070822 続・人形愛の美学
なんだか、ゾクゾクしてきたな。
「イタコっち」にリ・コメントです。
人形は、たしかにヘンだ。
生きている人間を揺さぶる。
夏らしく怪談のテーマになります。



兵馬俑や土偶や、そこいらの人形(かたしろ、とも言う)は、生きている人間の切望が練り固められている。その<代理>であったのだ。
つまり、人身御供の代理です。「にせもの」でも、似せておればいいのです。「似る」あるいは「似せる」工作が出来るようになったおかげで、これが人類史上革命的な「代替品」の発明となりました。



敵を平らげるシュミレーションや、収穫を予兆=呼び込んだり、不吉を鎮めたり、死者の未来を用意したり霊を鎮めたりの、観念的ジャンプやワープは、「擬似」という(精神的な)テクニックを発案した時から始まりました。



ですから、人形や写真にも「かたしろ」としての霊力は宿ります。
牛の刻参りの藁人形や、憎っくきあいつの髪の毛一すじや、「ご真影」にも、イメージが集中できさえすれば「代理」できるのです。



うちの婆さまは、写真は姿が写っている限り捨てられないと言って、大事に保存しております。これも「かたしろ」が持つ霊力と考えるべきでしょう。(この辺、当お気楽亭の「写真論」参照。)
「首都」とか「都会」とか「世界」とか「資本・貨幣」とかだって、霊力が宿っていなければ、それほどの規範力は持たないはずだと言える。いみじくも、マルクスは「物神」という言葉を使いました。物に神が宿るんなら、みなさん、拝跪(はいき)もするでしょう。わたしも銭を拝み奉(たてまつ)っておりますが、いっかなわたしのとこには集まりません。信心が足りないのでしょう。



人形は、予祝(出産・収穫・成人、戦争などの前祝い)や「形見」を仮託されております。罰も、当然あります。予祝を違(たが)えると模擬品たる人形に罰(折檻)を与えるのです。「こんな結果を出すんだったら覚悟ををし」です。
虐待母さんにとって我が子は、かたしろ=「人形」みたいなものなのでしょうね。わたしの本当の子はこんなんじゃない、というんです。女は古代帰りしやすい。リアリティが観念的とも言える。



 危ないなー。ウーマン・リブから怒られそう。続く。
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