以下の文中にある沢田マンションです。
建設中に使われた巻上げ機が
オブジェのように置いてあります。
クレーンも見えますでしょ。
部屋が空くのを待っている人が大勢います。
詳しくは本を読んでください。
人間の生涯で体験しうる世界はタカが知れています。
たかだか何十年の体験と
(本で読んだとか、人から聞いたとかの)知見です。
火星や金星に行ってきたとか、M71星雲のウルトラの星とか、
楊貴妃の生まれ変わりだとかは、みな妄想だと言えます。
ただ、感情移入という芸当はできる。
石ころでも、波でも、金星でも、流れ星でも、植物でも、
他人でも、このモノに(自分の)スピリッツを感じる、こと。
つい最近まで、精神の鏡として有効だった。
「感情移入」みたいな言葉は紅毛碧眼の概念で、好かんな。
自然と地続きで交感できるスピリッツ、と言った方がいいか。
宮沢賢治やアメリカン・インディアンを持ち出してもいい、
風の音にも<精神>が宿っていました。
一木一草にも神が宿る、というのは、洒落や比喩ではなく、
文字通りそう信じられていた時代はそう遠くない。
えーと、実はですね、ぼくは「神」を<喩>だとおもっています。
言葉では上手に展開できないけれど、間違いなく、多分。
つい身近にありながら、ぜったい体験できないのが、死、です。
人間にとって、最後の謎が「生誕」と「死」です。
どちらも、ありふれた生理の帰結のはずなんですが、ねえ。
1969年、キューブラー・ロスが『死ぬ瞬間』を出版してから、
ニアデス問題が、民間伝承やオカルトや胡散臭い忌避すべきもの
ではなく、探求すべき難問(科学や数学の○○問題のように)とし
て、世界中から注目されるようになりました。
先日読んだ『沢田マンション物語』(情報センター出版局)にも、
「向こう岸もこっちの岸も広ーいところで、
川はどっちに流れようかわからんくらいきれいで平ら。
川のむこうは花園、手前も花園。
モノクロだけどすごく明るくて、光っちょった。
そいで、むこうの岸で、白い着物を着た人が2,3人そっちこっち
しながら、手を振りよった。とにかくきれいながで。
そいで、むこうに行こうとしたが、
誰かが引っ張ってくれようがね。」
という(土佐弁)の臨死体験のエピソードがありました。
これからマンション経営をお考えの方は、一読をお薦めします。
設計から施工、すべて一人(と家族)で作りました。
今も変容中で、自作のクレーンが屋上から伸びております。
高知のサグラダ・ファミリア教会(ガウディ)と言われており、
『高知遺産』にもなっております。
サグラダ・ファミリアと言うより、ガウディの住宅としては
最後の作品である「ラ・ペドラレ」かな?と思います。
この、<川>と<花園>と<光>の死のイメージが、
日本固有のものか、アジア・アフリカや西欧に共通する
普遍的なパターンなのか、よく知りませんが、
ケネス・リングの『いまわのきわに見る死の世界』(講談社)でも、
ニア・デス体験に頻出する類型として、
頻出度1.安らぎ
2.身体の分離
3.暗闇に入る
4.光を見る
5.光の世界に入る
を挙げているところを見ると、
(文化の)地域差はある、らしいことと、
ほとんど普遍的な・元型的なパターンがあることが分かります。
一様に、死の世界(のイメージ)が、ふつうに思われている
恐れやおののき、とは全く違っていることを受け取り、
生に帰還していること、これは驚くべきことです。
ぼくなんか、死んだら地獄の業火に焼かれるんだろうなー。
タバコの自動販売機でひとのお釣りをラッキーと言って、
頂戴したことあるもんなー。
どうやら、そんな心配はいらないらしい。
宮沢賢治は、
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
と言いました。
このお節介は何だろな、と長年気になっていましたが、
ここにきて、やっと腑に落ちました。
死の現場は、すっかり医者に奪われていますがね、
全国の宗教家諸君!
仕事が楽になったと思ったら大間違いなのである。
臨死(ニアデス)の際、論理的な認識能力から始まって、
視覚、味覚・痛覚・触覚、嗅覚、聴覚と減衰の波が襲ってくる。
臨死状態における二つのパターンがあります。
暗いところを抜けたら光があった、や、「三途の川」のイメージ。
ベッドで横たわっているわたしのまわりで、
医師や看護婦が慌てふためいているのを天井から眺めている、
イメージ。
これを、脳生理のありふれた反応であるという考え方もできます。
エンドルフィンの分泌による快感の幻覚であるとか。
前者は、酸欠状態の脳にいかにもありそうですし、
後者は、古代から魂が肉体から離脱して天国へ向かうヴィジョンの
原型になったものと思われますが、これも、脳が組織できなかった
ために浮遊するしかなかった聴覚イメージなのかもしれない。
判定でこちらの方に軍配が上がるかもしれませんが、
ぼくの興味は、どっちかと言えば、そこじゃあない。
うーん、何と言えばいいんでしょう。
「死は体験するものではない。考えるだけで十分。」
ってことでもないし、
「あらかじめ死を乗り越える」ってことでもない。
(→これは仏教の悲願でした。ことに浄土真宗。)
いわば、「論理学にとっての死」=「死の論理学」、です。
ま、この辺はどうでもいいや(たぶん、あなたには)。
肉親などの死の現認と報道された他人の死、死の幻視体験、
および流布されている死のイメージ(概念)。
これが人間の知りうる死のすべてです。
それ以上、追求したって何になる?
死は論ずるものではなく、(いずれ)体験するべきものだし、
だいいち、生は死を遠ざけながら生の領域を増築するものでは
ないか?
仏教も医者も死を始末するのに心を悩ませました。
医者は死を宣告すればいいって?
そりゃ、違います。
脳死問題から、臓器移植、体外受精、安楽死問題等々山積み。
宗教上の戒律で輸血を拒否する人もいるし、
心肺機能のみのテクニカルな延命策に疑問を感じ、
(親族の意向も受け)その施策をストップさせたら、
見事に「殺人犯」になってしまった医師もいます。
道元も、
「生を明らめ、死を明らめるは、仏家一大事の因縁なり」
と言いました。
これ以上書くのがイヤになるほどの泥沼状態のメールになりました。
ここまで読んでくれたあなたに謝意を表して、
ひとまず、幕、とさせていただきます。
ホー リン チンツァイライ。
何日君再来。いつの日かまたお会いしましょう。
仕切りなおしのもう一番が、うーん、あるかも。
実際のニアデス体験譚は、これよりか500倍は面白いんだから。
■速報■
と、だらだらと、いやになりながら書きました、が、
数日前、ブックオッフで、立花隆の『臨死体験(上)』を見つけ、
なんと、この厚さで、たった105円!買わにゃ、ソンです。
買いました。どーせ、読みもしないだろーなー、と思いながら。
これが、めちゃくちゃ面白い。
あっという間に一冊読破、ってのもわたしには珍しいことです。
研究者も臨死体験者も、あやしげなところに踏み入れるところが、
ことのほか、おもしろかったです。
ぜひ、お読みください。
105円でゲットできることを祈念してネ。ではまた。
悔しまぎれに言っときます。
この話は、あなたが思っている以上に、面白い! 2006.2.10