本当は、ですね。
生きている人間が欲しいのだ。被写体としては。
たまに土電(路面電車では日本最古の土佐電鉄)に乗ると、向かい
に座っている人たちを無性にスケッチか、写真に撮りたくなります。
 そんなことって、ない?
 僕だけかよ、ヘンタイは。



ま、電車の中で写真撮りまくるのは乱暴だとしても、
一般に、カメラを向けると、カメラシャイ、と言いますか、
被写体が乱されてしまいます。
猫だってカメラ向ければ逃げる。まして人間をや。
気の弱い僕には、そんな厚かましいこと、できませんです。
カメラシャイはカメラを持つ方にも過分にある。



カメラ如きに、でも、そんなパワーがあるんでしょうか?
あるんでしょーねー。
自分、防犯カメラだけじゃなく、撮られるの嫌いっす。
そんなの設置している店は、避けます。
天地神明にかけて、俺にやましいとこはイッコもなーい!のにね。
防犯カメラの前では、全員犯罪者予備軍である。



ま、その程度の威力はあるわけだ。



月を望遠鏡で見て、お月さまが恥ずかしがることはない。
ですけど、ミクロの世界では、それは、あります。
X線にしろ、普通の光にしろ、結構パワーがありますから、
ミクロな対象物には破壊的な作用を持つことがあります。
イカを観察するつもりが、見えたのはスルメだった、みたいな。



夜行生動物を観察するためにライトアップするようなもので、
科学の世界では、「観察」における対象の被拘束性・被規定性問題
と言われています。民族(俗)学のフィールドワークでも同様です。



結晶構造や分子レベルのものを見るには、可視光線よりもなお波長
の短い光を当てねばなりませんが、エネルギーは波長に反比例する
ので、分解能を上げ、原子核のような微小な構造まで観察しようと
すると、人工的に磁場を作った加速器まで必要になってくる。
X線やガンマ線で何をするかと言えば、<構造>を破壊することで
発生する粒子をもって構造を類推するってことです。



はて?観察は一種の破壊活動である、か?



カメラを向けることは、犯罪行為と異ならない。
「魂を吸い取る」ほどの神威をカメラが持っているわけはないのに、
かすめ取られることに防衛反応を示す。
「観察」とは強盗行為の一種なのです。
(あらゆるシーンでも、ね。)
防犯カメラは、コントラ(逆)犯罪、ってことです。



木村伊兵衛や桑原甲子雄、土門拳、東松照明らの巨匠たちも、
それを飼い慣らしたかのように見せるために、
たまさかの一枚を示すために、
何千枚のネガを没にしたか知れやしない。
一枚の作品の陰に、何百回のシャッターが押されたことか・・・。



ことほど左様に、人を撮るのは困難な作業なのです。
「撮って、撮って!」と言う人も、
いぶかしげに構える人も、写真家の気にはくわない。
「観察」にフリーな対象こそ、彼の欲しいものなのです。



やっぱり、なにかねー。
盗撮が一番かねー。



あたしゃ、ちゃぶ台をひっくり返すことと盗撮は男のロマン、
だと思いますよ。
星一徹か、田代まさしか、!?
男のロマンも生き難い時代とはなりましたね、ご同輩。



この「同報版」の送信先に一人ぐらいは盗撮ファンがいてほしいもの
だと、わたくし思います。



いーじゃね~かよ。
カメラを持ったら、誰でも、盗撮者だって。



でもね、仁義だけは尽くしてね。
ぼくは美に殉じてるのです、って言い切れるぐらいのね。
                          2005.4.2