色川大吉の『明治の文化』(岩波文庫 同時代ライブラリー)にこんな一節が。

《三多摩を放浪してみずからの思想の原体験をえた北村透谷、あかるい南の国土佐の佐川の豪商の家から、大旆(たいはい 中国で将軍が用いた竜の旗 どこかに残っているはずと牧野は言っていた。お気楽亭註)をかざして自由党野外懇親会にあらわれ、理学会をつくって学んだ牧野富太郎、日本の中央、アルプスの山々にかこまれた信州盆地で自由のよびかけに感激して成人した木下尚江、愛媛の松山で地方政談演説会にこぶしをふるって参加したという少年正岡子規等々。》

えらいところに列座しております。
牧野の自叙伝では以下のように。

《当時は自由党が盛んで、「自由は土佐の山間から出る」とまでいわれ、土佐の人々は大いに気勢を挙げていた。本尊は板垣退助で、土佐一国は自由党の国であった。従って私の郷里も全村こぞって自由党員であり、私も熱心な自由党の一員であった。当時は私も政治に関する書物を随分読んだものだ。殊に英国のスペンサアの本などは愛読した。人間は自由で、平等の権利を持つべきであるという主張の下に、日本の政府も自由を尊重する政府でなければいかん。圧制を行う政府は、打倒せねばならん云々》

「らんまん」では植木枝盛と会ったことになっている。
植木のアジテーションを聞いたこともあるかもしれん。
牧野は植物の研究をしたくてたまらないので、何も政治で身を立てるわけではないとしてさっさと脱退した。同志もそれを許してくれる。

色川大吉の『明治の文化』、『植木枝盛選集』(岩波文庫)も面白いから、ご用とお急ぎでなかったら読んでください。
忙しい?
けっこう。明治の青年らも忙しかったぜ。
忙しくても、愉快で忙しかったんだな。
貧乏で忙しいのとは違う。
貧乏人の仮託の構造を理解せんならん。