいあはれを見逃してはいない。
「一揆を起すとは、百姓にとっては、極めて尋常な自己防衛策であると、宣長は解している。」(小林秀雄『本居宣長』)

風流人は花鳥風月を愛でておればいいと思ったら大間違いである。か細く・へたり込んでいる・歌を忘れたカナリアにまで想いを致すべきである。

■四十九日
四十九日の法事。
行ってまいりました。
某寺で法要を済ませ、山間の墓に遺骨を納めた。
その後城西館で精進落とし。
さすがに美味かったけれど、みんな車だからアルコールはなし。こんなんでいいのか。急ぎ帰って酒にしたのは言うまでもない。これも供養である。