30年以上前のこと。
M町からS町に通じるA青年の好きな路地の真っ正面に、
大きな夕陽が沈んで行きましたとさ。
女との別れ話もあろうし、
思想的な鬱屈もあろうし、
経済的な窮乏もあろうし、
闇鍋みたいな煩悶の横丁の路地の向こうに落ちていく夕陽だ。
陽炎のような青春期に、陽炎のように落ちていく夕陽だ。
なんてコンチクショーなお日さまなんだろう。
道には蹴っ飛ばす石ころもなかったとさ。
夕日をいっぱいポッケに詰め込んで
丘の上を走ったら
燃えるキリンと呼ばれたい
ああ、多分、こんな夕陽とは、二度と会うことはないだろうな。
と、思ったら、無性に写真に撮っておきたくなったとさ。
もちろん、彼がカメラなど高価なものを持っているわけもない。
どんな光景も、出会った瞬間に、過去になる。
どんなに輝いていても時間の箒によって「過去」に掃き捨てられる。
でもね、
「時間」とは、決して、よその世界からやって来て何でもかんでも かっさらって行く恐ろしい神さま(名前はクロノスといいます)じゃないよ。ニュートン力学では、時空とはその中でイベントが生起 する舞台であり、絶対的な容器、あるいは尺度であったが、アイン シュタインは、そのような「絶対」を「相対」に組み換えてしまった。時空は、等方的で一様なものではなく、重力を係数とする非ユークリッドな幾何学を持つ、と。
とかなんとか、科学史には書いていますがね、それより一世紀も前に、ヘーゲルは「時間とは生成と死滅の抽象である」と言っておるのである。(?)
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
人間とは、
無常の世と、その反語である常世(とこよ)とがせめぎ合う「場」
なんかもしれん。 ↓
↓
死の世界、つまり静止した時間だ。
写真集『ヨーロッパ・静止した時間』は、奈良原一高だったっけ。
星は、永遠など欲っしはしない。
生命は、継続を望むだけで、
人間だけが「永遠」なんぞを発明したのだ。
写真は、一瞬を「永遠」の祭壇に捧げる供物なのでしょう。
「時間よ、止まれ」というのは、
「ロメオとジュリエット」だけではなく、
人間の止みがたい・理不尽な願いなのだよねえ。
as time goes by ♪時の過ぎ行くままに
それができないから、いまだに人間やっているんじゃないか!
儚(はかな)いものに、「永遠」のまぼろしを見出そうとしているのさ。
あ、見つけた。何を?
永遠を。海に融けいる。 アルチュール・ランボー
人間に意識が生まれた時から、人間は「永遠」に憑かれている。
ま、つまり、人間ちゅうのんは、病気なわけよ。
病気にすがってやっと生きておるのだよ。
一瞬よ、永遠たれ!
この無理矢理が、写真である。
で、感性的には、滅びゆくものへの哀惜がモティベーションとなる。
常同的に繰り返されるものには、カメラは価値を置かない。
美しいものに、ではない。
カメラは、滅んでいくものにしか興味はないのだ。
老Aは、今も、
町の路地裏を、
誰も渡らなくなった朽ちた橋の上を、
集落の石垣の陰を、彷徨っている。
滅び去る前に、せめて彼の脳髄に焼き付けておこうと。
しかし、哀れなことに、彼の衰えたメモリーは、
一晩寝たらきれいに消えてしまうんである。
2003.6.7